「百人斬り競争」論争における思想的課題

2007年10月25日 (木)

 前回述べたように、東京高裁は、「「百人斬り競争」の話の真否に関しては,前記2(1)トで認定したものも含めて,現在に至るまで,肯定,否定の見解が交錯し,様々な著述がなされており,その歴史的事実としての評価は,未だ,定まっていない状況にあると考えられる。」  といっています。2(1)トで認定されたものとは次のような見解をさします。(hanketu5参照)

「ト 「百人斬り競争」については,現在に至るまで,その存在に否定的な見解と肯定的な見解とが対立しており,当裁判所に提出された各種書籍や論稿には,以下のものがある。

(ア) 鈴木明は,上記単行本「『南京大虐殺』のまぼろし」において,向井少尉の未亡人である北岡千重子からの手紙をきっかけに,同人のほか,原告千惠子,原告エミコ,向井少尉の実弟である向井猛,浅海記者,南京軍事裁判所の裁判長であった石美瑜など関係者に対するインタビューや南京軍事裁判の資料を基に,「百人斬り競争」をルポルタージュという形式で検討した。鈴木明は,「いま僕も,全く同じように,『かりに,この小文が,"銃殺された側"の"一方的な"報告のようにみえても,終戦後の中国で,二人の戦犯がどのように行動し,それを,関係者や遺族がどう受けとめ,いまどう感じているかを知ることも,相互理解の第一前提ではないでしょうか』と問いたい。そして,同じく『百人斬り』を取材しながら,このルポで僕が取材した内容の意識と,朝日新聞の『中国の旅』の一節との間に横たわる距離の長さを思うとき,僕は改めてそこにある問題の深さに暗澹たる気持にならないではいられなかった。」と記載して,被告本多及び被告朝日らの見解を批判している(甲16)。
山本七平は,上記単行本「私の中の日本軍」において,自らの軍隊経験を中心として,「百人斬り競争」について検討し,本件日日記事第四報の取材場所があり得ないこと,本件日日記事の内容自体が軍の規律に違反するものであること,本件日日記事に使用された用語が軍隊の通常の用語とは異なること,日本刀の殺傷能力から見て,「百人斬り競争」が不可能であることなどを検討し,本件日日記事が虚報であると断定するとともに,被告本多らの見解を批判している(甲87)。

(イ) 阿羅健一は,昭和62年「聞き書 南京事件」を出版し,その後,同書の一部を「『南京事件』日本人48人の証言」で文庫本化した。阿羅は,同書において,昭和12年12月に南京で何が起こったのかについて,日本人の生存者から証言を集めており,その中には東京朝日新聞足立和雄記者,佐藤記者,鈴木記者及び浅海記者に対するインタビューが含まれている。阿羅は,その陳述書において,インタビューをした当時の状況について供述し,佐藤記者の話が信用性のあるものであったこと,鈴木記者自身は真実であると答えているが,本心は虚偽だと思っているのではないかと思われたこと,浅海記者が最後までインタビューに応じなかったこと,昭和12年当時の浅海記者を知る足立記者から,浅海記者の人柄などを含めた上で,「百人斬り競争」は創作かもしれないとの話を聞かされたこと,向井少尉の直属の部下であった田中金平から「百人斬り競争」について信用していないことなどの話を聞かされたことなどを理由として,「百人斬り競争」が創作だと確信した旨供述している(甲36,91)。

(ウ) 北村稔は,「『南京事件』の探求」において,南京戦当時の中国当局の国際宣伝と戦時対外戦略について分析し,本件日日記事の「百人斬り競争」については,当初,斬殺の対象が戦闘中の中国兵士であり,武勇伝として紹介されたものが,ジャパン・アドバタイザーに転載される際の翻訳では「剣による個々の戦闘において」と記載されていたにもかかわらず,斬殺の対象が「百人の中国人」と記述され,さらに,ティンパレーの著書に収録される際には「殺人競争」という表題が付けられ,いかにも戦闘以外での殺人を伴う戦争犯罪であるという装いがなされた旨記載している。また,北村稔は,その論稿及び陳述書において,南京軍事裁判における両少尉の判決書を分析し,本件日日記事にはない捕虜と非戦闘員の殺害が理由としてあげられていること,紫金山麓において「老幼を択ばず逢う人を斬殺」することがあり得ないこと,本件日日記事がジャパン・アドバタイザーに転載された後,さらにティンパレーによる「日軍暴行紀実」に転載される過程で,あたかも残虐事件の報道記事であるかのように仕立て上げられてしまったこと,南京軍事裁判が政治裁判であり,本件日日記事を詳しく確認せずに判断されたこと,両少尉の弁護側としても,記事の内容の真偽のみならず,本件日日記事が戦闘中の敵兵を斬り倒す描写であることを争うべきであったにもかかわらず,そうしなかったことなどを記載し,両少尉に対する死刑判決が事実誤認である旨供述している(甲52,90,143)。

(エ) 中山隆志は,その陳述書において,南京攻略戦当時において日本刀を使用した白兵戦が起きる頻度が低かったこと,南京攻略戦では捕虜取扱いについて明確な方針等が準備されず,日本軍の中でも対応が分かれていたこと,両少尉が本件日日記事第一報の内容を自ら記者に話すとは考え難く,その内容も軍事上の常識からみれば理解し難いこと,本件日日記事第二報については,向井少尉の離隊の事実と矛盾すること,本件日日記事第三報については,向井少尉の離隊の事実や冨山大隊主力が句容を攻撃することなく,通ってもいないことと矛盾すること,本件日日記事第四報については,負傷したはずの向井少尉が隣接部隊の行動地域にいることが疑問であること,南京攻略戦当時の砲兵砲小隊長と大隊副官において,白兵戦に加入するのが真に危急の場合だけであることに加え,南京攻略戦当時の新聞報道の規制状況などから見て,「百人斬り競争」があり得ない旨述べている(甲89)。
犬飼総一郎は,その論稿において,日本刀で短期間に百人も殺害できないこと,両少尉がいずれも大隊長の側近として,常時大隊本部と同行し,最前線に出ることがないこと,冨山大隊が無錫駅を発進してから南京城東の正門「中山門」に進出するまでの18日間に戦ったのが8回であること,向井少尉が昭和12年12月2日に負傷し,同月3日には野戦病院に入院していたことなどを指摘し,「大野日記」や野田少尉の手記,佐藤記者の証言などに基づき,本件日日記事が虚報であると述べている(甲115)。
なお,このほかにも,南京攻略戦に関する論稿に対する批判や本件訴訟に提出された資料の検証,戦争体験などから,本件日日記事や「据えもの百人斬り」を信用できないとする旨の供述がある(甲121,123ないし125,142)。

(オ) 鵜野晋太郎は,上記「ペンの陰謀」に「日本刀怨恨譜」を寄稿し,その中で,中国兵を並べておいて軍刀で斬首するという「据え物斬り」を行っていたこと,鵜野晋太郎自身,昭和31年に,住民,捕虜等を拷問,殺害したとの罪により中国当局によって禁固13年を言い渡されたことなどを述べ,「百人斬り競争」については,「当時私は幼稚な『天下無敵大和魂武勇伝』を盲信していたので,百人斬りはすべて『壮烈鬼神も避く肉弾戦』(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが,前述の私の体験的確信から類推して,別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合,穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが,進撃中の作戦地区では正に『斬り捨てご免』で,立ち小便勝手放題にも似た『気儘な殺人』を両少尉が『満喫』したであろうことは容易に首肯ける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが,それもそう大したことではなかったのだろう。又百人斬りの『話題の主』とあっては,進撃途上で比隣部隊から『どうぞ,どうぞ』と捕虜の提供を存分に受けたことも類推出来ようと言うものだ。要するに『据え物百人斬り競争』が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に『戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々』とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵戦で斬ったのか真偽の程はきわめて疑わしくなる。何れにせよ,こんなにはっきりしていることを『ああでもない,こうでもない』と言うこと自体馬鹿げた話だ。私を含めて何百何千もの野田・向井がいて,それは日中五○年戦争――とりわけ『支那事変』の時点での"無敵皇軍"の極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。」と記載している(乙1)。

(カ) 洞富雄は,上記「ペンの陰謀」に「『"南京大虐殺"はまぼろし』か」を寄稿し,その中で,山本七平,イザヤ・ベンダサン及び鈴木明の見解を批判するとともに,「それはさておき,山本七平氏のとなえるような,極端な『日本刀欠陥論』はうけいれられないにしても,たとえ捕虜の殺害とはいえ,二本や三本の日本刀で一○○人もの人を斬るなどということが,はたして物理的に可能かどうか,だれしもがいちおうは疑ってみるのが常識というものであろう。したがって,野田・向井両少尉が,無錫から紫金山まで約半月の戦闘で,どちらも一○○人以上の中国兵を斬った,と彼らみずから語ったのは,あるいは『大言壮語』のきらいがあるかもしれない。だが,たとえ『百人斬り』は『大言壮語』だったとしても,それは,二人の場合,捕虜の虐殺はまったくやっていないとか,『殺人競争』は事実無根の創作だったとかいうことにはならない。」,「極東国際軍事裁判で裁判長は,『百人斬り競争』を日本軍がおかした捕虜虐殺の残虐事件としてとりあげなかった。だが,このことは向井・野田両少尉を『不起訴』にしたとか,『無罪』にしたとかいうことを意味するものではない。極東国際軍事裁判はA級戦犯を審判した法廷であるから,向井・野田両少尉は,残虐事件の証人としてこの裁判の法廷に立たされることはあっても,戦犯として裁判されるはずはないのである。しかしながら,極東国際軍事裁判における検察側の処置は,ただちに両少尉を,中国関係B・C級戦犯の容疑者として,南京の軍事裁判で裁かれる運命からまぬがれさせるよりどころになるものではなかった。」,「私は拙著『南京事件』で,この『百人斬り競争』の話を,『軍人精神を純粋培養された典型的な日本軍人である』若手将校にみられた残虐性の一例として簡単に紹介しておいた(212-3.235-6.244-5ページ)。そこでは,五味川純平氏ののべているところなどにもふれながら,斬られたものの大半は捕虜である,と考えたのであるが,この見方は今も変わっていない。でも,私はこの二人の将校は,あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐`性を責めるのではなく,その根源の責任が問われなければならない。」と記載している(乙1)。
また,田中正俊は,「戦中戦後」において,「南京攻略までにいたるいわゆる『百人斬り競争』について,調査官がその事実の信憑性に疑義を唱えたと聞くが,この"事実"は,当時の"検閲"を経て『東京日日新聞』1937年12月13日(月)に写真入りで報道されており,『百人斬り"超記録"両少尉さらに延長戦』の見出しのもとに,『十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作って十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を前に対面した。(中略)両少尉は"アハハハ"結局いつまでにいづれが先きに百人斬ったか……』という記事を載せている。それぞれが人数を確認して百人以上も殺しておきながら,刃こぼれしたのは刀のみで,両人とも何の負傷も見せず,写真の中で肩をいからせているところを見ると,控え目に考えても,被害者の殆どすべての人々が非武装者であったのではないか,というのが,一歴史研究者としての私の客観的史料にもとづく実証的見解であるが,教科書調査官もまた,これらの記事を実証的に"調査"するとともに,これらの新聞紙面に窺われる当時の日本人の日中戦争観が,いかに傲慢で軽薄で,非人間的であったかについても,知見を広め,かつ深めておくべきであろう。」と記載している(乙2)。」

 こうした対立する見解をふまえて、東京高裁は先に紹介した次のような事実認定をしています。
「本件日日記事は,昭和12年11月30日から同年12月13日までの間に掲載されたものであるところ,南京攻略戦という当時の時代背景や「百人斬り競争」の内容,南京攻略戦における新聞報道の過熱状況,軍部による検閲校正の可能性などにかんがみると,上記一連の記事は,一般論としては,そもそも国民の戦意高揚のため,その内容に,虚偽や誇張を含めて記事として掲載された可能性も十分に考えられるところである。そして,前記認定のとおり,田中金平の行軍記録やより詳細な犬飼総一郎の手記からすれば,冨山大隊は,句容付近までは進軍したものの,句容に入城しなかった可能性もあること,昭和15年から約1年間向井少尉の部下であったという宮村喜代治は,向井少尉が、百人斬り競争の話が冗談であり,それが記事になった旨を言明した旨陳述していること,さらには,南京攻略戦当時の戦闘の実態や冨山大隊における両少尉の軍隊における任務,一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。

 しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」

 つまり、「本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。」とする一方、「両少尉が南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」という一見矛盾する判定をしているのです。

  要するに、東京日日の「百人斬り競争」の記事にある戦闘戦果は甚だ疑わしいが、両少尉が「百人斬り競争」として報道される事に違和感を持たない、何らかの競争をした事実自体を否定する事はできない。故に、東京日日の記事を「全くの虚偽」であると認める事はできない、というのです。

  しかし、「百人斬り競争」として報道された内容はあくまで「戦闘行為」であって、「捕虜据えもの斬り」などではありませんし、事実、そうした残虐行為が両少尉によってなされた事を立証する「一次史料」(望月証言は一次史料ではない)はありません。その後の両少尉による「武勇談」も例によって新聞記者の戦意高揚記事です。

 こうした東京高裁の判断について、原告側弁護団は平成18年9月6日「最高裁上告受理申立理由書・上告理由書」において、次のように批判しています。
「原判決は、東京日日新聞の「百人斬り」と相手方本多のいう「捕虜据えもの百人斬り」を根拠もなく同じ次元の事実ととらえたうえで、そのような全く異なる二つの事実を渾然一体としてごちゃ混ぜにし、「『両少尉』が〈百人斬り〉と称される殺人競争において捕虜兵を中心とした多数の中国人をいわゆる『据えもの斬り』にするなどして殺害した』」等という訳のわからない事実を新たに作り出した。これは日本刀で百人以上斬り殺すなどという「全くの虚偽」をカモフラージュするため『「据えもの斬り」などして殺害』などという抽象化をあえてしたのである」

 こうした東京高裁の論法は、かって、イザヤ・ベンダサンが指摘した「雲の下論」を思い出させてくれます。ベンダサンは、松川事件裁判で田中最高裁長官の主張した論法「『雲表上に現れた峰にすぎない』ものの信憑性が、『かりに』『自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても』『雲の下が立証されている限り・・・立証方法として十分である』、従って、時日・場所・人数・総時間数等細かい点の矛盾を故意にクローズアップして、それによって『事実』がなかったかのような錯覚を起こさせる方がむしろ正しくない」という論法、これを「雲の下論」と名付け次のように解説しています。

 この論法は、「語られた事実」を「事実」だと主張して、その「事実」の証拠を他の「語られた事実」に求めるとき必ず出てくる議論であり、本当は、「百人斬りという犯罪「事実」は誰も知らない、知っているのは、百人斬りという犯罪の「語られた事実」だけである。その「語られた事実」(複数)によってこれから「ぎりぎり決着の『推認』に到達しようというのに、その前に「犯罪事実の存在自体」と断言してしまえば、もう何の証拠もいらなくなる」(『日本教について』p271)

 つまり、唯一の証拠とされた東京日日の「百人斬り競争」の記事内容は、全ての関係者において事実として否定されているのに、何の証拠もない「捕虜据えもの斬り百人斬り競争」が「犯罪事実の存在自体」=本件事実摘示として認定されているのです。あまつさえ、その証拠として、戦中、中国兵を並べておいて軍刀で斬首するという「据え物斬り」を行っていたと自ら「暴露」した鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」の記述を証拠として取り上げているのですから、全く気が知れません。

 鵜野晋太郎は、1956年6月19日中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷において、次のような判決を受けています。
「被告人は日本陸軍の身分をもって日本帝国主義が我が国を侵略した戦争に参加し、しかも、重大な犯罪をおこなった戦争犯罪者である。(鵜野氏自らの手で殺害した人は45人、捕虜収容所長として餓死、病死させて人は55名と認定=筆者)その犯罪行為からすれば、国際法の規範と人道主義の原則を公然とふみにじっており、もともと厳罰に処すべきが当然であるが、しかし、本法廷は各被告人が勾留期間ちゅう悔悟の態度をあらわしている事を考慮に入れ、被告人の犯罪の具合的な情状にしたがい、ここに、・・・被告人にたいし、つぎのとおり判決をくだすものである。 被告人鵜野晋太郎 禁こ十三年に処する。・・・

 《個人的感慨としての追記》
・・・敗戦─戦犯─裁判・・・
毛沢東主席は私に「生きなさい」と言った。時に三十五歳であった。禁固十三年。これは驚くべき判決であった。
私が虐殺した遺族の方々の悲痛な泣訴は、永遠に私の耳朶を離れない。「私は家を出る時夢にも敗訴するとは思わなかった・・・この鬼が禁固だなんて・・・私はどの面下げて私以外皆殺しになったあの天宝山麓の家に帰って墓前に報告したらいいのですか?」あふれる涙で泣きじゃくる遺族の姿に、身震いするような自己の罪悪に唯頭を下げ慚愧の涙にむせぶのであった。・・・
思えば私の再生の大恩人は毛主席であり、毛沢東思想のお陰で今生きているともいえよう。今後とも軍国主義の告発を原点としての日中友好に微力を捧げる決意である。」

 正直な感想ではあると思いますが、この不当判決に怒り、絶望し、泣きじゃくる被害者遺族の泣訴する声が聞こえるようではありませんか。(南京での「百人斬り競争」裁判では一人の被害者も登場しません。また、両少尉の堂々と無罪を訴える態度に傍聴の民衆も終始静粛であったといいます=筆者)一体、このような鵜野晋太郎氏「個人」の罪がはたして「軍国主義の告発」で贖えるものでしょうか。また、これと同様の考え方は、洞富雄氏もしており、次のように述べています。「私はこの二人の将校は,あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐性を責めるのではなく,その根源の責任が問われなければならない。」

 こうした考え方に異議を唱えたのが、実は山本七平でした。山本七平は『ある異常体験者の偏見』連載中の新井宝雄氏との論争の「あとがき」で次のように述べています。
「『一握りの軍国主義者』などという抽象的存在がこの世にいたのではない。そこにいたのは具体的存在としての個々の人間である。・・・この世に『生まれながらの悪玉』などは存在しないと同様『生まれながらの軍国主義者』などというものは存在しない。ある人間が、ある思想を抱き、その思想に基づいてある判断を下し、その判断の下に一つの発想をして、その発想の下に計画をたて、その計画を実行に移したのである。そしてその人は、そうする事を最善と考えた──ではなぜ最善と考えたのか。彼らの多くは誠心誠意それを実行した。それは残念ながら否定できない事実ではないか。そして誠心誠意やったという事は何ら正当性を保証しないことを、われわれはいやというほど思い知らされたのではなかったか。その人たちがどれほどまじめであったかなどということは無意味である以上に、その人たちを醜悪化し戯画化することも無意味である。・・・その一人一人が、その時点でなにがゆえにある思想・主義を絶対と考え、それに基づく行動を正しいとしたか。それを徹底的に究明せずに、ただ『一握りの軍国主義者』で方づけ、『オレは彼らを声高に非難している。従ってオレは彼らとは関係がない純粋潔白な人間だ』という態度をしてそれですべてを終わりにすれば、かえって何もかも隠蔽してしまうではないか。・・・私が問題にしているのはそうなって行くことの底にある精神構造で」あると。

 ここで、向井少尉及び野田少尉の死刑に臨んでの遺言を紹介しておくのも無駄ではないと思います。

 向井敏明少尉(三十六歳)の辞世
我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害する事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思ひ日本男児として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸いです。
中国の御奮闘を祈る
日本の関頭を祈る

 中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳
死して護国の鬼となります
十二月三十一日 十時記す 向井敏明

野田毅少尉(三十五歳)の遺書(死刑当日昭和23年1月28日)
死刑に臨みて
此の度中国法廷各位、弁護士、国防部各位、蒋主席の方々を煩わしましたる事に就き厚くお礼申し上げます。
只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京屠殺事件の罪名は絶対お受け出来ません。お断りいたします。死を賜りましたる事に就ては天なりと観じ命なりと諦めて、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せいたします。
今後は我々を最後として生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願い致します。
宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨をはらさんがため、一方的裁判をしたりされない様に祈願いたします。
我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携の基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様に、それだけを祈願致します。

 中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳

野田毅

 他に責任を転嫁する態度の微塵も見られないこと。自らの運命は自ら受け決して他を恨んだりしないいさぎよい態度。その上で、明快に自己の無実を訴え、裁判官に対し冷静かつ公正な裁判を求める両少尉の堂々たる態度に、驚き以上に救いを感じるのは私だけでしょうか。また、野田少尉は昭和22年12月30日(この翌日が死刑執行の日と覚悟していた)の手記に大東亜戦争について次のような反省を語っています。

 「つまらぬ戦争は止めよ。曾っての日本の大東亜戦争のやり方は間違っていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思ったところに誤謬がある。日本人全部がそうだったとは言わぬが皆が思い上がっていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。愛と至誠のある処に人類の幸福がある。・・・」(10/26追記)