「百人斬り競争」論争における思想的課題
前回述べたように、東京高裁は、「「百人斬り競争」の話の真否に関しては,前記2(1)トで認定したものも含めて,現在に至るまで,肯定,否定の見解が交錯し,様々な著述がなされており,その歴史的事実としての評価は,未だ,定まっていない状況にあると考えられる。」 といっています。2(1)トで認定されたものとは次のような見解をさします。(hanketu5参照) 「ト 「百人斬り競争」については,現在に至るまで,その存在に否定的な見解と肯定的な見解とが対立しており,当裁判所に提出された各種書籍や論稿には,以下のものがある。 (ア) 鈴木明は,上記単行本「『南京大虐殺』のまぼろし」において,向井少尉の未亡人である北岡千重子からの手紙をきっかけに,同人のほか,原告千惠子,原告エミコ,向井少尉の実弟である向井猛,浅海記者,南京軍事裁判所の裁判長であった石美瑜など関係者に対するインタビューや南京軍事裁判の資料を基に,「百人斬り競争」をルポルタージュという形式で検討した。鈴木明は,「いま僕も,全く同じように,『かりに,この小文が,"銃殺された側"の"一方的な"報告のようにみえても,終戦後の中国で,二人の戦犯がどのように行動し,それを,関係者や遺族がどう受けとめ,いまどう感じているかを知ることも,相互理解の第一前提ではないでしょうか』と問いたい。そして,同じく『百人斬り』を取材しながら,このルポで僕が取材した内容の意識と,朝日新聞の『中国の旅』の一節との間に横たわる距離の長さを思うとき,僕は改めてそこにある問題の深さに暗澹たる気持にならないではいられなかった。」と記載して,被告本多及び被告朝日らの見解を批判している(甲16)。 (イ) 阿羅健一は,昭和62年「聞き書 南京事件」を出版し,その後,同書の一部を「『南京事件』日本人48人の証言」で文庫本化した。阿羅は,同書において,昭和12年12月に南京で何が起こったのかについて,日本人の生存者から証言を集めており,その中には東京朝日新聞足立和雄記者,佐藤記者,鈴木記者及び浅海記者に対するインタビューが含まれている。阿羅は,その陳述書において,インタビューをした当時の状況について供述し,佐藤記者の話が信用性のあるものであったこと,鈴木記者自身は真実であると答えているが,本心は虚偽だと思っているのではないかと思われたこと,浅海記者が最後までインタビューに応じなかったこと,昭和12年当時の浅海記者を知る足立記者から,浅海記者の人柄などを含めた上で,「百人斬り競争」は創作かもしれないとの話を聞かされたこと,向井少尉の直属の部下であった田中金平から「百人斬り競争」について信用していないことなどの話を聞かされたことなどを理由として,「百人斬り競争」が創作だと確信した旨供述している(甲36,91)。 (ウ) 北村稔は,「『南京事件』の探求」において,南京戦当時の中国当局の国際宣伝と戦時対外戦略について分析し,本件日日記事の「百人斬り競争」については,当初,斬殺の対象が戦闘中の中国兵士であり,武勇伝として紹介されたものが,ジャパン・アドバタイザーに転載される際の翻訳では「剣による個々の戦闘において」と記載されていたにもかかわらず,斬殺の対象が「百人の中国人」と記述され,さらに,ティンパレーの著書に収録される際には「殺人競争」という表題が付けられ,いかにも戦闘以外での殺人を伴う戦争犯罪であるという装いがなされた旨記載している。また,北村稔は,その論稿及び陳述書において,南京軍事裁判における両少尉の判決書を分析し,本件日日記事にはない捕虜と非戦闘員の殺害が理由としてあげられていること,紫金山麓において「老幼を択ばず逢う人を斬殺」することがあり得ないこと,本件日日記事がジャパン・アドバタイザーに転載された後,さらにティンパレーによる「日軍暴行紀実」に転載される過程で,あたかも残虐事件の報道記事であるかのように仕立て上げられてしまったこと,南京軍事裁判が政治裁判であり,本件日日記事を詳しく確認せずに判断されたこと,両少尉の弁護側としても,記事の内容の真偽のみならず,本件日日記事が戦闘中の敵兵を斬り倒す描写であることを争うべきであったにもかかわらず,そうしなかったことなどを記載し,両少尉に対する死刑判決が事実誤認である旨供述している(甲52,90,143)。 (エ) 中山隆志は,その陳述書において,南京攻略戦当時において日本刀を使用した白兵戦が起きる頻度が低かったこと,南京攻略戦では捕虜取扱いについて明確な方針等が準備されず,日本軍の中でも対応が分かれていたこと,両少尉が本件日日記事第一報の内容を自ら記者に話すとは考え難く,その内容も軍事上の常識からみれば理解し難いこと,本件日日記事第二報については,向井少尉の離隊の事実と矛盾すること,本件日日記事第三報については,向井少尉の離隊の事実や冨山大隊主力が句容を攻撃することなく,通ってもいないことと矛盾すること,本件日日記事第四報については,負傷したはずの向井少尉が隣接部隊の行動地域にいることが疑問であること,南京攻略戦当時の砲兵砲小隊長と大隊副官において,白兵戦に加入するのが真に危急の場合だけであることに加え,南京攻略戦当時の新聞報道の規制状況などから見て,「百人斬り競争」があり得ない旨述べている(甲89)。 (オ) 鵜野晋太郎は,上記「ペンの陰謀」に「日本刀怨恨譜」を寄稿し,その中で,中国兵を並べておいて軍刀で斬首するという「据え物斬り」を行っていたこと,鵜野晋太郎自身,昭和31年に,住民,捕虜等を拷問,殺害したとの罪により中国当局によって禁固13年を言い渡されたことなどを述べ,「百人斬り競争」については,「当時私は幼稚な『天下無敵大和魂武勇伝』を盲信していたので,百人斬りはすべて『壮烈鬼神も避く肉弾戦』(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが,前述の私の体験的確信から類推して,別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合,穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが,進撃中の作戦地区では正に『斬り捨てご免』で,立ち小便勝手放題にも似た『気儘な殺人』を両少尉が『満喫』したであろうことは容易に首肯ける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが,それもそう大したことではなかったのだろう。又百人斬りの『話題の主』とあっては,進撃途上で比隣部隊から『どうぞ,どうぞ』と捕虜の提供を存分に受けたことも類推出来ようと言うものだ。要するに『据え物百人斬り競争』が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に『戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々』とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵戦で斬ったのか真偽の程はきわめて疑わしくなる。何れにせよ,こんなにはっきりしていることを『ああでもない,こうでもない』と言うこと自体馬鹿げた話だ。私を含めて何百何千もの野田・向井がいて,それは日中五○年戦争――とりわけ『支那事変』の時点での"無敵皇軍"の極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。」と記載している(乙1)。 (カ) 洞富雄は,上記「ペンの陰謀」に「『"南京大虐殺"はまぼろし』か」を寄稿し,その中で,山本七平,イザヤ・ベンダサン及び鈴木明の見解を批判するとともに,「それはさておき,山本七平氏のとなえるような,極端な『日本刀欠陥論』はうけいれられないにしても,たとえ捕虜の殺害とはいえ,二本や三本の日本刀で一○○人もの人を斬るなどということが,はたして物理的に可能かどうか,だれしもがいちおうは疑ってみるのが常識というものであろう。したがって,野田・向井両少尉が,無錫から紫金山まで約半月の戦闘で,どちらも一○○人以上の中国兵を斬った,と彼らみずから語ったのは,あるいは『大言壮語』のきらいがあるかもしれない。だが,たとえ『百人斬り』は『大言壮語』だったとしても,それは,二人の場合,捕虜の虐殺はまったくやっていないとか,『殺人競争』は事実無根の創作だったとかいうことにはならない。」,「極東国際軍事裁判で裁判長は,『百人斬り競争』を日本軍がおかした捕虜虐殺の残虐事件としてとりあげなかった。だが,このことは向井・野田両少尉を『不起訴』にしたとか,『無罪』にしたとかいうことを意味するものではない。極東国際軍事裁判はA級戦犯を審判した法廷であるから,向井・野田両少尉は,残虐事件の証人としてこの裁判の法廷に立たされることはあっても,戦犯として裁判されるはずはないのである。しかしながら,極東国際軍事裁判における検察側の処置は,ただちに両少尉を,中国関係B・C級戦犯の容疑者として,南京の軍事裁判で裁かれる運命からまぬがれさせるよりどころになるものではなかった。」,「私は拙著『南京事件』で,この『百人斬り競争』の話を,『軍人精神を純粋培養された典型的な日本軍人である』若手将校にみられた残虐性の一例として簡単に紹介しておいた(212-3.235-6.244-5ページ)。そこでは,五味川純平氏ののべているところなどにもふれながら,斬られたものの大半は捕虜である,と考えたのであるが,この見方は今も変わっていない。でも,私はこの二人の将校は,あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐`性を責めるのではなく,その根源の責任が問われなければならない。」と記載している(乙1)。 こうした対立する見解をふまえて、東京高裁は先に紹介した次のような事実認定をしています。 しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」 つまり、「本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。」とする一方、「両少尉が南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」という一見矛盾する判定をしているのです。 要するに、東京日日の「百人斬り競争」の記事にある戦闘戦果は甚だ疑わしいが、両少尉が「百人斬り競争」として報道される事に違和感を持たない、何らかの競争をした事実自体を否定する事はできない。故に、東京日日の記事を「全くの虚偽」であると認める事はできない、というのです。 しかし、「百人斬り競争」として報道された内容はあくまで「戦闘行為」であって、「捕虜据えもの斬り」などではありませんし、事実、そうした残虐行為が両少尉によってなされた事を立証する「一次史料」(望月証言は一次史料ではない)はありません。その後の両少尉による「武勇談」も例によって新聞記者の戦意高揚記事です。 こうした東京高裁の判断について、原告側弁護団は平成18年9月6日「最高裁上告受理申立理由書・上告理由書」において、次のように批判しています。 こうした東京高裁の論法は、かって、イザヤ・ベンダサンが指摘した「雲の下論」を思い出させてくれます。ベンダサンは、松川事件裁判で田中最高裁長官の主張した論法「『雲表上に現れた峰にすぎない』ものの信憑性が、『かりに』『自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても』『雲の下が立証されている限り・・・立証方法として十分である』、従って、時日・場所・人数・総時間数等細かい点の矛盾を故意にクローズアップして、それによって『事実』がなかったかのような錯覚を起こさせる方がむしろ正しくない」という論法、これを「雲の下論」と名付け次のように解説しています。 この論法は、「語られた事実」を「事実」だと主張して、その「事実」の証拠を他の「語られた事実」に求めるとき必ず出てくる議論であり、本当は、「百人斬りという犯罪「事実」は誰も知らない、知っているのは、百人斬りという犯罪の「語られた事実」だけである。その「語られた事実」(複数)によってこれから「ぎりぎり決着の『推認』に到達しようというのに、その前に「犯罪事実の存在自体」と断言してしまえば、もう何の証拠もいらなくなる」(『日本教について』p271) つまり、唯一の証拠とされた東京日日の「百人斬り競争」の記事内容は、全ての関係者において事実として否定されているのに、何の証拠もない「捕虜据えもの斬り百人斬り競争」が「犯罪事実の存在自体」=本件事実摘示として認定されているのです。あまつさえ、その証拠として、戦中、中国兵を並べておいて軍刀で斬首するという「据え物斬り」を行っていたと自ら「暴露」した鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」の記述を証拠として取り上げているのですから、全く気が知れません。 鵜野晋太郎は、1956年6月19日中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷において、次のような判決を受けています。 《個人的感慨としての追記》 正直な感想ではあると思いますが、この不当判決に怒り、絶望し、泣きじゃくる被害者遺族の泣訴する声が聞こえるようではありませんか。(南京での「百人斬り競争」裁判では一人の被害者も登場しません。また、両少尉の堂々と無罪を訴える態度に傍聴の民衆も終始静粛であったといいます=筆者)一体、このような鵜野晋太郎氏「個人」の罪がはたして「軍国主義の告発」で贖えるものでしょうか。また、これと同様の考え方は、洞富雄氏もしており、次のように述べています。「私はこの二人の将校は,あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐性を責めるのではなく,その根源の責任が問われなければならない。」 こうした考え方に異議を唱えたのが、実は山本七平でした。山本七平は『ある異常体験者の偏見』連載中の新井宝雄氏との論争の「あとがき」で次のように述べています。 ここで、向井少尉及び野田少尉の死刑に臨んでの遺言を紹介しておくのも無駄ではないと思います。 向井敏明少尉(三十六歳)の辞世 中国万歳 野田毅少尉(三十五歳)の遺書(死刑当日昭和23年1月28日) 中国万歳 他に責任を転嫁する態度の微塵も見られないこと。自らの運命は自ら受け決して他を恨んだりしないいさぎよい態度。その上で、明快に自己の無実を訴え、裁判官に対し冷静かつ公正な裁判を求める両少尉の堂々たる態度に、驚き以上に救いを感じるのは私だけでしょうか。また、野田少尉は昭和22年12月30日(この翌日が死刑執行の日と覚悟していた)の手記に大東亜戦争について次のような反省を語っています。 「つまらぬ戦争は止めよ。曾っての日本の大東亜戦争のやり方は間違っていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思ったところに誤謬がある。日本人全部がそうだったとは言わぬが皆が思い上がっていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。愛と至誠のある処に人類の幸福がある。・・・」(10/26追記) |