満州問題(4)―張作霖事件が切り開いた満州事変への道

2008年8月 9日 (土)

 ここまで、日本が日中戦争それから日米戦争へと引きずり込まれていく、そのターニングポイントとなった満州事変がどうして起こったのかを見てきました。一般的には、これを日本軍による植民地主義的な領土拡張(=帝国主義的な侵略戦争)と見る見方が多いと思います。しかし、こうした見方は、マルクス主義的な歴史観(植民地主義や軍事的膨張主義を伴う帝国主義を資本主義の帰結とする見方)によらない限り、”当時の軍人の頭は狂っていた”というような結論に達せざるを得ません。また、それは自分は彼らとは違うといった免罪意識につながり、さらには自分を被害者に見立てて当時の日本人を糾弾するといった態度になります。

 しかし、実際には、この満州事変が起こる前段には、幣原喜重郎による国際協調主義に基づく日中「友好政策」があり、それを国民が支持した時期もあったのです。彼は中国の満州に対する主権を認めた上で、ワシントン会議における「九カ国条約」に抵触しない形で、両者の友好的な関係を維持することで日本の満州における「特殊権益」の確保ができると考えていました。しかし、こうした幣原の態度は、結局、中国の排外主義的な日本の「特殊権益」侵害を防ぐことはできず、日本国内においては、第一次南京事件を経て、幣原外交を「屈辱外交」と批判する論調が次第につのっていきました。

 この第二次南京事件というのは、北伐途上の国民革命軍が南京を占領した際、列国領事館が襲撃に会い暴行・略奪をうけたという事件です。英米軍艦は蒋介石軍の本拠地を砲撃してこれに軍事的圧力を加えましたが、日本の軍艦は「尼港事件」の教訓から十数万の居留民に危害が拡大することを恐れて砲撃を控えました。また、日本領事館でも無抵抗主義をとったことから、現場にいた海軍大尉も居留民と共に暴行・掠奪を受けることになりました。そのため、彼は帰艦後、これを帝国軍人として屈辱に耐えないとして割腹しました。

 この事件を機に、幣原外交を非難する世論が急速に高まっていきます。各新聞はセンセーショナルに支那兵の残虐を報道し、激越な言葉で幣原の無為を論難しました。また、金融恐慌問題を討議中の枢密院でも、南京事件を中心とする若槻内閣の対支外交批判が集中し、「なかでも枢密顧問官の伊東巳代治は、率先して幣原外交を罵倒した。論旨は、無抵抗主義は本帝国の威信を傷つけ、軍の士気を阻喪させ、中国における日本人の生命財産を危うくしている。国民党の革命運動は北支に及ぶ趨勢であるが、その背後には第三インターナショナルの共産勢力がある。これに対する政府の認識は甘い」というものでした。(『幣原喜重郎とその時代』p293)

 こうして、ワシントン会議(1920)以降、第一次若槻礼次郎内閣まで、幣原喜重郎が主導した国際協調外交、日中友好外交、内政不干渉外交は、田中義一(外相兼任)内閣(1927.4)の「積極外交」に取って代わられることになります。この田中内閣の「積極外交」とは、中国における日本人居留民の生命財産や権益(条約によって認められたもの)を守るためには、必要があれば出兵してでもそれを守る(「現地保護政策」)というもので、特に、満洲における「特殊権益」を守るためには、その地区の治安維持のための積極的な役割を果たす、というものでした。

 ところが、こうした田中義一内閣の「積極政策」は惨憺たる結果をもたらしました。おりしも、1928.2から蒋介石による中国統一をめざす第二次北伐が始まっており、4月には早くも山東省の境に達していました。田中内閣は居留民の「現地保護政策」をとっていたため再び山東出兵(4.20)しました。この時、蒋介石軍は済南に平和的に入城しますが、5月3日に発生した南軍暴兵による日本人に対する掠奪・暴行事件がエスカレートして日本軍との全面衝突となり、5月8日には日本軍が支那軍の立てこもる済南城を砲撃、11日これを占領するという「済南事件」が起こりました。(死亡者は日本軍二百三十名、中国軍二千名、日本人居留者十六名)

 この「済南事件」は、その後の日中関係の大きな転機となります。中国は、日本権益に対する組織的なボイコット運動で対抗するようになり、日中間の話し合いよりも国際連盟や欧米マスコミに向かって日本を非難し、日本を孤立させる政策をとるようになりました。特に、日本軍の行動は張作霖政権を応援するために、意図的に南軍の北進(北伐=中国統一)を妨げるものであるという推測も行われ、中国の国民感情をますます刺激しました。それまでは中国の排外運動といえば英国が主たる目標でしたが、一転して日本が最大の敵となりました。(上掲書p296)

 このことについて幣原は、「日本には、もともと北伐軍の進路を妨げて中国の内政に干渉する意図があったとも思われない。それならば、居留民(約2,000人)をしばらくの間青島など安全な場所に避難させておけばよかった。それなのに政府は、将来どうするかの深い考えもなく突如出兵して、現地保護策をとった。その結果、国庫の負担はすでに六、七千万円に達し、将卒の死傷も数百名を下らない。そしてわが居留民は財貨を略奪され虐殺陵辱にあったものは少なくない惨状を呈している。」と批判しています。(慶應義塾大学での講演、上掲書297)

 また、1929年の貴族院における質問に答えるかたちで「南京事件では特に出兵もせず、日本人には一人の死者もなかった。しかるに済南事件では出兵したがためにかえって多くの死傷者を出したのは皮肉である。田中内閣の山東出兵により対支外交は完全に失敗し、その結果、多年築かれた日支両国の親善関係を根底から破壊してしまった。じつに国家のために痛恨に堪えない」と嘆き、「これは畢竟、内政上の都合(世論におもねったということ=筆者)によって外交を左右し、党利党略のために外交を軽視した結果であると信ずる」と述べています。(上掲書p298)

 だが、はたして、こうした幣原の「人間の善意と合理主義への確信」に基づいた対支外交で、日本の満州における「特殊権益」は本当に守れたのでしょうか。幣原は、「我々は支那における我が正当なる権利利益をあくまでもこれを主張するときに、支那特殊の国情に対しては十分に同情ある考慮を加え、精神的に文化的に経済的に両国民の提携協力を図らむとするのであります。」(『大東亜戦争への道』p250)と述べています。しかし、こうした幣原の外交姿勢に対して、特に、自分たちの生活が直接脅かされていると感じていた中国在留邦人と日中ビジネス界から激しい批判がわき起こりました。

 田中内閣は、こうした幣原の軟弱外交に対する批判を背景に、幣原外交の不干渉主義を離れ、在留邦人の「現地保護主義」を標榜するかたちで登場しましたが、これが中国側との衝突を招くことは不可避でした。では、一方、仮に幣原のいうように「現地保護主義」を抑えて不干渉主義を貫いたとした場合、はたして、幣原が言うような合理主義に基づく満州権益の主張は、中国の国権回復運動のうねりに抗し得たでしょうか。これは双方によほどの良識と指導力があってはじめてできることで、その意味では「悲劇は運命づけられていた」と岡崎久彦氏は述べています。(『前掲書』p288)

 済南事件の後、蒋介石の軍隊は済南を迂回して北上を続けました。北京の張作霖軍は風前の灯となっていました。この時、日本軍が最も心配したのは、戦乱が満州に及んで日本の権益が害されるということでした。そこで、田中は1928年5月18日、張、蒋双方に対して「もし、戦乱が北京、天津方面に進展し、その禍乱が満州に及ばんとする場合は、満州の治安維持のために適当にして有効な措置をとらざるをえない」と公式の覚書きで警告しました。その一方で、北京の芳沢公使を通じて張作霖に対して、戦わずに満州に引き上げて満州防衛に専念するよう説得しました。

 この時、田中首相は、「いざという場合の用意はしつつも張を平和裏に満州に撤退させて、すでに話し合いが軌道に乗っている満州五鉄道(吉会線の内敦化、図們間、延海線、吉五線、長大線、洮索線の五線で、正式の外交ルートを通さない秘密交渉により、山本条太郎が張作霖に無理矢理ねじ伏せる形でのませたもの=筆者)などの日本の権利を張に守らせ」ようとしていました。そしてその説得が成功して、張は北京から引き上げ京奉線で奉天に帰る途中、満鉄とクロスする地点で陸橋下にしかけられた爆薬により列車ごと爆破されて死亡したのです。(満州某重大事件」1928.6.4)

 これは、関東軍の河本大作高級参謀が引き起こした事件だったのですが、その目的は、張作霖抹殺により東北三省権力を中小の地方軍閥に四分五裂させて満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するということにありました。しかし、奉天軍が反撃を抑制したことや、ごく少数による計画・実行であったために武力発動には至りませんでした。張作霖の死後、田中は息子の張学良をたてて、今まで通りの計画を推進しようとしましたが、逆に、張学良は蒋介石に恭順の意を表し、七月末には中華民国の国旗、青天白日旗が全満州に翻ることになりました。ここに関東軍の夢も破れ、こうして満州事変への道が開かれることになったのです。