「偽メシア」石原莞爾の戦争責任2
「政治家はヴィジョンを持たなくてはといわれる。目先のことに捉われずにヴィジョンを持った政治をやれ、たしかに結構なことに違いないが、余りヴィジョンをもたれすぎても困ることがある。戦前の日本人で、石原莞爾ほど壮大なビジョンを展開し、それが全く崩壊し、結果が国を滅したという人もないだろう。なぜなら、彼がヴィジョン展開の第一着として演出した満州事変は、日本を世界に孤立させる始まりとなったばかりでなく、石原がおかした下剋上、政府無視、そして独善がこの後の陸軍を支配して、やがては国を破局に導いていくからである。」 これは、高田万亀子氏の石原評ですが(『昭和天皇と米内光政と』p115)、私も石原莞爾の関係資料をあたってみて、ほぼこの通りではないかと思いました。ただ、石原の「下剋上、政府無視、そして独善」的傾向は、私が「張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆」でも述べたとおり、当時の軍人特に「二葉会」「一夕会」「桜会」等に集った青年将校たちにも見られた傾向でした。石原莞爾は、こうした精神傾向を彼の壮大なヴィジョンによって粉飾し、一方、冷厳な作戦計画によって満州事変を奇跡的成功に導くことによって、それを正当化したのです。 ところで、これらの「二葉会」や「一夕会」と呼ばれた青年将校グループにはある特徴がありました。彼らは陸軍士官学校卒第15期から25期に属する人たちで、その多くは、1896年に東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に新設された陸軍地方幼年学校(13、15歳から3年の修学期間、定員各50名)、中央幼年学校(2年の修業期間)を卒業し、陸軍士官学校(1920年より予科2年、隊付き6ヶ月、本科1年10ヶ月)に入り、さらに陸軍大学校(隊付き2年以上の大尉、中尉から1期50名内外を選抜し3年間修業)を卒業した超エリート軍人(いわゆる「天保銭組」)だったのです。 また、彼らが陸軍大学を卒業して現役についたのは日露戦争後であり、つまり、彼らは実戦経験をもたない「戦後派」でした。これに比べて、彼らの先輩達(第15期以前=当時の軍首脳、軍事参議官、師団長、連隊長)は、全員日露戦争の功労者、戦場の殊勲者で「個人感状」や「金鵄勲章」をもらった人たちでした。これら賞を軍人たちが最高の栄誉としてどれだけ羨望したか・・・、しかし、これは戦場で砲火をくぐって戦うか、あるいは最高戦略に参画し”武功抜群”と認められる働きをしなくては手にすることのできないものでした。(『昭和の軍閥』p116) それに加えて、彼らが佐官となり活躍を始めた頃は、第一次大戦の惨禍を経て軍縮が世界の潮流となった時代でした。大正11年6月11日成立の加藤友三郎内閣では、戦艦「安芸」「薩摩」以下14隻を廃棄し、戦艦「土佐」「紀伊」など6隻を建造中止にしました。それにともない海軍の現役士官と兵7,500人を整理し、海軍工廠の工員14,000人が解雇されました。また、山梨半蔵陸相も陸軍の兵員53,000人、馬13,000頭を減らし、大正13年までに退職させられた陸軍将校は約2,200人にのぼりました。続いて、第二次加藤高明内閣の陸軍大臣・宇垣一成は、陸軍4個師団を廃止し、整理された兵員は将校以下34,000人に達しました。昭和5年のロンドン軍縮会議による軍縮では、海軍工廠の工兵8,233人が解雇されました(『日本はなぜ戦争を始めたのか』p31) 「こうした一連の軍縮によって、深刻な絶望感をいだいて動揺したのは当然職業軍人であった。彼らは財閥とむすんで(軍縮をおし進める:筆者)腐敗した政党政治に不信感を深める一方、新しい希望を満蒙の大陸にもとめる気運が強くなった。とりわけ満州に”事変”を誘発して、新国家を建設しようとうごきはじめたのは、陸軍省及び参謀本部の天保銭組のエリート軍人たちであった。彼らはまず、自分たちの栄進をさまたげる陸軍中央の「藩閥」(=長州閥:筆者)にたいして猛然と挑戦した。」(前掲書p32) なお、ここにいう陸軍中央の「藩閥」とは、初代陸軍大臣の山県有朋以来の長州閥と薩摩閥のことで、山県の死(大正11年2月1日)後、長州は陸軍、薩摩は海軍を背景に、軍の要職や政権をねらって排他的な権力闘争を展開しました。ところが大正末期になると、薩長とも人材難で藩閥内に後継者がいなくなり、そこで長州閥の田中義一大将は、宇垣一成(岡山)、山梨半蔵(神奈川)を自派に引き入れました。これに対して、薩摩閥の上原勇作は武藤信義、真崎甚三郎(以上佐賀)、荒木貞夫(東京)などの有力将軍を自派(これが後に皇道派となる)に引き入れ、藩閥闘争を繰り広げました。(前掲書P33)*海軍の場合は兵学校の入学試験が難しいことから次第に薩摩閥は解消したが、陸軍の長州閥は宇垣陸相時代まで続いた。薩摩閥の上原はこれに挑戦した。 これに対して、第16期以降の陸軍中央の天保銭組のエリート将校達は、こうした藩閥(=長州閥)がらみ人事や「戦わずして四個師団を殲滅」させた軍縮に反感を抱き、藩閥打倒の運動を始めました。その嚆矢となったのが、天保銭組の中でも三羽烏といわれた永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三少佐で、彼らは大正10年に南ドイツの温泉郷バーデンバーデンで「長州閥打倒・陸軍の人事刷新」の密約を交わしました。「二葉会」(14期から18期までの佐官級約20名)や「一夕会」(「二葉会」のメンバーと第20期から25期までの佐官級将校が合流約40名、昭和3年結成)など従来の藩閥に代わる「学閥」はこうして形成されたのです。 この時、彼らがめざしたものは、①陸軍の人事を刷新して諸政策を強く進めること。②満蒙問題の解決に重点を置く。③荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護りたてながら、正しい陸軍を立て直す(「一夕会」第一回会合決議S3.11.3)でした。といっても、重点は「人事の刷新」に置かれていて、必ずしも下剋上的な非合法手段が是認されたわけではないといいます(『昭和の軍閥』)。しかし、陸軍の伝統的な「日満一体」の考え方を背景に、軍事上の見地や満蒙の自給自足的経済的見地が重なり、これを「日本の生命線」として「満州領有」を主張する考え方が急激に高まっていきました。10/14) ここに登場したのが石原莞爾で、彼は、満州に赴任(s3.10)するまでに、後の「世界最終戦総論」の発端をなす「戦争史大観」を構築していました。それは、「第一次世界大戦の次に「人類最後の大戦争」が起こる。それは飛行機をもってする殲滅戦争である。また、それは全国民の総力戦となる。それは「日蓮上人によってしめされた世界統一のための大戦争」であって、最終的には、東洋文明の中心たる日本と西洋文明の中心たる米国の間で争われる」というものでした。これは戦史研究の成果というより、むしろ宗教的終末論によって日米間の最終戦争を不可避としたものだと思います。(『現在及将来ニ於ケル日本ノ国防』参照、満州赴任前に起草済み) その上で、彼は昭和4年7月5日に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決策」を関東軍参謀として策定し、次のように「満蒙領有」の歴史的必然性とその問題解決方針を提起しました。 一、3 満蒙問題の積極的解決は単に日本の為に必要なるのみならず多数支那民衆の為にも最も喜ぶべきことなり即ち正義の為日本が進で断行すべきものなり。歴史的関係等により観察するも満蒙は漢民族よりも寧ろ日本民族に属すべきものなり。 こうして、石原莞爾によって、済南事件以降ほとんど手詰まり状態になっていた満州問題の根本解決が、日本の「満州領有」という形で可能とされるに至ったのです。そして、この日本の「満州領有」には「日米戦の覚悟がいるが、それは満蒙だけでなく支那本部の要部も領有下に置き、自給自足の道を確立すれば有利に持久できる。決勝戦は日米間の徹底した殲滅戦になる。・・・国民は鉄石の意志を鍛錬しなければならない。」そして「これを勝ち抜けば王者天皇の下の永久平和がくる」(『昭和天皇と米内光政と』P116~117)とされたのです。 だが、はたしてこれが思想の名に値するでしょうか。単に、当時の軍の「満州領有」の願望に迎合しそれを粉飾しただけではないでしょうか。そのために、移民問題に端を発した日本人の反米感情を巧みに利用し、満州領有の結果予測される日米戦争の危険を永久平和に至るための試練と言い換え、済南事件の失敗や張作霖爆殺事件の暴虐に憤激する中国人の反日感情を一切無視して、満州領有は多数支那民衆のためにも喜ぶべきことなりという。こうした中国人に対する優越感と蔑視意識は、当時の日本人の潜在意識の中にあり、石原はこうした日本人の潜在意識をも巧みに利用したのです。 さらに、マルクスの歴史必然論を借用してインテリ受けを良くし、仏教的終末論を使って西欧文明の終末を予言し、さらには皇国史観に基づく天皇親政論を使って統帥権の独立を「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権」と神秘化した。私は、これだけの壮大な思想的粉飾があってはじめて、このクーデターまがいの満州事変は成功したのではないかと思います。この結果、関東軍は「中央が出先(=関東軍)の方針を遮る場合には、皆で軍籍と国籍を脱して新国家建設に向かうべし」とまで極言するようになりました。そして、ついに政府も満州国を黙認するほかなくなりました。 この後の、関東軍の華北分離工作に至る日本軍将校によるテロや謀略活動の連鎖を見ていくと正直言ってあきれ果てるというか、司馬遼太郎さんではありませんが、”精神衛生上良くない”。一方、蒋介石の忍耐力には同情を禁じ得ない。確かに戦争に正義・不正義はないとは思いますが、それにしても当時の日本軍将校の思い上がり、自己絶対化、他者蔑視の精神構造には参ります。一体、この精神構造はどこからきたか。おそらく、これを中国人やアメリカ人のせいにするのは間違っている。それは日本の伝統思想中にもとめる外ない、私はこのように指摘する山本七平さんの見解が当たっているように思います。 |