満州問題(10)―満州事変を熱狂的に支持する世論の変化はなぜ起こったか(3)

2008年9月26日 (金)

 そもそも満州問題はいつどこから発生したのでしょうか。前回、そのことについての渡部昇一氏の主張を紹介しましたが、もう少し詳しくこの間の経緯を見ておきたいと思います。

 いうまでもなく、それは、日本が日清戦争で遼東半島全域を手に入れたことにはじまります(1895.4.17)。しかし、三国干渉でロシアにそれを中国に返還するよう迫られたので、賠償金を積み上げる形で遼東半島を清に返還しました(1895.5.4)。その後ロシアは、露清密約(1896.6.3)で、日本が満州・朝鮮・ロシアを侵略した場合の共同防衛、交戦中清国全港湾のロシア軍への開放、黒竜江・吉林両省を横断しウラジオストックに達する鉄道(東清鉄道)の敷設権を得ました。

 さらに1898年、中国から遼東半島南部を25年間租借し、旅順・大連の港湾都市建設、東清鉄道の延長となるハルピン―旅順間の鉄道建設権を得ました。その後1900年に義和団事件が起こり居留民保護のため列国(8カ国)が共同出兵すると、ロシアは満州に大軍を送り、事件鎮圧後もこの地に居座り、事実上占領支配下に置き、さらに韓国の鴨緑江河口の竜岩浦に進出しようとしました。日本はこの事態に朝鮮支配の危機感をつのらせ、「満韓交換論」でロシアとの衝突を回避しようとしました。

 しかし、ロシアは交渉の最終段階の回答(1904.1.6)で、「日本の韓国に対する援助の権利は認めるが、軍略的使用は認めないこと、朝鮮の北緯三十九度以北の中立地帯については最初の案を維持すること、そしてこれを日本政府が同意するなら・・・日本が満州は日本の利益外であることを承認する前提のもとに、ロシアは日本及び他国が清国から獲得した権利(ただし居留地の設定は除く)を認める」としました。これは、日本の韓国支配に制限を加えると共に、事実上満州支配を宣言するものでした。

 こうして日露戦争が始まりました。日本陸軍は1904年2月8日に仁川上陸、旅順港外及び仁川沖での日本艦隊とロシア艦隊の戦闘、第一軍は朝鮮北部からロシア軍を撃退して満州地域に攻め込み、5月には第2軍が遼東半島上陸、第4軍は両軍の中間地点に上陸し、8,9月遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦と苦戦しながらも奉天に軍を進めました。一方、第3軍は8月以降旅順のロシア軍近代要塞に膨大な犠牲を強いられながらも、1905年1月にこれを陥落させ、旅順艦隊を撃滅し、3月には陸軍の総力を挙げて奉天を占領、さらに1905年5月27,28日には、対馬海域の海戦で日本連合艦隊はバルチック艦隊を壊滅させました。

 この段階で、日本は国力の限界を見極め、アメリカに講和の斡旋を依頼しました。ロシアもロシア革命が高揚して政治体制が揺らいでいたことから、ポーツマス条約(1905.9.5)が結ばれ戦争は終結しました。〔日本軍の戦死者8万、戦傷38万人、戦費総額20億(前年の一般会計歳入総額は2億6000万円)、外債7億円〕これにより、日本は満州の清国への返還、韓国に対する日本の指導・保護・監督権の承認、清国政府の承認を前提として、ロシアの遼東半島租借権と長春―旅順間の鉄道権益の日本への譲渡、樺太南部の割譲、沿海州における日本の漁業権の承認、1㎞に15名以内の日本の鉄道守備兵配置を承認させました。

 その後、日本は、第二次日韓協約(1905.11.17)により韓国の外交権の日本への委譲や統監の設置を認めさせ保護国化しました。また、ロシアから日本に譲渡された東清鉄道南部支線(長春―旅順)の鉄道および付属する土地建物、港湾、炭坑、さらに「日清満州善後条約」により、清国に経営権を認めさせた安奉(安東―奉天)鉄道を基礎に、1906年、南満州鉄道を設立しました。これは鉄道だけでなく炭坑、製鉄所などの鉱工業、自動車、水運、港湾埠頭、電気、ガス、旅館など多角経営を行うもので、満鉄付属地(沿線用地及び停車場のある市街地)においては日本は行政権を有することとなりました。

 実は、この段階で、すでに、日露戦争後の満州における日本の地位をめぐって、陸軍と政府の間で意見の対立が生じていました。伊藤博文は、政府側を代表する立場で、「満州における日本の権利は、ポーツマス条約によってロシアから譲渡されたものだけである、満州は決してわが国の属地ではない、純然たる清国領土なのである」と主張しました。これに対して、児玉源太郎は、「国際法上は伊藤のいう通りだが、南満州を事実上は日本領にしておかなければロシア軍と戦えないとして、占領地に軍政署を置くなど「新領地」扱いし、さらに満州経営を統括する部門の新設などを提案しました。(『史伝伊藤博文』下p544)

 結局、この局面では、政府の方針に従って、関東総督の機関を平時組織に改め軍政署は順次廃止されることになりました。しかし、陸軍の行き過ぎに歯止めをかけることには成功したものの、軍の満州に対する野望をくじくことはできませんでした。そして、この児玉に代表される考え方が、後の関東軍幕僚たちに受け継がれ実行に移されることになるのです。ただ、この段階では、「陸軍第一の山県でさえも、最後には、ライバルであった伊藤の側に立ち、児玉や寺内をたしなめ」ました。「さすがに山県は日本の国力の限界を心得ており、児玉を野放しにして英米を敵に回すようなことになっては、日本が危ないことを見通していた」と三好徹氏はいっています。(『前掲書p547』)

 その後、1907年7月30日、第一回日露協約の付属の秘密協約により、日本とロシアは、鉄道と電信に関し、南満州は日本、北満州はロシアの勢力範囲とすることを相互承認しました。その後、1910年7月4日には、第一回日露協約を拡張し、鉄道と電信以外も全般的な利益範囲としました。さらに、1912年7月8日には、第三回日露協約を調印し、付属秘密協定において内蒙古部分について、北京の経度から東部分を日本の利益範囲としました。もちろんこうした合意は、中国側の了解をとってなされたわけではありませんでした。(『満州事変から日中戦争へ』p21)

 そして、1915年5月、いわゆる二十一箇条要求にもとづく「南満州及び東部内蒙古に関する条約」により、①旅順・大連の租借期限及び安奉鉄道に関する期限を99年に延長すこと、②南満州における工業上の建物の建設、又は農業経営に必要な土地を商祖すること、③南満州において自由に居住往来し各種の商工業その他業務に従事すること、④東部内蒙古において支那国民と合弁により農業及び付帯工業の経営をすることを中国に認めさせました。その後この東部内蒙古は、32年の時点では熱河省と察哈爾省すべてを合した地域と日本側に認識されていました。(上掲書p27)

 1921年から22年に賭けて開催されたワシントン会議では、「中国に関する九カ国条約」により、以上説明したような日本に有利と見られる諸条件が消滅したかのように思われます。しかし、アメリカ全権・ルートの提出した四原則が「中国に関する大憲章」として採択され、そこには安寧条項と呼ばれた項目があり、「帝国の国防並びに経済的生存の安全」が満蒙特殊利益に大きく依存する、という日本のかねてからの主張に理解が示され、各国は中国の既得権益を原則的に維持することで合意していました。(上掲書p55)

 こうして、日本の満蒙特殊権益の擁護は、まず、幣原喜重郎の「条約に基礎をおくものであり確固としたものである」とする主張にそって進められることになります。しかし、第二次南京事件を経て「軟弱外交」との批判を受けるようになり、ついに1927年4月退陣に追い込まれました。しかし、次の田中首相による「積極外交」は、早速、第二次山東出兵で済南事件を引き起こし、国民政府の対日観は決定的に悪化しました。さらに「張作霖爆殺事件」は張学良に易幟を決意させ、満州を国民党の支配下におきました。その結果、唯一の残された満蒙権益擁護策が、陸軍が日露戦争以来宿願としてきた武力による「満蒙領有」だったのです。

 しかし、こうした軍事行動を伴う「満蒙領有」論は、1928年8月27日にパリで戦争放棄に関する「不戦条約」の調印によって、その「国防」のための軍事行動が「自衛権」に限られることになったため、日本の満蒙特殊権益擁護の措置がはたして「自衛権」で説明され得るかどうか問題となりました。検討の結果、その治安維持のための軍事行動は正当化されないと認識されました。にもかかわらずというべきか、それ故にというべきか、その後、こうした「満州領有」を正当化するための「満州生命線論」の一大キャンペーンが満州だけでなく内地においても繰り広げられることになるのです。

 前回にも紹介しましたが、当時の、国民一般や知識人の間における満蒙問題の認識は次のようなものでした。

 「兎に角、満州事変以前の日本には、思い出してもゾットするような恐るべきディフィーチズム(敗北主義)があったのである。当時私共が口をすっぱくして満蒙の重大性を説き、我が国の払った犠牲を指摘して呼びかけて見ても、国民は満蒙問題に対して一向気乗りがしなかった。当時朝野の多くの識者の間に於いては吾々の叫びは寧ろ頑迷の徒の言の如くに蔑まれてさえいた、之は事実である。国民も亦至極呑気であった、・・・情けないことには我が国の有識者の間に於いては、満蒙放棄論さえも遠慮会釈なく唱えられたのである。」(『興亜の大業』松岡洋右p76)

 そして、丁度この頃、張作霖爆殺事件が起きて4ヶ月後の1928年10月はじめ、石原莞爾が関東軍参謀(作戦主任)として旅順の軍司令部に着任しました。それは東三省側の排日体制の激化にともなって、「警備上応変の準備として対華作戦準備を必要とするようになった」と関東軍が考え始めた時期と一致していました。また、それは張作霖爆殺事件調査で峯憲兵隊長来満の直後でもあり、河本の取り調べが行われていましたが、河本はうそぶくように満蒙武力解決の必要を強調し、石原もこれを当然としていた、といわれます。(『太平洋戦争への道』2p362)

 こうして石原は、河本とともに作戦計画の検討を関東軍幕僚会議に提議しました。そこで採択された案は、「万一事端発生するとき」は、「奉天付近の軍隊を電撃的に撃滅し、政権を打倒」しようとするものでした。「この案は、防衛計画としての衣装をまといながら全面的武力衝突の可能性を増大させ」るものであり、具体的計画もこの原則にもとづいて研究されることになりました。また、「29年2月28日に満州青年連盟第一回支部長会議が開かれ、小日山理事長は、日本が満蒙から『旗をまいて引揚げる運命』におちいることは断じて許せぬ」と述べて、奇しくも石原構想を背後から支持することになりました。
(上掲書p363)

 「このような関東軍の満蒙武力行使計画による実戦の準備と平行して、満州青年連盟は満州における在留邦人の世論を統一するため、また国内世論を喚起沸騰させるために独立した活動を行って」いました。彼らは幣原外相が、在満同胞の排外主義を批判し「徒らに支那人に優越感をもって臨みかつ政府に対して依頼心」を持っていることが「満蒙不振の原因」と述べたことに反発しました。そして、「満蒙問題とその真相」と題するパンフレットを一万部印刷し、これを内地の政府当局、各代議士、各新聞、雑誌社、各県当局、青年団その他各種団体など、鮮満各方面にまで広く配布しました。(上掲書p387)

 その主張は、「満蒙はわが国防の第一線として国軍の軍需産地として貴重性を有するのみならず、産業助成の資源地として食料補給地としてわが国家の存立上極めて重要な地域である」という大前提のもとに、日本の特殊権利を「支那はもちろんのこと列国に向かって堂々と主張し得る政治上ないし超政治上の根拠理由を有する」と説いていました。さらに、「全既得権益を一挙にして抛去らんとする険難」が迫ってきた今日「吾人は起って九千万同胞の猛省を促す」と主張しました。(同上)

 こうして、旅順、鞍山、奉天と全満州各地には武力解決のムードを作るための遊説隊が送られました。石原・板垣らの企図した在留邦人の世論統一を創出するための方策は、青年連盟による「満蒙領有」運動として自然とおし進められました。満州青年連盟はさらに大連新聞社の協力で、1931年6月中「噴火山上に安閑として舞踊する」政府と国民を鞭撻し国論を喚起する目的で、遊説隊を内地に送ることにしました。内地では政府・軍首脳、政治家らと会見し、財界や新聞社を訪問し「幣原氏の軟弱外交」を非難する一方、「満蒙解放論」は当然であると論じました。

 こうした青年連盟の圧力運動は、「満蒙放棄論」をとなえていた関西財界の空気に大きく影響したばかりでなく、東京においては七十一団体を強硬論へと結束させたとさえいわれました。貴族院の研究会、公正会はもとより枢密院の福田雅太郎、伊藤巳代治などを含む黒幕の権力者もその強硬論のあおりを受け、8月5日には上野、日比谷の二カ所で国民大会が開催されて全国的運動への糸口が今やきり開かれました。このような満州現地からの本国への圧力とならんで、関東軍の板垣も帰京して軍中央と連絡を取っていました。(上掲書397)

 そこで示された「情勢判断に関する意見」は、米ソとの開戦を覚悟しても満蒙を領土化せよと主張するもので、その根拠は、今日の恐慌による未曾有の経済不況は、アメリカ製の資本主義や民主主義がもたらしたものであり、そこにソ連製の共産主義が進入しようとしているから、「日本が経済及び社会組織を改めて社会改造を行う必要がある」と主張するものでした。さらに謀略計画に関する意見では、日本の満蒙獲得が日米、日ソ戦争を誘発する公算があるから、「支那中央政府を転覆せしめて親日政府を樹立する」謀略が推奨されていました。(上掲書399)

 こうした動きの中で、民政党は6月30日、幣原外交擁護の声明書を発しました。それは「政友会の田中内閣の外交が『支那のみならず南洋方面の排日をも引きおこして、対支対南洋貿易を危機に陥れたことを立証し』、外交知識の欠乏せる田中大将が、『我が国の対支外交をほとんど救う能わざる窮地に陥れた』と非難したうえ、民政党内閣の成立とともに、『(一)日貨排斥が沈静に帰し、(二)日支関税協定が成立し、(三)政友会内閣のとき行きづまった満蒙鉄道協定の交渉が開始され、(四)間島の共匪事件が解決して同地における共産党の細胞組織が完全に破壊され、(五)治外法権問題を中心とする日支通商条約の改定商議が開始されんとしている』ことなどをあげて、国民に対して幣原外交に対する支持を呼びかけました。(上掲書p394)

 だが、こうした幣原の努力も、1931年9月18日の「柳条溝事件」いわゆる満州事変の勃発によって、完全に息の根を止められてしまいました。そして国民の間には、数年前までは「満蒙放棄論」さえ唱えられていたものが、この関東軍による謀略戦争、彼ら自身には米ソとの開戦さえ必然と見なされたこの満州の武力占領策を、熱狂的に支持する空気が生まれるのです。もちろん、こうした世論の急展開の背後には石原莞爾という一種の偽メシア(予言者)がいました。その終末論は、ハルマゲドンを思わせる最終戦争論、最後の審判後の千年王国のような満蒙王道楽土論をともなっていました。

 では、そうした彼らの一種の宗教的信念に基づく、満蒙を日本の国家改造の前線基地とする彼らの国家改造論を根底においてささえていたものは一体何だったのでしょうか。あるいは、それは前回紹介したような大正デモクラシー時代の政党政治に対するルサンチマンだったのかもしれません。そうしたエリート将校の「恨み」と「傲り高ぶり」、「国際法無視」の精神が、日清・日露戦争以来ほとんど無意識のレベルにまで達した日本国民の、中国人に対する蔑視感や日本人の優越感を励起させた、それが、この間の世論の急激な変化をもたらしたように思われます。

 では、次に、こうしたルサンチマンに基づく国家改造運動を扇動した、偽メシア石原莞爾の戦争責任について論じたいと思います。彼の戦争責任を故意に看過し、天才的思想家とあがめる論調が余りに多いように思われますので・・・。