満州問題(8)―満州事変を熱狂的に支持する世論の変化はなぜ起こったか。
張作霖爆殺事件の「もみ消し」によって、軍部が真に守ろうとしたもの、それは一体何だったのでしょうか。もちろん、日清戦争以来、日本が膨大な犠牲を払って獲得した満州における「特殊権益」の擁護が目的であったことは間違いないのですが、問題はそれを達成する方法・手段です。張作霖爆殺事件の場合は、関東軍の高級参謀が、謀略により政府が承認した満州国の元首を爆殺し、その混乱を利用して軍事行動を起こし満州を武力制圧しようとしたのでした。 従って、もし、この重大事件の真相が明らかにされ、その責任者が厳罰に処せられるということになると、当然のことながら、軍中央の命令なしに、独自の政治的主張をもって、勝手に兵を動かした関東軍の下剋上体質が問われることになります。それと同時に、相手国の元首をも平気で爆殺する、その恐るべき危険性も国民の目に明らかとなり、その結果、そうした関東軍の暴走を食い止めるための方策や、徹底した軍紀の引き締めが図られることになります。 実は、軍部―特に陸大出の若手将校たちが最も恐れたことは、このように事態が進行することによって、軍に対する国民の信頼が失われ、その結果、彼らが「満蒙問題の根本解決」のための唯一の方策と考える「満州の武力占領」という強硬手段がとれなくなってしまうことでした。そのために彼らは組織を上げて、軍首脳はもちろん、政治家、官僚、マスコミに対する説得工作を行い、多数派を形成して田中首相を孤立に追い込み、事件の真相を闇に葬ったのです。 だが、問題はここからです。確かにこのあたりまでは、軍の行動は必ずしも国民の支持を得ていたわけではありませんでした。というのは、田中内閣による第二次山東出兵が引き起こした済南事件は、中国人の反日民族意識を決定的にし、さらに張作霖爆殺事件は、その後継者である張学良(張作霖の息子)を反日に追いやり、東三省の国民政府への合流を決断させたのです。そして、これらはいずれも軍事力行使を伴う軍の対中強硬策がもたらしたものでした。 ところが、この張作霖爆殺事件の三年後に起こった「満州事変」では、それが軍中央の命令を無視した、関東軍ぐるみの謀略的軍事行動であったにもかかわらず(もちろんその真相は国民には隠されていましたが)、マスコミを含めた国民の熱狂的な支持を受けることになりました。政府は謀略の証拠を列挙し、南陸相に対して不拡大を命じましたが、関東軍は、軍中央の黙認?や朝鮮軍の支援を得て戦線を拡大し、ついには政府も既成事実の追認を余儀なくされました。 この間わずか三年あまり、国民の意識は、張作霖爆殺事件の真相「もみ消し」以降、ほとんどクーデターに等しい関東軍による「満州の武力占領」を熱狂的に支持するまでに劇的な変化を遂げました。一体、この間に何があったか。いうまでもなくこの満州事変こそ、日本が泥沼の日中戦争に引きずり込まれ、そして絶望的な対米英戦争へと突入していく、その起因となる大事件だったのです。しかし、この時、そのことに気づいた国民はほとんどいませんでした。 ところで、こうした満州事変の位置づけ方に反対する意見もありますので、まず、これに対する私見を申し述べてから先に進みたいと思います。以下は、渡部昇一氏の見解ですが、氏は関連する文献の紹介やユニークな著作を数多くものしており、私自身も氏から多くのことを教わっていますが、いくつかの点で、私見とは異なる部分もありますので、それを確認しておきたいと思います。 満州某重大事件は日本の侵略のはじまりか(以下『昭和史』渡部昇一による) 「張作霖爆殺事件も・・・関東軍の陰謀のにおいがしても、(満州の匪賊による)連続する鉄道爆破事件の「ワン・オブ・ゼム」ととらえられるところもあった」だからそれほど大きな国際問題とはならなかった。しかし、その後この事件は日本の満州侵略の始まりであるかのようにいわれるようになった。つまり「張作霖爆殺事件が満州事変を呼び、さらには支那事変を引き起こし、それがアメリカとの全面戦争につながった・・・という見方」である。しかし、こうした見方は、占領軍から押しつけられた戦後の歴史観にすぎない。話はそれほど単純ではない。日本には日本の歴史があったのであり、それを理解しないと、この問題に対する正しい理解は得られない。 「日本は満州を侵略した」といういうが、まず、「満州における日本の『特殊権益』とは何か」を理解する必要がある。日本が満州に特殊権益を持つようになったのは、日清戦争(1894年)に日本が勝利し、下関条約で遼東半島が日本に割譲されたことにはじまる。 ところがロシアは日本に返還させた遼東半島の要衝の旅順と大連を、清国の弱みにつけ込んで租借した(1998年)。それは不凍港がほしいというロシアの悲願によるものだった。さらにロシアは1899年に義和団事件の時に日本を含む諸外国と華北に共同出兵し、それが満州に及ぶと、兵を増派して全満州を占領した。そのとき清国はロシアを満州から追おうとしなかった。この満州に居座ったロシアを追い払ったのは日露戦争に勝利した日本だった。こうして日露戦争に勝利した日本は、満州を清国に返還させた上で、ポーツマス条約により次のような満州における権益をロシアより譲渡された。 ①ロシアは遼東半島の租借権を日本に譲渡すること。 つまり、こうした経緯を見てもわかるとおり、日本は満州を侵略したわけではない。これらは国際条約にのっとって正当に得た権益である。さらに、日露戦争後、清国はロシアとの間に「露清密約」という日本を敵視する条約を結んでいたことが露見した。もし、この事実が日露戦争以前に日本にわかっていたら、日本は満州を清国に返還する必要はなかった。 次に、「満州はシナではない」ということを理解する必要がある。十六世紀後半の満州の族長はヌルハチで、当時シナ大陸を支配していたのは明で、その支配権は満州には及んでいなかった。明にとって万里の長城の外側にある満州は文明の及ばない「化外の地」だった。その後ヌルハチは東満州を統一して「後金」という国を建てた。そのヌルハチの跡を継いだホンタイジは後金を「大清国」と改めた(1636年)。この間明との攻防が続き、その後継者フリンのとき、ついに明を倒し北京入城を果たした(1644年)。ここにシナ人は満州人の被征服民族となった。 こうした歴史を見る限り、満州という土地は清朝の故郷であってシナではない。しかも秦の始皇帝以前も以降も、シナの歴代王朝が満州を実効的に支配した事実はない。つまり、「満州族の清朝がシナを支配しているあいだは、シナ本土も満州も清国の領土であるが、そうでなくなれば満州とシナ本土は別個のものだ」「したがって辛亥革命によって清国が倒されたとき、あのときに最後の皇帝・溥儀が父祖の地・満州に帰っていたら、満州はシナとは『別個の国』として存続していただろう」。 そして渡部氏は結論として、溥儀の家庭教師であったレジナルド・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』の文章を引用しつつ、次のように主張します。「遅かれ早かれ、日本が満州の地で二度も戦争をして獲得した権益をシナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信するものは大勢いた。(『紫禁城の黄昏』第16章) このほかに「なぜ張作霖は狙われたか」や、張作霖死後にその後継者となった張学良が易幟を行い東三省(満州)の国民党への合流を決断し猛烈な反日運動を展開したことが満州事変を引き起こす直接のきっかけとなったこととか、幣原外相が軍部と協力して満州独立の方向で外交的な働きをすればよかったとか、最後に昭和天皇が張作霖爆殺事件の時、田中内閣に総辞職を迫る発言をしたことについて、重臣がそうした天皇の発言を抑えすぎなければ、その後の昭和史の悲劇はいくつも避けられた、とかが論じられています。 さて、こうした意見に対する私の考えですが、まず、満州における日本の「特殊権益」についての歴史的理解はその通りだと思います。ただ問題は、それを守るためにどういう手段・方法を選ぶべきであったかということで、軍事占領がただちに正当化されるわけではないと思います。また、満州はシナの領土ではなかったということは歴史的にはいえると思いますが、満州固有の問題をシナの問題に拡大したのは二十一箇条要求や華北分離工作(11/13)に見るとおりむしろ日本だったと思います。また、張学良の易幟は自分の父親が日本軍に故なく爆殺されたからであって当然だと思います。(下線部修正10/14) なお、冒頭の満州事変及び張作霖爆殺事件を昭和史にどう位置づけるかということですが、私はいわゆる「東京裁判史観」などにとらわれることなく、それを日本の歴史の流れの中に、自分の常識で理解できる姿で位置づけるべく、さらにそれを山本七平氏の独創的見解とも対比しつつ、一つ一つ考えていきたいと思っています。 以上、渡部昇一氏の見解に対する私見を申し述べさせていただいた上で、先に問題提起しておきました、済南事件や張作霖爆殺事件以降満州事変に至るまでの間の急激な世論の変化がどうして起こったか、ということについて考えてみたいと思います。(下線部挿入10/14) |