「百人斬り競争」論争の真の争点は何か
前回の末尾で「さらに、論争としての『百人斬り競争』の真否に迫ってみたい」と申しました。東京高裁判決文では「『百人斬り競争』の話の真否」となっており、その「真否に関しては、現在に至るまで、肯定、否定の見解が交錯し、さまざまな著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にある」と述べられています。 しかし、よく考えてみると、その真否を問うべき「『百人斬り競争』の話」とは、そもそもどういう「話」なのでしょうか。裁判における議論を聞いていると、あたかも両少尉が、捕虜及び非戦闘員である中国人を一人でも二人でも斬ったことがあるかどうかが争われているかのような印象を受けますが、実はそんなことは、この「話」の争点ではないのです。その真の争点とは、両少尉がそれによって南京法廷において死刑判決を受けたその訴因、そこで認定された「事実」の真否が問われているのです。 南京軍事法廷の判決文は次のようにいっています。 要するに、向井、野田両少尉は南京戦で捕虜及び非戦闘員の屠殺競争を娯楽として行い、野田は合計105名、向井は106名を斬殺した事実は、「東京日日新聞」の記事によって明らかである。また、この殺人競争は、谷寿夫裁判の確定判決文にもある通り、19万人に上る中国人俘虜軍民の集団的殺戮の一部として行われたものである。また、両少尉は、この罪責をごまかすため「東京日日新聞」の記事はほら話を記載したものであり、それは日本女性の人気を博して良縁を得るためだったと弁明した。しかし、日本軍はこの作戦期間中新聞の検閲を行っており、特に「東京日日新聞」は日本の代表的な新聞であり、もし、その殺人競争がなかったとすれば、その貴重な紙面を割いて被告の宣伝をするはずがなく、従って、その記載内容は「伝聞」ではなく確実の証拠となる、といっているのです。 つまり、こうした恐るべき事実認定が、「東京日日新聞」に記載された「百人斬り競争」の記事を唯一の証拠としてなされ、その結果、両少尉に死刑判決が下されたということ。その新聞記事は、日本人の新聞記者が日本の一流新聞に書いたものであるがゆえに、単なる「伝聞」とは見なされず、十分にその判決の基礎となるべき証拠とされたということ。では、なぜ、元来は単なる戦意高揚のため武勇を伝えるはずのこの記事が、このような恐るべき判決をもたらしたのか、こうした問に答えることにこそ、「百人斬り競争」という「話」のその真否を問う意味があるのです。 『「南京大虐殺」のまぼろし』の著者鈴木明は、その続編『新「南京大虐殺」のまぼろし』のなかで、「『百人斬り』の向井、野田両少尉を、僕はなぜ無罪だと信じるのか」について、両少尉の死刑判決後、裁判長石美瑜に提出された「上訴申辨書」が崔培均という中国人弁護士によって書かれたことを最大の理由としています。その「上訴申辨書」には、判決は「東京日日新聞」の記事だけを証拠としていること。中国の最高法院判例でも、犯罪事実は必ず積極証拠によって認定されなければならず、新聞記事は証拠にできない等が主張されています。つまり、この法廷には、「向井、野田両名が実際に中国人を斬っている場面を証言した人間は、軍人、一般市民を問わず、誰一人いなかった」のであり、「積極証拠」は何一つ提出されなかったのです。(上掲書p313) 従って、これを刑事裁判としてみれば、東京裁判の予備審理で向井少尉が不起訴となったように、伝聞証拠だけで両少尉を有罪にすることはできませんから、この南京法廷における判決が不当であることは言うまでもありません。では、なぜこのような無茶な判決が出されたのかというと、これはこの判決文を見れば明らかなように、戦後の東京裁判において、中国が南京事件を「南京大虐殺」として立証しようとした際、他に有用な「積極証拠」が得られなかったために、「百人斬り競争」の新聞記事が、その大虐殺の一部を「自白」する格好の証拠として利用されてしまった、おそらくこれが、事の真相ではないかと思います。 もちろん、いわゆる「南京事件」においてどれだけの不当殺害がなされたか、ということについては、南京大虐殺論争が開始されて以降、調査研究が深められており、偕行社の『南京戦史』でも、不当殺害と認定されるべき事実が相当数あったことを認めています。しかし、その内容と、東京裁判における中国側証人の供述内容とは、今日までの研究成果に照らしてもその懸隔甚だしく、政治謀略的要素が濃厚であり、実は、こうした傾向の一端が、この南京法廷における「百人斬り競争」裁判にはからずも露呈した、と見ることができると思います。 こうした推測を裏付けるものは、この事件に関する「東京裁判記録」にも残されており、その代表的なものは、「南京地方法院主席検察官」のいう肩書きの陳光虞と署名のある「宣誓供述書」で、その前文に次のようにある、と鈴木明が指摘しています。この「南京地方法院」では、1945年11月7日所定の文書を印刷して一般の市民に告知し、南京市民がどのように日本軍に暴行を受けたか、そのアンケート調査を南京中央調査統計局ほか14の部門を総動員して実施しました。ところが、その宣誓供述書の冒頭には、 また、こうした中国の政治謀略活動については、北村徹氏が次のような指摘をしています。 (以下、2パラグラフ追記12/12) 「我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をを出すべきでなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。(中略)この後ティンパーリーはその通りにやり、(中略)二つの書物は売れ行きの良い書物となり宣伝の目的を達した。」(『「南京事件」の探求』北村稔p41~43) ここに出てくるスマイスとは、昭和12年12月13日南京陥落後、安全地帯(市民の非難地帯)で発生した事件の記録「市民重大被害報告」をもとに「安全地帯記録輯」をまとめた人物で、ティンパーリーの書いた『戦争とは何か』にはその全件数の45%が付録として掲載されています。(『南京「虐殺」研究』の最前線〈H14〉P193)そして、その本の付録の一つに、『ジャパン・アドバタイザー』に転載された東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事がありました。(その転載記事は、オリジナル記事とは微妙に異なり、相手は兵士ではなく中国人となり、また、この競技は、”遊び(fun)”だ、とされていた)そして、その記事が「日軍暴行紀実」として出版されたことから、この話が中国人に知られるようになったとされますが、実は、この背後には国民党国際宣伝処が控えていたのです。 この間の事情、武勇談のはずの記事が、なぜ、殺人競争を行ったと告発されることになったか、そのプロセスについては「”虚報”のメカニズムとその恐るべき帰結」で詳説しましたのでここでは繰り返しませんが、要するにこの記事が「虚報」であったことがその第一の原因なのです。 山本七平は、次のように言っています。 「そうしておいて二人をあくまでも軍人として描く。するとこの虚報の受け手は無意識のうちにそれを補ってしまう。・・・すなわち、二人を・・・あくまでも第一線の歩兵小隊長という印象を与えるように書く。当時の日本人の通念では、歩兵小隊長とは、着剣して六歩間隔に展開した散兵の先頭に立ち・・・日本刀を振りかざして敵陣に突入するものであった。そしてそう思わせる描写に誘導されると、この架空の二小隊長の直属上官すなわち中隊長までが、ごく自然に創作されてしまう。これが本多版『百人斬り』に登場する上官である。いわば「上官」のいない軍人は、天皇以外にはありえないから創作されてしまうわけである。こうなると『百人斬り』はまさに『虚報作成の原則』の通り」である。 「従って『百人斬り』も・・・発表部分の一部は非常に正確である。そして消した部分は永久にわからない。否、わからないであろうと、本多氏も浅海氏もたかをくくっている。・・・(私は)日本を破滅させたのは虚報」だと思っているが、『私はこれを『国民をだました』という点で問題にしているのではない。虚報の恐ろしい点は、内部の人間に幻影を与えてめくら以下にしてしまうだけではない。・・・内部の人間がそのようになるのに比例して、外部に対しては的確な情報を提供して、すべての意図を明らかにしてしまう結果になるからである。」 「前にも言った通り、その者のもっている情報の総量を知っている者には、そのうちのどれを発表し、どれを隠したは一目瞭然である。そうなると、この発表された部分と隠した部分を対比さえすれば、相手の意図、目的、実情、希望的観測、潜在的願望といったものが、手にとるようにわかるのである。」 「日本の陸海軍の首脳は、今でも、自分で何かをしたつもりでいるかも知れないが、実は潜在的願望も秘匿した企図もすべて見抜かれ、その希望的観測を巧みに誘導されて、真珠湾から終戦まで、文字通り鼻面をつかんで引きずまわされていたのであろう、と私は思っている。・・・」 「国内向けの虚報が国外に出て行き、それがはねかえってきて恐るべき惨劇を起こしたというこの図式は、この点でもまた、そのまま『百人斬り』にもあてはまる。」「(このような)『頓馬なセンセーショナリズム』のみの記事は、これでもかこれでもかと、洪水のように紙面にあふれ、私などを『嫌悪症』に陥れるほどひどかった。ある意味でこの記事は九牛の一毛にすぎない。従って浅海特派員自身が、自分の記事が『戦犯』の証拠として出現しようなどとは、全く夢想だにできず、誰かが予言しても信じなかったであろう。」 「この記事が再び事実として報道され、だれ一人疑わぬ事実として通ることは、外形は変わり表現は変わっても、国民全体の心理状態は昭和十二年当時と非常に似ている証拠かも知れない。・・・今の何らかの新聞記事を証拠に、まただれかが絞首台にひかれて行っても、いま傲然とすべてを蔑視している人やグループが、あき缶をぶら下げて一列に並び、ひしゃくでつがれる水のようなカユをそれに受けてすすっていても、私は少しも驚かないし、悲しまないし、絶望もしない──私がそれらの一員であろうとなかろうと。虚報の描出する幻影のみを見ていれば、それが起こる方が当然なのかも知れない。それはかって起こった。従って当然将来も起こりうるし、起こって少しも不思議ではない。」(『私の中の日本軍上』P230~240) |