「偽メシア」石原莞爾の戦争責任3

2008年10月18日 (土)

 「メシア」とは、ヘブライ語またはアラム語で油を注がれた者、すなわち聖別された者を意味する言葉です。出エジプト記には祭司が、サムエル記下には王が、その就任の際に油を塗られたことが書かれていますので、後にそれが「油注がれた者」すなわち理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになったと辞書には説明されています。私が石原莞爾について「偽メシア」という言葉を使ったのは、彼の言葉と行動は、はたして、昭和6年という日本の危機の時代において、民族の伝統文化を未来に向けて発展させる契機をもっていたか、ということについて疑問を感じているからで、私はむしろその逆だったのではないかと思っています。

 もちろん、こうした見解は従来のものと特に変わってはいないのですが、最近の石原評の中には、彼の頭脳の並外れた優秀性と、満州事変の奇跡的な軍事的成功に幻惑されて、その「偽メシア」的メッセージの及ぼした害毒の深刻さを看過しているものが多いような気がします。とりわけ福田和也氏の『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』では、「世界最終戦総論も、満州国も、五族協和も、東亜連盟も、永久平和も、都市解体も彼の祈りであった。」(上掲書p461)「石原莞爾の魅力は、・・・その根源は、やはり高い倫理性、理念性にあると思う。」(同p464)として、その生き方や精神性を高く評価しています。

 だが、私は石原莞爾の場合は、そんな資質よりも、彼の「政的的行動」が日本に及ぼした結果責任をこそ、厳しく問うべきだと思います。よく、彼の東京裁判の「酒田臨時法廷」における発言が紹介されます。いわく「もし大東亜戦争の発端の責任が満州事変および満州国にあるというのなら、その第一の戦争責任は自分にある、なぜ自分を裁かないのか、と裁判官を問い詰めた」と。これは「潔く自らの責任を認め、勝者の矛盾を暴き、糾弾する」という石原の捨て身で痛快なイメージを伝えるものですが、これが真実かどうかとなると、かなり怪しい。

 そもそも、彼が計画・実行した満州事変が、石原莞爾や板垣征四郎を中心とするごく少数の将校たちによる謀略(柳条湖事件)に始まることが明らかにされたのは、歴史家の秦郁彦氏が、事件の首謀者の一人花谷正(事件当時奉天特務機関補佐官)らをヒアリングしてまとめた、「別冊知性」(河出書房)の記事「満州事変はこうして計画された」(1956年秋)が最初です。それまでは、この事件は日本軍の犯行と推断されてはいたのですが、決定的な証拠はなく、東京裁判でも検察の追求は不徹底に終わり、石原は戦犯指定を免れました。事実、彼は、検察側証人として次のような虚偽の証言をすると共に自分の責任をも否定しています。

 「石原は、一九四六年(昭和二一年)五月三日に、東京逓信病院で行われた国際検察局による第一回の尋問において、自分や板垣が満洲事変を計画したことを否定している。また、石原は、日本軍による南満州鉄道線路の爆破をも否定し、五月二四日に行われた第二回の尋問で、再度、南満州鉄道線路の爆破について問われた際は、「私は中国人が、一九三一年九月一八日に鉄道線路を爆破したと思っている。」と答え、日本軍が満洲事変を計画的に引き起こしたことを完全に否定し、満洲事変は偶発的に起こったことを主張している。更に、石原は、自分や板垣が、本庄司令官の命令無しに、攻撃命令を出したことも否定し、攻撃命令を下したのは、本庄司令官であり、自分はその命令に従った過ぎないことも主張している。〔以上、「戦史研究 石原莞爾はかく語りき―戦後の石原莞爾―」参照〕 

また、こうした態度はこの事件の他の実行犯にも一貫していました。なぜか、秦郁彦氏は次のようにいっています。

 「柳条湖事件には、どことなく後味の悪さがつきまとう。味を占めた日本はその後も同じ手口を重ねて戦火を拡大し、十年もたたぬうちに東アジア・太平洋の全域を支配する軍事大国に急成長するが、太平洋戦争で元も子も失って倒れた。まさに『悪銭身につかず』である。東京裁判で『共同謀議による侵略戦争』遂行したとして訴追された戦時指導者たちは、『自衛戦争』であり『アジア解放の戦争』だったと抗弁した。しかし、どんな大義名分を持ち出しても、起点となった柳条湖事件を正当化できないのは明らかだった。だからこそ、彼らは一致して秘密を守り抜いたのである」(『昭和史の謎を追う』p34)

 では、このことを確認するために、先に紹介した花谷証言以降明らかになった柳条湖事件の事実関係を説明します。

 石原は昭和3年10月に関東軍参謀として赴任して以来、前回紹介したような壮大な「最終戦争」ヴィジョンのもとに、日米戦争を覚悟しても満州領有が必要であることを周囲の人びとに説きつつ、具体的な満州占領計画を作成していました。だが、はたして、こうした霊感、神意に発する石原プランが板垣以下同士同僚にどれだけ説得力を持ちえたかについては私も疑問に思いますが、いずれにしろ、「満州領有」という悪くすると世界大戦に発展しかねない軍事行動のバネになる最低限の根拠を与えられたということだけで満足したのではないかと思います。(『昭和史の軍人たち』畑郁彦p235参照)

 一方、軍首脳は、満州問題が外交交渉で解決できず、ついに軍の出動を必要とするに至った場合でも、なぜそれがやむを得ないものであったかを、ソ連や米英だけでなく国民にも納得させる必要があるとして、そのためには約一カ年を要すると見ていました。そして、満州における「排日侮日一覧表」などを作成・配布して宣伝に努めるとともに、関東軍に対しても張学良との間に事件が起きても大事に至らしめないよう注意していました。これに対して石原は、この中央の方針を「腰抜け」と罵って不服従の姿勢を示し、旅順司令部で、花谷正参謀後に高級参謀板垣征四郎も加わり実地解決策を内密で研究しました。

 板垣は初めは関東軍単独の解決案に反対しましたが、昭和5年には石原工作の主将たるを約束しました。この外張学良顧問府補佐の今田新太郎大尉も加えこの4人だけで満州事変の密造に着手し、鉄道の爆破、北大営の夜襲、奉天の占領、各枢要都市の占拠、各種擾乱工作、朝鮮軍との連絡、軍中央部(東京)の誘導、等々の事変方式を作り上げました。昭和6年1月頃にブループリントは出来上がりました。それから朝鮮軍参謀中佐神田正種に大要を明かしてその全面賛成を得、次いで参謀本部の橋本欣五郎及び根本博に打ち明けて原則的に協力の約束をとりつけました。

 また、石原は軍の中央部に対し、万一事ある場合には関東軍を見殺しにしないだけの諒解をとりつける必要があるとして、土肥原、花谷を東京に派遣し、敵から挑戦された場合は関東軍は断然決起する決心であることを省部の首脳に説かしめ、なお在郷の同士には極秘裏に「我が方から起つ計画」を内示し、その場合の強力なる掩護行動を要望しました。これに対して橋本欣五郎は、満州問題解決には内政革命が先決である、若槻の政党内閣では何事もできない。故に先ずクーデターによって軍政府を樹立し、その上で思う存分に解決を計るべく、その時期は大体10月の見当だから関東軍の行動はその直後とすることを熱説して袂を分かちました。(「十月事件」参照)

 だが、石原は、高梁の刈り入れが終わる直後を選んで9月28日の夜に決行することを決めていました。そして中央及び朝鮮の空気も、関東軍が手一杯の戦闘に突入してしまえば、決して知らぬ顔では済ませないと判断し、一直線に既定計画に邁進する考えでした。9月に入ると実行部隊の中隊長を集め、初めて計画を内示し、極秘裏に演習を行わせて時期を待ちました。一門28センチ要塞砲は極秘裏に旅順から分解搬送され、第29連隊の兵営内に据付けられ、照準を北大営に調整して盲目にも打てるよう準備しました。

 9月15日驚倒すべき急電が東京から届きました。橋本欣五郎の電報で「計画露見、建川少将中止勧告に出発す、至急対策を練るべし」というものでした。板垣、石原、花谷、今田の4名と実行部隊の5人の将校は直ちに集まって会議を開きました。建川美次(参謀本部第2部長)の奉天着は18日の夕刻である。もしも天皇陛下の中止命令を携えてくるなら即刻服従の外はない。故に、彼の到着善に決行してしまえ、というのが、今田以下実行部隊5名の熱説するところでした。その理由は、部外の策謀工作員として予備大尉の甘粕正彦などが資金を与えられて浪人や青年を擾乱作為に雇い、各地に予備工作を進めているので、ここで延期すれば全面遺漏は避けられない、「延期は放棄」を意味するというものでした。

 しかし、さすがに板垣や石原は自重し、とにかく建川の話を聞いた上で後図を策しようとする方針に一同を宥めて(一説では鉛筆を転がすクジで決めたいう)散会しました。ところが翌日、今田大尉は花谷参謀を訪ねて前論を熱説し、あるいは今田一人で鉄道爆破を決行する意志が読まれたので花谷もついに同意し、直ちに板垣と石原を説いて、28日の予定を18日に繰り上げることに同意させ、かくて柳条湖の鉄道爆破となりました。その夜建川は奉天につくとその足で料亭菊文に招じられ、酒で眠らせるという策略の布団の上で急ピッチで杯を重ね、9時頃には前後不覚で酔体を横たえた10時頃、建川は爆音と銃声に目を覚ました、といった次第。

 以上のような経過で、満州事変は、関東軍参謀作戦課長の石原中佐が中心となり、板垣、花谷、今田と計って専断強行したものでした。なんと御大の本庄司令官にも三宅参謀長にも一言の相談もなく、二、三の参謀だけでやってしまったのは、まさにウソのような本当でした。況んや軍中央部が時期と方法について別項の計画をもっていたものを、腰抜けと罵って聴従せず、日本国を世界世論の前にさらすような大事件を、三人の参謀が独断専行したこと。この事実は、東京裁判で戦時指導者たちが、日中戦争は『自衛戦争』であり『アジア解放の戦争』だったといういくら抗弁しても、どんな大義名分を持ち出しても、決して正当化できない、つまり隠し通す外ない一大過失だったのです。

 事変勃発後、政府は「不拡大方針」を決定し、陸軍省も参謀本部もこれに同調しました。ところが、事変は夜を日に継いで拡大し、ハルピン、チチハル、錦州、熱河、後には長城を超えて拡大しました。そして、わずか半年後には政府や軍部の声明とは似てもつかぬ形に発展し、ついに満州国という傀儡国家まで造り上げてしまいました。満州国はやがて日本政府の承認するところとなり、「日満提携」は国策のイロハとして謳われるようになりました。板垣、石原たちには金鵄勲章が授けられました。(以上『軍閥攻防史第2巻』伊藤正徳p190~195)

 だが、このように、本来ならば軍刑法に照らし天皇大権の侵犯のかどで本庄司令官以下死刑に処せらるべき者たちが栄達を重ねていったことは、結果さえよければ、軍中央の統制にも服さず、上官の命令をも蹂躙して差し支えないという、およそ近代国家の軍隊とは思えない無統制・無規範ぶりを軍内に蔓延させることになりました。

 まして、彼らの行動は、中国の主権・独立の尊重、門戸開放・機会均等を謳った九カ国条約や、自衛戦争以外の戦争の放棄や紛争の平和的解決を謳った不戦条約などの国際条約に真正面から挑戦し破壊するような行為でした。アメリカの国務長官のスチムソンは、1936年の段階で、満州事変という「侵略行為」の成功がイタリアやドイツなどの国際協調政策に「不満なる独裁政府」に元気を与えた、と認識していました。つまり第二次世界大戦の突破口は満州事変によって切り開かれたと認識していたのです。(『日本の失敗』松本健一p157)

 その後の日本軍はどうなったか、それは次回以降に論じるとして、石原莞爾の話題にもどりますが、彼はその後、以上述べたような満州事変における致命的過失に気づいて、それを心底深く悔いたのではないかと私は推測しています。それが、後に彼をして「満州国独立論」「五族協和「王道楽土」の満州国建設という理想論に憑かしめた理由ではないかと。その石原は、昭和11年、2.26事件に際してうまく立ち回ったことから、参謀本部作戦部長の要職に就きました。そのころ、華北では、関東軍が政略活動による華北五省の分離工作に走り、蒋介石との本格的軍事衝突が懸念される事態になっていました。

 そこで、石原は断然彼らに「不拡大」を指示しました。しかし関東軍がどうしても聴かないので単身長春に乗り込み、参謀達を集めて一条の訓辞を試みました。訓辞が終わると、武藤章中佐が起って「それは閣下が本心で言われるのですか」と臆せず発言しました。石原はそれを叱して再び軍中央の方針と対局論とを述べると、武藤が平然として「自分達は石原閣下が満州事変の時に遣られたことを御手本として遣っているのです。褒められるのが当然で、お叱りを受けるとは驚きました」と討ち返した、といいます。(『軍閥攻防史』第2巻p198)

 こうして、日中戦争そして太平洋戦争は、満州事変の、およそ法治国家とは思えない無軌道・無規範、むき出しの暴力肯定の行動哲学を基調として、おし進められることになるのです。秦郁彦氏は「日中戦争」には三分の理、太平洋戦争には四部の理があるとして、満州事変には一分の理も見いだせないといっています。重要なことは、この一分の理も見いだせない「満州事変」の延長に「日中戦争」も「太平洋戦争」もあるということです。東京裁判において日本側は、これを「自衛戦争」とか「アジアの開放」という言葉で正当化しましたが、もし「満州事変」の真相が明かされたらどうなったか。

 「自衛戦争」とか「アジアの開放」とか、そのような抗弁どころか、近代法治国家としての日本の信用はその瞬間地に墜ちる、この恐怖こそ、関係者が一様に口を閉ざしたその本当の理由だったのではないでしょうか。