満州事変は日本の「運命」だったか。

2008年10月30日 (木)

 このあたりで、「日本近現代史における躓き―「満州問題」のまとめをしておきたいと思います。

 戦前の日本人にとって「満州問題」とは、朝鮮の独立問題をめぐって勃発した日清戦争に日本が勝利し、その結果、遼東半島が日本に割譲されたことに起因します。これに対してロシア、フランス、ドイツが遼東半島の中国への返還を要求し(三国干渉)、日本はやむなくそれに応じましたが、その後、日本が日露戦争に勝利した結果、それまでロシアが支那から租借していた関東州と南満州、安奉両鉄道の租借権を日本が譲り受けることになりました。

 これによって、日本は、関東州租借地を完全な主権を持って統治し、南満州、安奉両鉄道の経営は半官半民の南満州鉄道株式会社(略称満鉄)にあたらせることになりました。日本はこの満鉄を通じて鉄道付属地の行政にあたりました。この満鉄の付属地には、奉天や長春など人口の多い地域をはじめとして15都市が含まれ、これらの地域では、日本は、警察・徴税・教育・公共事業を管理しました。また、租借地に関東軍を置き、鉄道の沿線地帯(線路の両側合わせて62m)には鉄道守備隊を駐屯させ、各地方に領事館や警察官を配置するなど、満州諸地方に武装部隊を置きました。

 その後1915年の「二十一箇条要求」で、これらの租借期限(ロシアが得ていた租借期限は25年)を99年に延長するとともに、日本国民が南満州において旅行、居住し、営業に従事し、商業、工業及び農業のための土地を商租する権利を得ました。

 ところで、満鉄経営の基本政策は、満鉄線に連絡する支那の鉄道建設に対してのみ資本を供給し、そうすることによって満州内の貨物の大部分を租借地・大連から海運輸出するために直通輸送しようとすることにありました。しかし、支那にすれば、満鉄のような外国管理の施設が国内に存在し鉄道輸送を独占することはおもしろくなく、そのため満鉄の発達を妨害しようとする支那の試みは張作霖の時代からありました。張学良の時代になると南京政府の利権回復運動とも相まって、日本の独占的・膨張的な政策との衝突を繰り返すようになりました。

 1931.9.18日の満州事変以降日本は、その武力行使を正当化する根拠として、日本の満州における以上のような「条約上の権益」が侵害されたと主張しました。

 第一の非難は、①南満州鉄道付近にそれと平行する幹線および利益を害すべき支線を建設しないという、1905年の取極(「満州に関する日清条約付属取極」)があるにもかかわらず、張学良政権が満鉄包囲網というべき平行線を敷設したこと。②南満州において、各種商工業上の建物を建設するための土地あるいは、農業を経営するための土地を商租する権利が1915年の「南満州及び東部内蒙古に関する条約」によって認められているにもかかわらず、たとえば、間島における朝鮮の農民が土地を商租する権利が中国側官憲の不誠意によって実現されていないこと。

 第二の非難は、満州の都市部・華中・華南で広く見られた排日貨、対日ボイコットが中国側の組織的な指導によってなされているという主張で、これが不戦条約第二条(「締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段に依るの外、之が処理または解決を求めざることを約す」)の明文またはその精神に違反する、というものでした。つまり、これらの条約で規定された守られるべき日本の権利が蹂躙された以上、それを実力で守ってどこが悪いか、というものでした。(『戦争の日本近現代史』加藤陽子p255~256)

 しかし、第一の①については、「付近の平行線」の定義が明確でなく、欧米の慣行では約12マイルから30マイル以内の鉄道を「付近」としていたそうですが、日本が平行線と非難した錦州―チチハル間の鉄道は最短の部分で100マイルも離れていました。また、②については、「外国人の内地雑居は領事裁判権と密接な関係があり、そのため中国側は、多くの日本人(朝鮮人含む)が開港地以外の内地に雑居し、かつ中国の法律に服さないというのは、中国の主権の破壊になると主張し、領事裁判権を日本側が持つ以上は、内地雑居を許可できないと反論」しました。事実、こうした特権は外交上前例がなく、日本側もその無理は承知していました。

 また第二については、これまで済南事件や張作霖事件における日本側の行動を詳しく見てきましたので事情はお分かりだと思いますが、こうした日本側の度重なる侵略的行為に刺激された結果、中国側も日本の条約上の権利を力で蹂躙するようになったのだ、ということもできます。なにしろ張学良は自分の父親を日本軍の謀略によって爆殺されたのですから、その彼に日本に対する友好的な態度を期待する方がおかしい。さらに、日本側の主張の根拠とされた、それまでに積み上げられた条約や規定の解釈自体にもグレーゾーンがあり、双方の解釈が異なっていたことも指摘されています。(上掲書p259~263)

 こうしてみてくると、日本側の言い分にはかなり無理がありますが、関東軍は満州事変を引き起こす過程で、その武力占領の正当性を国民に納得させるため、日本は条約を守る国であるが、中国は条約を守らない国であるという宣伝に努めていました。確かに、1920年代の国民党による中国統一の過程で、排外主義的なナショナリズムが鼓吹されたことは事実です。幣原喜重郎はこうした中国の事情に十分な同情を寄せつつも、中国側が「事情変更の原則」を掲げて、前述したような既存条約の一方的廃棄を求めることを、国際関係の安定を脅かすものだとして明確に拒否していました。

 幣原としては、1922年のワシントン体制の中核的条約である九カ国条約の中国における門戸開放や機会均等主義を「わが商工業は外国の業者の競争を恐れることはない。日本は実に有利な地位を占めている」として支持していました。同時に、満州においては、「日本人が内地人たると朝鮮人たるとを問わず相互友好協力のうえに満州に居住し、商工業などの経済開発に参加できるような状況の確立」を目指していました。この時幣原は「支那人は満州を支那のものと考えているが、私から見ればロシアのものだった。・・・ロシアを追い出したのは日本」であり、このような歴史的背景を踏まえれば、以上のような日本の要求を中国側が尊重するのは道義的に当然である、という考えをその基礎に置いていたのです。。(*おそらく幣原はこの商租権の問題は不平等条約の撤廃で可能と考えていたのではないでしょうか。11/3挿入)

  だが、こうした幣原の期待は、両国国民の友好関係(お互い~信頼関係を訂正11/3)があってはじめてできることで、しかしこの時は、済南事件で日本が中国統一を妨害したように受け取られ、張作霖爆殺事件以降は、張学良政権による意図的な反日侮日政策がとられていたのですから、そのための現実的基盤は失われていました。その結果、在満邦人はこうした反日・侮日政策に結束して対抗するようになりました。また、幣原外相が、在満同胞が「徒らに支那人に優越感をもって臨みかつ政府に対して依頼心」を持っていることが「満蒙不振の原因」と述べたことに反発し、もう外務省は恃むに足らずとして、軍の支持のもとに「実力行使による満州問題の解決」を要求するようになりました。

(注) 幣原外相と広東政府外交部長陳友仁との秘密交渉に関する記述、近衛文麿と駐日支那公使蒋作賓との会話及び石原莞爾の「満蒙計略の方針」に関する記述は削除し、以下を追加挿入11/3)

 もちろんこの間陸軍は着々とこうした満州問題の行き詰まりを武力で解決するための政治工作、世論作りを進めていました。そこに起きたのが万宝山事件(1931年7月、長春北30キロにある万宝山で発生した朝鮮人移民と中国人農民との衝突事件)で、これが朝鮮人虐殺事件と誇大に報道され(実際には死者は出ていない)、朝鮮国内で激しい排華暴動となり華僑100人余が殺害され、中国でも排日ボイコットが展開されるるという事態に発展しました。さらに、中村大尉事件(興安嶺地区の兵用地誌調査中の参謀本部の中村震太郎大尉らがスパイ容疑で張学良軍の殺害された事件1931.6.27発生)が8月17日公表されると、世論はいっそう硬化し、従来幣原を支持してきた朝日新聞も「小廉曲謹的」と幣原外交を批判するようになりました。また、政友会や貴族院においても軍部の主張する満蒙問題の武力解決を容認する政治的情況が生まれていました。(『太平洋戦争への道』1p421)

 こうして、1931年9月18日、関東軍参謀の謀略による柳条溝鉄道爆破に端を発する満州事変が勃発しました。政府(第二次若槻内閣)は不拡大方針をとりましたが、関東軍は軍中央の協力、朝鮮軍の支援を得、謀略、独走を反復して戦線を拡大し、1932年2月までに東北の主要都市、鉄道を占領しました。この間奉天、吉林、ハルピン等に次々と地方独立政権を樹立させ、これらは連省自治制を採用して1932年2月17日東北行政委員会を発足させ、その名において、満州事変勃発後わずか半年後の3月1日、奉天、吉林、黒竜江、熱河の四省を中心とする新国家満州国の建国を宣言しました。発足時の政体は共和制とし、溥儀には「執政」の称号を贈りました。

 この間、12月11日には若槻内閣が総辞職し幣原外交はここに終焉することになりました。続いて犬養政友会内閣が成立し、外相は犬養兼任、陸相は十月事件でクーデター政権の首班に擬された満州事変積極的推進派の荒木貞夫が就任しました。そして、翌1月6日には陸、海、外三省の関係課長は次のような「支那問題処理方針要項」を決定しました。いうまでもなく、先の新国家満州国の建国は、こうした日本政府の方針・要綱に沿って進められたのです。

 「方針一 満蒙については、帝国の威力の下に同地の政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係において、帝国の永遠的存立の重要要素たる性能を顕現するものたらしむることを期す。二(略)。要綱一 満蒙はこれをさしあたり支那本部政権より分離独立セル一政権の統治支配地域とし、逐次一国家たる形態を具備するごとく誘導す。・・・成立する各省政権をして逐次、連省統合せしめ、かつ機を見て新統一政権の樹立を宣言せしむ(以下略) 」

 以上、「日本近現代史に於ける躓き」における最大の難問である満州問題、その発端から満州国建国に至るまでの経過を見てきました。ではこうした歴史の展開をどう見るか。岡崎久彦氏は次のようにいっています。

 中国の国家統一が進展しそれが「満州に及んだ場合を想像すると、日本は在留邦人の希望に添った現地保護主義をとらざるを得ず、その場合、中国側との衝突路線を歩むのは不可避である。現地保護主義を抑えて(幣原の)不干渉主義を貫く場合、中国側の有識者のなかには日本の政策の理解者もあり、日本の権益を保護しようとしてくれたかもしれないが、中国の国権回復のうねりはそういう妥協を許したかどうかもわからない。双方によほどの良識ある外交とそれを実施する指導力がないかぎり、悲劇は運命づけられていたといえる。」(『幣原喜重郎とその時代』p288)

 さて、その「運命」ですが、確かに歴史はそのように進んだのですが、では、そのような「運命」を決定づけた歴史的条件のすべてが不可避であったかというと、私は必ずしもそうはいえないと思います。本稿では、その歴史的条件の一つとして、当時の軍部とりわけ青年将校グループが満州占領、政治革新へと突き進んだその異常な心理状況を説明しました。また、そうした青年将校達を熱狂的に支持した国民世論がどのように形成されたのかを見てきました。では、はたして、こうした事態は回避できたのでしょうか。

 そこで最後に、このことを、当時の政党や政治家およびマスコミの果たした役割とともに考察して本稿のまとめとしたいと思います。