「百人斬り競争」報道は”やらせ”

2007年12月 1日 (土)

  前回申しましたように、この「百人斬り競争」という新聞報道と、それにつづく二少尉の南京法廷における「俘虜及非戦闘員の屠殺」犯としての処刑という事件は、当時のマスコミによる戦意高揚という「軍部に対するごますり記事」=虚報が生んだ「悲劇」なのです。つまり、一種の「やらせ」報道事件であって、本来なら、「やらせ」をした記者や新聞社の責任が問われて然るべきなのに、この事件では、「やらせ」で武勇伝を語らされた二少尉が、戦後、「南京大虐殺」を象徴する残虐犯として処刑され、いまもなお「南京大虐殺記念館」にその写真が掲示され、その汚名がすすがれないまま今日に至っているのです。

  このことについて東京高裁の「百人斬り競争」裁判の判決は、東京日日新聞に掲載された「百人斬り競争」の新聞記事の内容は「甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である」としています。しかし、両少尉が「百人斬り競争」をすると記者に話していたことや、野田少尉が一時帰郷した時に、記者の取材や講演等でそれを認めていたことなどを取り上げ、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、『百人斬り競争』の記事が作成された」としています。つまり、両少尉が「『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をしたこと自体は否定でき」ず、従って、東京日日新聞の「百人斬り競争」の新聞記事を記者の創作であり「全くの虚偽」とは認められない、としているのです。

 しかし、その「新聞報道されることに違和感を持たない競争」について、本多勝一氏らが「両少尉が、『百人斬り』と称せられる殺人競争において、捕虜兵を中心とした多数の中国人をいわゆる『据えもの斬り』にするなどとして殺害した」と主張していることについて、「いかに戦争中に行われた行為であるとはいえ、両少尉が戦闘行為を超えた残虐な行為を行ったとの印象を与えるものであり、両少尉の社会的評価を低下させる重大な事実」と認定されるものであるともいっています。しかし、それは、「歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由」に関わるものなので、遺族の主張が認められるためには「少なくとも、個人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実または論評若しくはその摘示事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要する」といっています。

 もし、この「百人斬り競争」裁判が刑事裁判であったならば、両少尉の犯罪事実を訴えるものがその挙証責任を負うわけです。しかし、この裁判は両少尉の名誉の回復やその遺族の故人に対する敬愛追慕の情(一種の人格的利益)の侵害を訴えた民事裁判ですから、その挙証責任は原告側が負わなければなりませんでした。つまり、こうした原告の主張が認められるためには、本多記者や朝日新聞の主張する「摘示事実または論評若しくはその摘示事実の重要な部分が、全くの虚偽であること」を立証する義務が原告側に課せられたわけです。しかし、それは極めて困難なことで、原告側はこれを立証することができませんでした。

 結局、全面敗訴だったわけですが、しかし、これで、両少尉の犯罪事実が立証されたというわけでは全くありません。そうではなくて、判決がいっていることは、東京日日新聞に掲載された「百人斬り競争」の新聞記事の内容は「甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である」が、しかし、それが新聞記者の創作による「全くの虚偽」であるということは、未だ立証されていない、といっているに過ぎないのです。つまり、「『百人斬り競争』の話の真否に関しては、・・・現在に至るまで、肯定、否定の見解が交錯し、さまざまな著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にあ」り論争は継続中だといっているのです。

 私が、本稿を書き始めたのも、この裁判の以上のような結末について、あたかも、本多勝一氏らの主張──「両少尉が、『百人斬り』と称せられる殺人競争において、捕虜兵を中心とした多数の中国人をいわゆる『据えもの斬り』にするなどとして殺害したとの事実摘示──が事実として認定されたかのように論評するものがネット上に見られるので、そうではないと指摘するためでした。それと同時に、この裁判における原告側の主張に、今までの論争の経過、特にイザヤ・ベンダサンや山本七平の論証の成果を生かしていないと思われる部分が見受けられたので、それを指摘し今後の論争に生かすべきと思ったのです。

 原告の主張のうち、その論証があいまいなため、余計な反証を招いてしまったと思われる部分は次の二点です。

一、原告側は、「百人斬り競争」を報じた東京日日新聞の記事が、浅海記者の創作記事であり、虚偽であると主張したこと。

 これについては、前回紹介した通り、山本七平は、「百人斬り競争」の新聞記事の全てが記者の創作であるとはいっておらず、二少尉が語ったと思われる部分と記者による創作と思われる部分を区別しようとしたのです。氏は、まず、無錫における両少尉と浅海記者の三者談合の存在を指摘し、常州では、浅海記者は佐藤振寿カメラマンを呼んで両少尉に「百人斬り」の”やらせ会見”をさせた。その時、佐藤カメラマンは両少尉が副官と歩兵砲小隊長であることを知り、この話を信用しなかったが、浅海記者はこの話を二人の歩兵小隊長の話に作り変え、常州ではじめて二少尉を取材したように装って第一報を送った。従って、この記事中、歩兵小隊長の戦闘行為として記述されている部分は記者による創作、としたのです。

二、原告側は、紫金山攻撃については、歩兵第三十三連帯の地域であり、冨山大隊は紫金山を攻撃していないと主張したこと。

 これは第四報の記事内容について述べたものですが、山本七平は、この記事は、昭和12年12月10日における向井、野田両少尉の紫金山某所における会見と、11日の紫金山山麓における向井少尉、鈴木二郎記者及び浅海記者3人の会合の二回あったように書いているが、鈴木二郎記者の証言から判断して、実際にあった会見は、11日の野田少尉を含めた4人の会見だけだとしました。ではなぜこのような記事構成にしたかというと、一報の記事との整合性を図るためである。(「百人斬り競争」という創作記事をここで完結させるため、及びベンダサンの指摘した、「100人斬り」という数を決めて時間を争う競技を、戦場では無理と途中で気がつき、時間を決めて数を争う競争であったかのように粉飾するため)従って、12月10日の紫金山某所における会見談話は(その言葉遣いから見ても)浅海氏の創作としました。また、向井少尉が否定している紫金山における会見とは、この12月10日の会見記事であり、向井少尉は丹陽で負傷したものの12月10日ころ紫金山東麓の霊谷寺あたりで部隊復帰し、12月11日に紫金山山麓の安全地帯で両記者と会見をしたのではないか。というのは、11日の記事中の向井少尉の談話には、敵は強かったという兵士の心理が現れており、また、極秘であるはずの毒ガス(催涙ガス)使用を口走っていることなどから見て事実と推論しているのです。また、11日の会見に鈴木二郎記者が参加していることについて、これは、第一報における佐藤振寿カメラマンの場合と同じく、三者談合の事実を知らない鈴木記者の前で、両少尉に「百人斬り競争」の”やらせ”会見をさせた、ものと見ているのです。

 以上、山本七平がこのように推断した時点では、氏は東日の「百人斬り競争」の第1報と第4報の記事だけしか知らず。その間に第2報と第3報があったことを知りませんでした。(本多勝一氏が提示した記事がこの二つだったため)また、東日の「百人斬り競争」の記事はその本社である大阪毎日新聞にも掲載されており、浅海記者の書いたオリジナル原稿はおそらく大阪毎日の「百人斬り競争」の記事であることも知りませんでした。従って、さらに、この第2,3報の記事及び大阪毎日の記事を加えて分析してみれば、この「百人斬り競争」の新聞記事が両少尉の主張する通り、三者談合にもとづく創作であることがさらに明らかになってくるのです。

 次回は、こうした点、(すでに指摘したことも含めて)にも論究しつつ、さらに、では、なぜ両少尉がこうした浅海記者による危険な記事の創作(「ねつ造」を訂正12/5)に加担させられていったかについて、山本七平の説く当時の日本軍兵士の置かれた過酷な状況や、その中における兵士の心理分析などを紹介しつつ、論争として「百人斬り競争」の真否に迫ってみたいと思います。