満州問題(5)―張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆

2008年8月21日 (木)

  前回、関東軍高級参謀河本大作が引き起こした張作霖爆殺事件(1928.6.4)によって「満州事変」への道が開かれた、ということを申しました。つまり、満州事変というのはこの事件がもたらした帰結だということです。その意味で、この張作霖爆殺という「恐るべき」事件の発生と、その処理をめぐる「奇怪さ」の中に、その後の対米英戦争に至る、日本人の数々の蹉跌の根本原因が胚胎していたといっても過言ではありません。次に、それがどれほど「恐るべき」事件であったか。また、その処理がいかに「奇怪」なものであったか、ということを見ておきたいと思います。

 いま少し詳しく事件の概要を述べます。

 前回述べた済南事件は未解決のまま、田中内閣は、京津に非常事態が継続していることを理由に、5月8日、三たび山東出兵しました(これで山東地帯の日本兵は一万五千に達した)。さらに田中は同月18日、満州に動乱が波及する場合は治安維持のため適当有効の措置をとるむね中国南北両政府に覚書で通告しました。これは、南北両軍の(錦州方面よりの)満州乱入を阻止するため両軍の武装解除を行うという事を意味していました。といっても、南軍(革命軍)の関外(長城以北)《関内(長城以南)を訂正8/22》進入は絶対に阻止するが、奉天軍の場合は、早期に戦闘を離脱して整然と関外に引き上げれば、必ずしもこれを武装解除しないと了解されていました。

 この通告に対して、北京政府(北軍)も国民政府(南軍)も共に内政干渉であると激しく抗議しました。しかし、国民政府は、この通告の意味するところは、関内の国民政府による統一を日本が認めたものと理解し、矢田七太郎総領事に対して、関外に奉天軍が撤退するならば国民革命軍はこれを追撃しないと約束しました。一方、張作霖の方は、日本の武力援助により関内にとどまることを期待していたためこの通告には大変不満でしたが、田中は芳沢公使に訓電して、張作霖に対して自発的に奉天に引き上げるよう勧告し、張作霖はやむなくこれを承諾しました。(上掲書p305)

 一方、村岡長太郎関東軍司令官は、18日この覚書を受領するや、奉天軍の武装解除を目標として関東軍の錦州派遣と軍司令部の奉天移駐にとりかかりました。しかし、外務省は、この措置がポーツマス条約で規定された範囲をこえて、関東軍の付属地外への出動をもたらすことになるとして反対し、19日、芳沢公使あてに「奉天軍の引き上げを南軍が追撃」しない場合は武装解除するには及ばないと訓電しました。20日夕、奉天では林総領事が斉藤参謀長と秦特務機関長と会い、有田アジア局長からの同文の訓令を提示したため、関東軍は錦州出撃計画を別命あるまで延期することにしました。(上掲書p306)

 この間、関東軍の田中首相と政府に対する不満は日ごとに激しくなっていきました。参謀本部の方も、荒木貞夫作戦部長の外務省への圧力が功を奏せず、29日の陸軍・外務両省の首脳会議でも現地軍出動時期について意見がまとまらなかったため強い不満を持つようになりました。5月31日、張の北京撤退が時間の問題となった段階で、関東軍は重ねて出兵の許可を求める電報を軍中央に打ちました。31日陸軍は関東軍の電報を受け取ると、阿部軍務局長を通じて有田アジア局長に出兵断行を強調させるという手をもちいました。両名は田中首相のところにおもむき田中首相の裁断を仰ぎましたが、田中首相は31日夜出兵延期を裁決しました。(『太平洋戦争への道1p308』)

 村岡関東軍司令官は、これにいらだち、北支駐屯軍と連絡を取り、張作霖暗殺を計画しました。しかし川本大作高級参謀は、あくまで張の謀殺によって関東軍の満州武力制圧のきっかけを作るという目標をもっていたため、村岡の計画ではなく自分の作った爆破計画を採用させました。河本の張作霖爆殺→東三省権力の地方軍閥化→治安攪乱→関東軍出動という段取りは、5月中旬、大石橋の石炭屋・伊藤謙二郎が、張作霖に代えて呉俊陞(しょう)擁立計画を斉藤参謀長に進言したことに端を発しており、河本は出兵の奉勅命令が出ないため、かねてからの鉄道爆破計画を実施に移すことにしたのです。(上掲書p309)

 また、河本は、張作霖抹殺により満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するためには、張作霖はその本拠地奉天で殺害されたほうが治安が乱れている証明になると考え、6月4日早朝、張が京奉線で奉天に帰る途中、満鉄とクロスする地点で陸橋下に爆薬をしかけ張作霖を列車ごと爆破し死亡させました。河本は日本の主権下にある満鉄付属地内で張作霖が爆殺されたとなれば、その部下の軍隊が直ちに駆けつけるであろうから、主権侵害を口実に武力衝突を起こす計画であり、また、その日の内に第二段階行動として各地の爆弾騒ぎの挑発謀略を起こしました。しかし、この陰謀が河本を中心とするごく少数者で計画実行されたことや、案に相違して奉天省長は奉天軍の行動を抑制したため、武力発動には至りませんでした。(『張作霖爆殺』p16大江志乃夫)

 この事件の報を受けて、田中首相は愕然としました。なぜなら、田中は「満蒙に鉄道を増敷設し、この沿線に土地所有権なども獲得し、資源を開発して日本の勢力を伸ばしていくこと、そしてこの計画は張作霖を擁立して進め」ようとしており、そのために張を東三省に引き上げさせたからです。事実、田中の意を受けて、山本(条太郎)満鉄総裁と張との間には鉄道敷設の契約が成立しており、しかしこの計画はあくまで張と山本・田中の個人的「諒解」であったので、張が北京にとどまり南軍に破れでもすれば、もとのもくあみになると恐れていたのです。(『満州事変への道』P213~214)

 だが、この事件は関東軍の河本大佐を中心とするごく少数者の陰謀であったため、当初は陸軍中央部も田中首相もその真相を知ることができませんでした。陸軍中央部は、6月26日から一週間、河本大佐を取り調べましたが、河本は事件への関与を否定し、また陸軍中央部も内心張作霖の抹殺を望んでいましたので、河本を深く追求することなくその釈明を信じ、関東軍は事件と無関係であるとの報告を田中首相にしました。しかし、河本が上京したとき、荒木作戦部長、小磯国昭航空本部総務部長、小畑敏四郎作戦課長が出迎えており、河本は彼らには一切の事情を告白していました。(『張作霖爆殺』P20)

 一方、田中首相は9月7日林総領事に会い、「本件は国際的重大事件である。若し日本人の仕業ならば厳重に処罰し、信を天下につながなければならぬ。ついては本件を取り調べよ」と命じるとともに、陸軍省軍務局長、外務省アジア局長、関東庁警務局長に共同調査を命じ、さらに峯幸松憲兵司令官を奉天に派遣し調べさせました。その結果、関東軍からは何らの証拠も得られませんでしたが、朝鮮軍の工兵隊が爆薬敷設に関係しており、その工兵隊の某中尉を取り調べた結果、案外すらすらと自白したので帰郷し、10月8日に白川陸相を通じて田中首相に報告しました。また外務省などの共同調査の第二回調査特別委員会が10月23日に開かれ、河本らの犯行をほぼ裏付けましたが、杉山軍務局長は陸軍側の調査報告を待ってくれと依頼し、また参謀本部は、事件をやみのうちにほうむろうとしました。(『太平洋戦争への道1p320)

 田中首相は事実がある程度判明した段階で西園寺に報告しました。この時西園寺は首相のとるべき方針について次のように勧告しました。
「万一にもいよいよ日本の軍人であることが明らかになったら、断然処罰して我が軍の綱紀を維持しなくてはならぬ。日本の陸軍の信用は勿論、国家の面目の上からいっても、立派に処罰してこそ、たとえ一時は支那に対する感情が悪くなろうとも、それが国際的に信用を維持する所以である。かくしてこそ日本の陸軍に対する過去の不信用をも遡って回復することができる。・・・また、内に対しては・・・政党としても、また田中自身としても、立派に国軍の綱紀を維持せしめたということが非常にいい影響を与えるのではないか。ぜひ思い切ってやれ。しかももし調べた結果事実日本の軍人であるということが判ったら、その瞬間に処罰しろ。」(『張作霖爆殺』P28)

 田中首相はこの西園寺の勧告を容れ、事実関係者の厳正な処罰と、全容の解明・公表することで意見一致しました。しかし参謀本部は、政友会幹部と連絡を図り、原嘉道法相、久原逓相、小川鉄相、山本達雄農相は公表反対としました。一方、田中を支持して公表賛成したのはわずかに岡田啓介海相と山本満鉄総裁だけとなりました。また当初田中に共鳴した白川陸相もにわかにあわてだし、いまや全陸軍が組織の命運をかけて田中首相に挑戦したに等しい状態となりました。こうした陸軍の動きは、この陰謀が公表されることによる陸軍の面子・威信の失墜が防ぐということ以上に、当時の陸軍が進めようとしていた満州問題の(軍事的)根本解決方針を死守せんとする思惑に発していました。

 こうして、小川ら満州に利害を持つ閣僚、政治家たちも、処罰と公表に頑強に反対するようになりました。それは、もし「この事件の全容が明らかになれば、満州はもとより、中国全体からの強い反発は避けられない。そうなれば、国民党政府が進めている、国権回復運動がいよいよ勢いづき、また反日、抗日運動がより盛んになるのは目に見えている。今は中国の条約を無視したやり方に対して反感を持ち、日本を支持してくれているイギリスをはじめとする国際世論も、陰謀が明らかになったら、どのような姿勢をとるか分からない。その帰趨によっては、日本は満州から追い出されることになるのではないか。」(『地ひらく』上p360)といった危惧によるものでした。

 しかし西園寺に励まされた田中は、この事件についての「調査内容」を、1928年12月24日午後2時に天皇に奏上しました。「作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるものの如く、目下鋭意調査中なるをもって若し事実なりせば法に照らして厳然たる処分を行うべく、詳細は調査終了次第陸軍大臣より奏上する」(『田中義一伝記』による)これに対して天皇は田中に「国軍の軍紀は厳格に維持するように」と戒めました。田中は上奏後、各閣僚に個別に了解を求め、白川陸相に対して強硬に責任者処罰を要求しました。しかし、この報告を白川から聞いた陸軍省中堅幹部は激烈に反対を表明しました。(『太平洋戦争への道』P321)

 ここで、陸軍省中堅幹部というのは、実は東条英機や永田鉄山といった学閥(藩閥を訂正8/26)意識を強く持った陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校出身のエリートたちのことで、陸士卒業期でいえば15期以降の卒業生です。彼らは二葉会(15期から18期まで)や一夕会(20期から25期)といった藩閥と違った学閥を母体とする新しい幕僚閥を形成していました。そして、当時の軍内の主導権は、こうした、日露戦争の激戦を体験していない(試験で選抜された)エリート軍人たちの手に握られていたのです。張作霖事件の首謀者である河本大作は、陸士第15期でこれらの幕僚閥の最先輩であり、その行動は同士たちに”英雄視”され、彼らによる組織を上げての擁護が画策されていたのです。

 田中は、1929年に入っても、このように陸軍の組織から孤立した状況におかれながら、なお懸案解決に向かって努力しました。しかし、政友会の森恪や、閣僚たちは、田中内閣を存続させるためには、田中首相が陸軍の要求に従うことを求めました。6月12日には、鈴木参謀総長、武藤教育総監が白川陸相と会談し田中首相に反対の態度をとるよう要求し、その後、陸軍省では阿部次官、杉山軍務局長、川島義之人事局長が田中の要求に反対をとなえ、白川陸相も辞意を表明すると見られたため、ついに田中首相は陸軍の圧力に屈し、責任者を単に行政処分にする案を天皇に上奏するとともに、真相不明として公表することについて許可を得ようとしました。

 しかし、天皇は「首相の述ぶる所前後全く相違するではないか」とのむねを伝え、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理のいうことはちっとも分からぬ、再び聞くことは自分はいやだ」ともらしました。恐懼した田中首相は、その後ただちに西園寺を訪問し一時間にわたる会談の後、各大臣一人一人官邸に呼んで内閣総辞職に至るかもしれぬと告げました。この際再度参内して事情を天皇に奏上するよう求められ、田中は再び参内しようとしましたが鈴木侍従長はこれを取り次ぐことに難色を示しました。恐懼した田中は首相を辞任し、7月1日田中内閣は崩壊しました。同日、河本大佐停職、斉藤中将と水町少将とが重謹慎、村岡中将が持命となりましたが、処分の文案には関東軍の警備上の手落ちとのみ説明されていました。(上掲書p326~327)