満州問題(7)―張作霖爆殺事件と昭和天皇

2008年9月 5日 (金)

 前回、張作霖爆殺事件(昭和3年6月4日)をめぐるいくつかの問題点を指摘しました。だが、そのほかに、もう一つの重大な問題が惹起していたことを指摘しなければなりません。それは、この事件の処理の過程で、天皇及びそれを輔弼する元老・重臣たちと、政府あるいは軍との権限関係のあり方をめぐって、双方に根本的な意見の対立が生じていたということです。(実は、この問題は、今日においても、特に天皇の戦争責任との関連で問われている問題であり、日本人の被統治意識の根幹に関わる問題です。)

 この事件の処理について、田中首相は昭和天皇に、その実行犯及び責任者の厳罰を約束しました。(昭和3年11月24日)しかし、こうした田中の方針に対する陸軍の抵抗は強まる一方でした。天皇は、翌年1月に白川陸相に対して「まだか」と催促し、白川陸相は2月26日の拝謁で、調査が遷延している理由として、「関係者は尋問に対して興奮し、国家のためと信じて実行したる事柄につき取り調べを受ける理由なしとの見地により、容易に事実を語らず、陸相種々説諭を加え漸く自白に至り・・・」と苦し紛れのいいわけをしました。(『昭和史の謎を追う』上p36)

 一方、閣内では小川と森恪が中心となって各大臣を説きまわり、「閣僚全員首相に反対」(『小川秘録』)に持ち込みました。孤立した田中にとって最大の痛手は、古巣の陸軍がこぞって反対論にまとまり、特に、当初は田中支持に見えた白川陸相(処罰の法的権限を持つ)が、部下に突き上げられ、小川にけしかけられて変心したことでした。昭和4年3月末、陸軍が真相は不公表、河本らは行政処分という結論を出すと、田中は外務省で唯一の支持者だった有田アジア局長に閣議での反論を起案させましたが、そのとき「白川がなあ・・・」とため息を漏らしたといいます。(同上)

 また白川陸相は、3月27日、天皇に対して次の様な中間的な結論を報告しました。それは、「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、その計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と犯人を特定しましたが、処罰については「処分を致度存ずるも、今後この事件の扱い上、其内容を外部に暴露することになれば、国家の不利に影響を及ぼすこと大なる虞あるを以て、この不利を惹起せぬ様深く考慮し十分綱紀を糺すことに取計度存ず(後略)」という回りくどい言い方で、真相不公表、行政処分で済ますことを説明しました。(上掲書p37)

 こうして田中は、軍法会議での処分をあきらめ、「関東軍は爆殺には無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」という陸相報告(5月20日)を呑みました。その後、田中は、それを天皇に対してどう申し開きをするか、悩んだあげく、6月27日午後参内して天皇に拝謁し上奏案を読み上げました。これに対し天皇は、「お前の最初に言ったことと違うじゃないか、言い訳は聞きたくない、辞表を出したらどうか」といい、その怒りは激しく、田中は慌てふためいて退出し、鈴木侍従長に「辞職する」と何度も口走ったといいます。(上掲書p38)

 しかし、田中は、翌朝閣議に出て叱られた様子を報告したのち気を取り直し、再び、同じ処理方針を、今度は白川陸相に持たせ参内させました。すると意外にもすんなりご裁可があり、続いて鈴木侍従長より首相に参内せよと連絡が来たので、田中も閣僚も、天皇が反省して折れたらしいと喜び、田中はいそいそと参内しました。しかし、鈴木侍従長より、前日の上奏を責める天皇の意向がもう一度伝えられ、田中は拝謁を、と食い下がりましたが、鈴木から「ご説明に関し召されずとの思召なり」と聞き、「もはや御信任は去った」と諦め、その足で元老を訪れ、内閣総辞職を告げました。(上掲書p40)

 田中内閣は7月2日総辞職しました。そして、その四ヶ月後の9月29日、田中は狭心症のため亡くなりました。一説では、遺骸の首に包帯が巻かれていたことから軍刀で喉を突いて自殺したのではないかともいわれています。

 以上が、田中首相の、張作霖爆殺事件の処理についての上奏の経過ですが、ここに、二つの問題が生じることになりました。一つは、こうした天皇による、時の宰相を罷免する様な言動がはたして妥当なのかどうか、ということ、もう一つは、6月28日午後の白川陸相による天皇に対する説明にはすんなりと裁可をしておきながら、なぜ、午前の田中首相による同じ内容の上奏に対しては、あれほど激しい怒りを表したのか、ということです。

 前者の問題については、これが天皇を輔弼する宮中方面の元老重臣による政治介入であるとして軍部を強く刺激しました。もとより、軍部は田中を見放してはいましたが、張作霖事件に際して軍紀の粛正を迫った宮中に対して、激しい反感を持つようになりました。このことが、後年の五・一五事件や二・二六事件において、いわゆる「君側の奸」とされた元老・重臣(西園寺や牧野内大臣、鈴木侍従長など)が、繰り返し軍部によるテロの標的となった、その遠因とされています。(『日本史発掘2』p190)

 また、天皇に対しても、その処置が気に入らないと、「若さゆえの思慮不足」にこじつけて恨み言を言い立てる政治家や軍人も少なくありませんでした。それは「輔弼の責任者として、君主に過ちある時は其過ちを正すに非ずんば、宰相の責任をつくしたといふべからず。特に御壮年の陛下に対して君徳の完成を図るはお互いに兼ねて熱心努力せし所にあらずや。・・・昨日の陛下の聖旨中(首相の)説明を聞くに用なしとあるは・・・決して名君の言動にあらず。或は何者か君徳を蔽ふの行動に出でたるものあるやもはかられず・・・。」といったものでした。(『小川秘録』)

 また、昭和天皇自身も、戦後、このことについて、「私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいった。・・・私の若気の至りであると今は考えているが・・・」(『昭和天皇独白録』)と反省の弁を述べています。これをもって昭和天皇は自分の思慮不足を認めたとする解釈が一般的になっていますが、秦郁彦氏は、そう解釈せず「昭和天皇は熟慮の末、田中内閣を更迭するという決断のもとに行動した」のではないかと次のように説明しています。

 昭和8年6月、鈴木が時の本庄侍従武官長に語ったところでは、天皇は、田中が自己の責任で処置を公表したのち「政治上余儀なく発表しました。前後異なりたる上奏をなし申し訳なし。故に辞職を請ふ」と申し出たなら、「政治家として止むをえざることならん」と理解もするが、「まづ発表そのものの裁可を乞い、これを許可することとなれば、予は臣民に詐りをいわざるを得ざること」(『本庄日記』)になるではないか、と鈴木侍従長に述べた、というのです。(『昭和史の謎を追う(上)』p42)

 そして、そのように理解するなら、これは第二の問題に対する答えにもなります。秦氏は、「田中がこの通りの手順を踏んでいたら、天皇は今後を戒めて辞職を慰留するつもりだったのかも知れない」といっています。それが、自分の意にそわぬ結論であっても白川陸相の上奏には裁可を与え、「真相不公表」「行政処分」の線で事件の後始末に一応のケリをつけた理由であり、昭和天皇はそうすることによって陸軍との正面衝突を回避した、と推測しているのです。(同上)

 しかしながら、天皇の意向によって内閣が倒れ、政変が起きたことには変わりがありません。このことについて元老である西園寺は、当初、軍紀粛正の正論を主張しましたが、直前になって、天皇の不信任という理由で内閣が総辞職するとなると天皇が政治責任をかぶることになるのでよくないと、天皇が「田中の責任を問う」発言をすることに反対しました。(『上掲書』p41)それは君臨すれども統治せずという、日本の皇室が手本と仰いでいた英国憲政の基本にも反する言動だからです。そして、天皇の、このことに対する反省が、その後、天皇の大権による軍の暴走の抑止の可能性を狭めることになってしまった(『幣原喜重郎とその時代』p310)と多くの論者が語っています。

 だが、前回指摘したように、こうした張作霖爆殺事件の誤った処置は、次のような「恐るべき」事件を次々と引き起こし、その後の日本の政党政治の基礎を掘り崩すことになりました。1930年に発生したロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題、1931年3月の3月事件(陸軍中堅将校によるクーデター未遂事件)、1931年9月18日の満州事変、1031年10月の十月事件(3月事件と同様)、1932年5月15日の五・一五事件(海軍青年将校によるクーデター事件)そして1936年2月26日の二・二六事件などです。

 つまり、これらの軍若手将校による恐るべき謀略・クーデター事件を惹起することとなったその初発の事件が、この張作霖爆殺事件であったのですから、もしこの事件が国内法に照らして厳正に処置されていたなら、前回指摘したような問題点の自覚がなされ、その解決への努力がなされていたかもしれません。そうすれば、あるいは昭和の悲劇は回避することができたかもしれないのです。

 この点に関して、『張作霖爆殺』の著者大江志乃夫氏は、関東軍を管轄するのは参謀総長であり、その参謀長に命令または指示ができるのは天皇だけであるから、天皇はまず参謀総長に事件の真相解明の調査を命じるべきであった。それなしに陸相は司法捜査権を発動できないし、ましてや首相は事件の処分について関与できない。従って、昭和天皇がそれをしないで田中首相を叱責したのは筋違いであり、統帥権者としての自覚に欠ける行為であった。また、張作霖爆殺事件の処理に当たってその統帥権の手綱をゆるめたことが、その後の軍部という暴れ馬の暴走を許すことになった、と昭和天皇を厳しく批判しています。(『張作霖爆殺』p185)

 しかし、法理的にはそういうことがいえるのかも知れませんが、昭和天皇は、立憲君主制下における「君臨すれども統治せず」という英国憲政を手本としていたのであり、また元老重臣もそのような考えに立って天皇を補弼していたのです。従って、当然のことながら、統帥権の行使についても統帥部(参謀本部及び軍令部)による補翼(補弼を訂正11/13)に期待したと思います。その統帥部が、もし天皇が自らの意にそわない場合、補翼責任者として「その過ちを正す」ことを当然としており、事実、同様の論理に基づいて、天皇を補弼する元老・重臣が次々と軍人によるテロの標的にされたのです。

 いうまでもなく、こうした軍人の行動は、はじめから当時の国内法や国際法を無視しているのであって、こうしたアウトローを信条とする武力集団を法律で規制することは、たとえ天皇であってもそれが可能であったとは思われません。「たとえ、この時期に有能な首相が出ても、満州侵略に逸る軍部は、その政治力を持ってしても抑えることはできなかったであろう。時代は個人の政治力を超えて、日本の破局の序幕を開けはじめていた。」(上掲書p200)というのが、この時代の実相だったのではないでしょうか。

 では、その若手将校たちに、そうした合理性を超えた、破壊的行動エネルギーを供給していたものは、一体何だったのでしょうか。次回からは、このことについて考えてみたいと思います。