満州問題(6)―張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆2

2008年8月30日 (土)

 張作霖爆殺事件の真相については、東京裁判で田中隆吉少将が次のように証言したことで、はじめて一般の国民の知るところとなりました。
 「張作霖の死は当時の関東軍高級参謀河本大佐の計画によって実行されたものである。この事件は軍司令官、当時の参謀長には何ら関係なし。当時の田中内閣の満州問題の積極的解決の方針に従って、関東軍はその方針に呼応すべく、北京、天津地方より退却する奉天軍―張軍の錦州西方での武装解除する計画をもっていた。その目的は張を下野せしめ、張学良を満州の主権者として、そこに当時の南京政府から分離した新しき王道楽土を作るという目的であった。・・・しかるにこの計画はのちに至って田中内閣より厳禁された。

 しかしなおこの希望を捨てなかった河本大佐は、これがため、六月三日、北京を出発した列車を南満鉄道と、京奉線の交差点において爆破して、張作霖はその翌日死んだ。この爆破を行ったのは、当時朝鮮から奉天へきていた竜山工兵第二十連隊の一部将校並びに下士官兵十数名。このとき河本大佐は、参謀の尾崎大尉に命じて、関東軍の緊急集合を命じて、列車内から発砲する張の護衛部隊と交戦せんとした。しかし、この集合は、参謀長斉藤少将の厳重なる阻止命令により中止された。

 私は河本大佐も尾崎大尉もよく知っている。河本大佐は、まったく自分一個の計画であると申し、そのとき使った爆薬は工兵隊の方形爆薬二百個で、あのとき緊急集合が出ておったなら、おそらく満州事変はあのとき起こったであろうと語った。」(『昭和史発掘3』松本清張p52)

 ここで、事件が河本大佐だけの計画だったというのは真実ではなく、村岡関東軍司令官自身も関東軍の錦州出動が田中首相により阻止された段階で張作霖暗殺を計画し、それを知った河本大佐が自分の案を採用させた(『張作霖爆殺』大江志乃夫p16)とされているように、関東軍上層部も知っていたことは間違いありません。ただ、関東軍が他国の国家元首の暗殺に組織的に関与したということになると大変なことになるので、あくまで河本一人の謀略(爆破犯人を国民党の工作員に見せかける偽装工作もしていた)として実行せしめ、あわよくばその混乱に乗じて関東軍の武力発動の好機を得ようとしたのではないかと思われます。

 また、そのように武力発動をしてでも達成しようとしていた、その目的は何だったのかというと、それは、当時参謀本部員であった鈴木貞一の談話(戦後)に示された、次のようなものでした。
「昭和二年・・・僕は自分で参謀本部、陸軍省あたりの若い同じ年配の連中に会った。今の石原莞爾とか河本大作とかであるが、・・・日本の軍備の根底をなす政策を確定しなければならぬという考えで、いろいろ若い人に話をして、ほぼこうすれば軍部は固まり得る、少なくとも下のほうのわれわれ若いところは固まり得る、という案を考えていた。その案というのは、方針だけでいうと、満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる。そうして東洋平和の基礎にする。これがつまり日本のなすべき一切の内治、外交、軍備、その他庶政すべての政策の中心とならなければならない」(『昭和史発掘』p33)

 しかし、「こういう考えをむき出しに出したのでは、内閣ばかりでなしに、元老、重臣皆承知しそうもないから、これを一つオブラートに包まなければならぬ」ということで、鈴木貞一と森恪(外務政務次官)及び吉田茂(奉天総領事)が相談し、東方会議を開催することにしました。この会議は、昭和2年6月27日から7月7日まで、外務本省(首相兼外相田中義一、政務次官森恪他)、在外公館(中華公使芦沢謙吉、奉天総領事吉田茂、上海総領事矢田七太郎)、植民地(関東軍司令官武藤信義他)、陸軍(次官畑英太郎、参謀次長南次郎、軍務局長阿部信行、参謀本部第二部長松井石根)、海軍(次官大角岑生、軍令部次長野村吉三郎他)、大蔵省(理財局長富田勇太郎)の代表が出席し、森恪の主導で行われました。(前掲書p35)

 この会議で決まった方針(「対支政策綱領」)は、次のようなものでした。
その「綱領」の前段では、田中も注意深く、「支那の内乱政争に際し一党一派に偏せず、支那国内に於ける政情の安定と秩序の回復とは、支那国民自ら之に当ること最善の方法なり」と述べています。にもかかわらず、同一綱領の後段では、
(一)「支那の治安を紊し不幸なる国際事件を惹起する不逞分子が支那に於ける帝国の権利利益並在留邦人の生命財産を不法に侵害する虞ある時は、断乎として自衛の措置に出でこれを擁護する。……排日排貨の不法運動を起すものに対しては、権利擁護の為、進んで機宜の措置を執る」
(二)「満蒙殊に東三省地方に国防上並国民的生存の関係上重大な利害関係を有する我邦としては特殊の考量を要す。同地方の平和維持経済発展により内外人安住の地とする事には接壌する隣邦として特に責務を感じる」
(三)「東三省有力者にして満蒙に於ける我特殊地位を尊重し、真面目に同地方に於ける政情安定の方途を講ずる場合は、帝国政府は適宜これを支持する」
(四)「万一満蒙に動乱が波及し我特殊の地位権益が侵害される虞がある時は、それがどの方面から来るを問はず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持される様、機を逸せず適当の措置をとる覚悟を有する」(『満州事変への道』p199)となっていました。

 だが、こうした方針は、「田中と森の方針の相違(田中は、日本の満蒙への勢力進出をできるだけ同地の実力者(張作霖)を利用してその目的を達成しようとしていたのに対して、森は、そんな手ぬるいことはせず、日本が直接満蒙に手を下し、その開発に当たるべきとした。)や、関東軍の強硬論(治安の乱れを口実に満州を武力制圧する)と、なお幣原外交の影響が強く残る外務省首脳見解(「将来東三省の主人がだれになろうとも、日本の権益にははなはだしい影響はない。満州における日本の地位はすこぶる強固であるから、今後は公平かつ合理的な主張をもって日本の権益を擁護し、経済的発展を獲得すれば足りる」=吉田茂奉天総領事)の対立を反映した、いわば玉虫色の色彩を帯びていた」といいます。(『張作霖爆殺』p8)

 そして田中は、満蒙政策を具体化するためには、まず満蒙の地に鉄道を増敷設をすることから開始し、その沿線に日本の勢力を伸ばしていくこと、この計画は東三省の「真面目な有力者」=張作霖と提携することだと考えました。そこで「張作霖をして東三省における過去、現在及び将来のわが国の地位とともに以上の趣旨を十分諒解せしめ」鉄道の増敷設を承認させるため、その交渉を山本条太郎(満鉄総裁に任命)にあたらせたのです。結局、張もそうした要求を承諾し北京を引き上げることに同意しました。山本はこれで「日本は満州をすっかり買い取ったも同然だ」と喜んだといいます。(『満州事変への道』p201~206)

 一方、関東軍の方は、そもそも東方会議がもたれたのは、先に紹介した鈴木貞一のような考え方を政府の満蒙政策の指針とするためでしたから、その結論を「満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる」という方向で理解していました。そして、そのためには、蒋介石の北伐によって張作霖が北京から追われる際の混乱を利用して、日本軍のいうことを聞かなくなっている張作霖を武装解除し下野させることで、一挙に満州を武力制圧し支那本土から切り離すとともに、その政治支配権を確立しようとしていたのです。

 しかし、こうした関東軍の思惑は、田中首相の採った満蒙政策によって裏切られることになりました。そして、このことに対する怒りが、「張作霖爆殺」という「恐るべき」事件を引き起こすことになったのです。当然のことながら、田中首相は、自分の満州問題解決の努力を水泡に帰したこの愚挙を怒り、その実行犯及び責任者の厳罰を天皇に約束しました。しかし、軍は事件をうやむやにすることをはかり、それに多くの閣僚も同調し、また多くの政治家やマスコミも、真相が公表される事によって日本が面子が失われることを恐れて追求を手控えました。結局、軍は、真相は不明、事件の責任者は事件現場付近の警備上の手落ちがあったということで行政処分するに止めたのです。

 さて、ここで問題となるのは何か、ということですが、

 第一に、たとえ、首相の意志に全く反することであっても、自分たちが正しいと信じることであれば、何をやってもかまわない、という下剋上的考え方が、当時の軍特に若手の将校たちに蔓延しており、これを放置したということ。

 第二に、この場合、何をやってもかまわないといっても、爆殺の相手は、北京政府の大元帥である。それを関東軍の一参謀が平気で爆殺し、それを軍が組織ぐるみでかばうということは、当時の軍人が中国人をどれだけ軽んじ侮っていたかということ。逆に言えばどれだけ増長していたかということ。

 第三に、実は、この事件の真相は、事件発生後二ヶ月たった八月頃には、東京、上海、天津の英字新聞に出始めており、爆破ははっきり日本軍のしわざであると報道されていた。そして九月頃には、国内の新聞も与野党も詳しい内容をほとんど知っていた。にもかかわらず、国内の新聞は、翌年の4月になっても「満州某重大事件」としか言わなかった。ここに、日本の新聞の権力迎合的性格が如実に現れていたということ。

 第四に、このように、外国人の目から見れば虚偽であることが明白であるような事件について、政治家もマスコミも、「外に向かって恥ずかしいようなことをわざわざ公表しなくてもいいではないか」というような甘い考え方をした。それが日本に対する国際的信用をどれだけ失墜させ、日本人に対する侮蔑を招いたかについて、考えが及ばなかったということ。

 第五に、これだけの重大事件を引き起こした犯人たちが、形式的な行政処分で済まされたばかりか、仲間内で英雄視され、要職につけられ、軍で重用され続けたということ。また、彼らを組織ぐるみでかばい、事件をもみ消そうとした責任者たちが、その後の軍の出世街道を歩き軍の中枢を占めたということ。

 そして最後に、この事件が、以上のような問題点を抱えながら処理されたことによって、結果的に「満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる」という考え方(が容認されたということです。そして、ついに満州事変を経て、)政府自身(もこうした考え方を)認知せざるを得なくなりました。〔( )内挿入9/3〕

 こうして、日本は、この時ついた嘘(謀略の存在のもみ消し)をつき続ける一方、こうした手段(武力発動し満州を実効支配すること)に訴えた自らの立場を正当化し続けなければならないという窮地に追い込まれることになりました。しかし、この嘘はアメリカには見えていました。日本を対米戦争に追い込んだハル・ノートの第一条件は、「日本軍の中国からの撤兵」でしたが、それは、このときついた嘘を嘘と認めることを意味していました。しかし、その時点(昭和16年)で日本は、満州事変以降さらに多くの犠牲を払っており、これを無視して撤兵する勇気は、当然のことながら当時の軍人にはありませんでした。〔( )内挿入9/4〕