日本近現代史における躓き―満州問題(2)幣原外交はなぜ国民の支持を失ったか

2008年7月18日 (金)

 これまで見てきたように、私も、”ワシントン会議以降、『幣原外交』による「満州問題」の処理ができていたら・・・”と思うわけですが、結果から見ると、いささかこれは楽観的過ぎたのではないかと思います。そもそも、この「満州問題」のポイントは、中国が条約上で認められた日本の満州ににおける既得権益を組織的に侵害しているというものでした。こうした考え方の背後には、先に述べたように、日本が日露戦争において膨大な人的犠牲を払ったという思いがあったことは疑いありません。

 そして、こうした考え方は、当時の日本の中正穏健な識者たちにも共有されていました。

「たとえシナの民族統一の願望に同情があったとしても、ちゃんと礼儀を守り、懇願してくるのならよいが、とにかく南満州の権利は当然シナに帰属すべきだと言って既存の権利を取りに来るのでは、こちら側に超人的な善意がないかぎり、ああそうですか、といって承認し得ないのは当然である。まして南満州の日本の権利はロシアから譲り受けたものであって、英国、フランスのように直接中学から奪取したものではない」(河合栄二郎)

 そして、幣原喜重郎は、この問題を、ワシントン会議で確認されたウィルソン的理想主義に基づく国際的法規範の枠組みの中で処理しようとしたのです。それは中国の領土保全を約束した九カ国条約においても、その第1条第4項で、「友好国の臣民または人民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため、中国における情勢を利用すること、およびこれら友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控えること」と規定し、これを列強の中国における既得権を侵されない保証としていたのです。(『戦争の日本近現代史』p269)

 また、幣原は、1922年2月2日極東総委員会において次のように中国の態度を非難しています。

 「支那が自由なる主権国として締結したる国際的約定を廃棄せしむが為、厳にとらむとする手段については、同意を表するを得ざるものなり〔中略〕(しかし)何国と雖も、領土権其他重大なる権利の譲渡を容易に承諾するものに非ざることは言を俟たず。若し条約に依り厳然許与せられたる権利が、許与者の自由意志に出でざりしとの理由を以て、何時にてもこれをこれを廃棄し得べきものとするの原則を一旦承認せられむか、これ亜細亜、欧羅巴其他至る処に於ける現存国際関係の安定に、重大なる影響を及ぼすべき極めて危険なる先例を開くものなり。」(上掲書p270)

 おそらく、このあたりまでは、こうした日本の言い分は十分説得力を持っていたのではないかと思います。幣原は、ワシントン会議が終わる直前の会議で「日本は条理と公正と名誉とに抵触せざる限り、できうるだけの譲歩をシナに与えた。日本はそれを残念だと思わない。日本はその提供した犠牲が、国際的友情及び好意の大義に照らして無益になるまいという考えの下に欣んでいるのである」(『幣原喜重郎とその時代』p198)とその中国に対する「思いやり」の心境を吐露しています。

 そして、幣原は、こうした考え方に立って、その後、約10年間(田中義一内閣の時を除いて)、いわゆる「新外交」と称する「幣原外交」を押し進めていくのです。しかし、こういった幣原の理想主義は、次に述べるような内外情勢の変化の中で、次第に国民に対する説得力を失っていきます。その一方で、その抜本的解決を軍に求める空気が次第に醸成されていきます。そこで登場したのが石原完爾という預言者(日蓮宗徒)的人物で、彼は、幣原とは全くその質を異にする国際関係のパラダイム(西洋の覇道文明と東洋の王道文明が最終戦争を争うというもの)を提供し、そのための抜本解決策を立案します。

 こうした石原の考えは一見荒唐無稽なもののように見えますが、必ずしもそうではありません。「彼はまず日露戦争の勝利に疑問を持ち、もしロシアがもう少し戦争を続けていたならば日本の勝利は危うかった」点に着目し、またナポレオン戦史を研究して、勝敗の鍵は膨大な資源を要する持久戦に勝てるかどうかである、と考えました。そして、戦争は先に述べたように第一次世界大戦で終わるものではなく、最終戦争を控えている。そして、それに勝つためには、まず、満州を北満州まで押さえてロシアに対する防衛を固め、さらに満蒙、朝鮮、日本の資源を動員してアメリカの大戦(持久戦)に備えるべき、としました。(前掲書p348)

 また、彼が満州事変を起こした昭和6年当時は、「ソ連は第一次五カ年計画が未達成であり、外に力を用いる余力はなく、石原はこれを絶好のチャンスと考えた。また、アメリカは大恐慌の最中で外の争いにかかわる余裕はなく、蒋介石は大規模な掃共作戦に従事中であり、張学良は主力を北京周辺に集めていた」(前掲書p349)こうして石原完爾は、昭和3年に関東軍参謀として赴任して以降、満州占領のための作戦、占領後の具体的計画案まで緻密に練り上げ、これを実施に移すタイミングを計っていたのです。

 もちろん、こうした破天荒な計画が、軍はもちろん一般国民の支持を受けるようになるまでには、次に述べるような、いわゆるワシントン会議で確認された国際協調路線を根底から覆す国際情勢の変化があります。が、この間の最大の問題は、私は、やはり当時の日本人の思想・心情にあったのではないかと思います。確かに、このあたりは運命的としかいえない部分があるのですが、事実の問題として、その後の軍のテロリズムを支持し、国際社会の支持を失わせる道を選択したのはマスコミを含めた国民自身だったからです

 この点、満州事変が柳条湖における満鉄線路爆破という謀略で始まった事は、そうした行動に出ざるを得ない中国側の「挑発」があったにせよ、「国際法上」言い訳のできない致命的な瑕疵となりました。また、こうした(「国際法」無視の)考え方が当時の軍を支配していたことは、この3年前に起こった張作霖爆殺事件における軍の対応を見ればよくわかります。軍は、この事件(当時、満州の支配者であり北京政府大元帥の地位にあった張作霖を奉天郊外で列車ごと爆殺した。)の実行犯河本大作(大佐)を徹底してかばい、周辺鉄道の警備不備という行政処分ですましたばかりか、その4年後の昭和7年には満鉄理事の要職に任命しているのです。

 ここに、「尊皇愛国の純粋な動機でありさえすれば何をしてもかまわない」という、恐るべき法秩序無視、下剋上的思想傾向が、当時の軍を支配していたことに気づきます。そして、こうした思想傾向は何も軍だけに特有なものではなく、国民一般の心情にも根強く支えられており、これが軍部独裁を生み、昭和の激動期を迎えてその後の日本の選択を狂わせていくのです。一体、これはどうした事か。なぜ大正デモクラシーという政党政治が花開いた直後に、こうした過激思想の急展開が起こったのか。実はここに昭和史の謎が隠されているのです。