日本近現代史における”躓き”2―日韓併合

2008年6月22日

 「日本近現代史の躓き1」で、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思う最初のポイントとして「日韓併合」をあげました。最近は韓国ドラマなどを通して韓国人の生き方や考え方を知り、韓国文化に不思議な”なつかしさ”や”あこがれ”を感じる人も多くなっています。また、進んでハングルを勉強する人も増えてきていますので、両国国民の相互理解も、徐々に改善の方向に向かうのではないかと期待されます。

 しかし、その場合も、こうした日朝間の過去の歴史をしっかり勉強し、それにまつわる事実関係をしっかり把握しておく必要があるのではないかと思います。なにしろ「日韓併合」というのは1910年から1945年までの36年間、韓国民族の独立を奪い日本民族に同化しようとした歴史であり、それだけに、そこに至った政治的理由やこの間に醸成された韓国人に対する差別意識の根源をしっかり見据えておく必要があるからです。

 一般的な「日韓併合」を正当化する理由としては、当時の食うか食われるかの帝国主義的時代環境の下で、韓国はその置かれた地政学的位置の故に、清国、ロシア、日本という三強国間の勢力拡大競争に巻き込まれざるを得なかったこと。また、この間、李氏朝鮮が排外的な小中華思想を脱却できず近代化が立ち後れたために、自らの政治的独立を保持し得ず、結局、日清、日露戦争に勝利した日本に併合されることになった、というものです。

 この場合、もし日本が日清、日露戦争に勝たなければ、韓国はもちろん日本もソ連邦の解体までかっての東欧諸国と同様、国家としての自由を奪われていたはずだ、といわれます。また、仮に、日清戦争において清(=中国)が日本に勝利したとすれば、いうまでもなく、沖縄やその周辺諸島は清(=中国)のものとなり、また、韓国も、それまでの清露の力関係から考えてソ連による支配を免れなかったと思います。

 となると、日本の立場から言えば、日清、日露戦争を勝ち抜き、韓国を日本の勢力下に置くことに成功した後において、なお、「韓国の独立を保全し、日韓の長期的信頼関係を固めるという選択肢」があったかどうか、ということが問題となります。これに対して岡崎久彦氏は「結論から言えば、可能性はほとんどなかったというほかはない」と次のようにいっています。

 まず第一に、「当時の日本としては、ロシアの韓国征服の意図を排除したなどととうてい言いうる状況になかった。ロシアの報復戦の恐れは、帝政ロシアが崩壊するまで、あるいはずっと後でスターリンが揚言したように、日露戦争の復讐が完了する第二次世界大戦の敗戦までつねに日本の頭の上に重く蔽い被さっていた。」

 第二に、韓国は、日本との過去の歴史的・文化的関係からして「日本とどんな特殊関係―それが友好関係の名の下でも―を持つことも嫌がり、日本が特殊な地位を主張すればするほど、ロシアかシナに頼ってバランスをとろうとしたであろう。それはまた自主の国の外交として当然である。そうなると、いつまたロシアが甘言と脅迫を持って復帰してくるか分からない。・・・そこまで読み切っていた日本が、日露戦争の戦果をむざむざ捨てることは考えられないことであった。」

 「つまり、(秀吉による文禄・慶長の役で植え付けられた恐怖心や、日清戦争後に起きた日本公使三浦梧楼等による「閔妃殺害事件」などの)過去の歴史のために、韓国側は猜疑心の下に隠微な抵抗を続け、日本はこれを押さえつけるためにますます脅迫と強引な行動に訴えてさらに韓国人の信頼を失うという悪循環が、そのまままっしぐらに併合の悲劇へと進む勢いとなっていたとしか言いようがない。」というのです。

 しかし、そうした状況下にあっても「日本にとって取りえたせめてもの最善の措置は、同化政策などは厳しく自制して、・・・不良日本人の流入を禁止し、韓国内における韓国人の土地や権利を尊重することだった。それでも怨恨と抑圧の悪循環を完全に中断し得たかどうかは分からないが、・・・一般国民や知識層の一部から真の支持が得られる可能性は十分あった。もしそうなっていれば、伊藤(博文)が当初意図していたような保護国統治にとどまり、韓国はエジプトやモロッコなどのように、民族の自治を守りつつ、植民地解放の時代を待つことができたであろう。」といっています。

 実際、伊藤博文は、1906年1月初代統監として赴任する前に新聞記者に対して、次のような抱負を語っています。

 「従来、韓国におけるわが国民の挙動は大いに非難すべきものがあった。韓国人民に対するや実に陵辱を極め、韓国人民をして、ついに涙を呑んでこれに屈服するのやむなきに至らしめた。・・・かくのごとき非道の挙動はわが国民の態度としてもっとも慎まなければならないところである。・・・韓国人民をして外は屈従を粧い、内に我を怨恨する情に堪えざらしめ、その結果ついに日韓今日の関係に累を及ぼすがごときがあったならば誠に遺憾とするところである。・・・かくのごとき不良の輩は十分に取り締まる所存である。」
(伊藤は統監という危険な職を引き受けるとき、韓国駐屯の日本軍の指揮権を統監に与えることを条件とした。軍の統帥権を盾にとった横暴を押さえようとしたのである。)

 「しかし、(その)伊藤の権威を持ってしても、下が小村(寿太郎)のような考え(なるべく多くの本邦人を韓国内に移植し、我が実力の根底を深くするというような考え方)ではこの大勢は止めようがなかった。」

 また、伊藤は、併合に反対し、何とか保護国統治に留めようと努力しています。「併合ははなはだ厄介である。韓国は自治せねばならない。しかし日本の指導監督がなければ健全な自治を遂げることはできぬ」(1907年7月ソウルでの公演)「古は人の国を滅ぼしてその国土を奪うことをもって英雄豪傑の目的のごとく考えたものであるが、いまはそうではない。・・・弱国は強国の妨害物である。従って今の強国は弱国を富強に赴かしめ、ともに力を合わして、各々その方面を守らんと努めるのである」(以上引用は『小村寿太郎とその時代』より)

 しかし、その伊藤博文も、韓国民の保護国化そのものに対する抵抗運動を抑えることができず(明治40年は323件、翌年には1451件と反乱討伐が5倍に増え)、ついに韓国併合のやむなきことを認めるに至ります。そして、1909年10月、統監の職を降りた後、満州問題についてロシア蔵相ココフツォーフと話し合うためハルピンに立ち寄った時、安重根の凶弾に倒れるのです。

 その安重根は、公判の席で次のように、伊藤公暗殺の動機を語っています。
「日露戦争の時(日清戦争の時の誤り=筆者)日本天皇陛下の宣戦詔勅には東洋の平和を維持し、韓国の独立を鞏固にならしむるということから、韓国人は大いに信頼して日本と共に東洋に立たんことを希望して居った。しかるに伊藤公の政策が当を得なかったために、(義兵が大いに起こり)・・・今日迄の間に虐殺された韓国民は十万以上(*)と思います。・・・伊藤は奸雄であります。天皇陛下に対して、韓国の保護は日に月に進みつつあるというように欺いているその罪悪に対して、韓国人民は尠なからず伊藤を憎んでこれを亡きものにしようという敵愾心を起こしたのであります。」
*1907年8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降1910年末までの反日義兵運動による義兵側の死者は17,688名、負傷者3,800名に上る。(『朝鮮暴徒討伐誌』朝鮮駐箚軍司令部編)

 伊藤は凶弾を受けたとき「やられた」と一言を発し、「相手は誰だ」と問い、犯人は韓国人であってすでに逮捕せられたことを知らされるや「馬鹿な奴だ」といってしばらく呻吟したのち、目を閉じたといいます。(『伊藤博文』中村菊男p199)そもそも、伊藤は、維新以来4度も総理を勤めた元勲であり、統監という困難な職を引き受けることはなかったのですが、自らは、先に紹介したように、韓国の自治と近代化を推し進め得るのは自分しかいないとの自負も持っていたのではないでしょうか。(なお、伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、1.伊藤博文に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が持っていたのは拳銃である。2.弾丸は伊藤博文の右上方から左下方へ向けて当たったと証言している。ことなどから、伊藤博文に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説が根強くあります。)

 ともあれ、安重根公判におけるこの言葉を聞くと、意外にも彼は、日本の力を借りて独立を達成しようとした金玉均や朴泳孝と同様の考え方を持っていたのではないかということが推測されます。彼らはその後、日本の政策によって裏切られることになるわけですが、「その挙措進退は、ある場合には血気にはやって暴走したことがあっても、その動機においては、一つ一つ全く非難する余地のない愛国者で、日本でいえば明治維新の一流の志士達と肩を並べられる立派な人たちなのですということもできます。。」(『なぜ日本人は韓国人が嫌いか』岡崎久彦p54)

 従って、「もし日本が、韓国の独立と近代化を一貫して支持し、その政策の枠の中で金玉均や朴泳孝(あるいは金玉均)などという立派な人々をもりたてていっていれば、元々近代化の大きな流れが韓国の政治の基調になる条件は十分にあったことですから、韓国の民心が一変して、従来の清国に対する事大思想から、日本と協力しての近代化する方向に流れた可能性は十分あったと思う」と岡崎久彦氏はいっています。(前掲書p54)

 一方、この問題に対して、韓国人である呉善花氏は「李朝―韓国の積極的な改革を推進しなかった政治指導者たちは、一貫して日本の統治下に入らざるを得ない道を自ら大きく開いていったのである。彼らは国内の自主独立への動きを自ら摘み取り、独自の独立国家への道を切り開こうとする理念もなければ指導力もなかった」といい、「韓国独立への道が開かれる可能性は、金玉均らによる甲申政変の時点と、彼らを引き継いだ開化派の残党が甲午改革を自主的・積極的に推進していこうとした時点にあった」と指摘しています。(『韓国併合への道』p215)

 また、朝鮮と同じように日本による総督府統治を受けた台湾の金美齢氏は「台湾人と朝鮮人が親日と反日に別れたのは、日本の統治政策の差というよりも、それぞれの民族がたどった歴史の違いや、民族固有のメンタリティの違いに原因があるようだ。もし統治政策の差を云々するのであれば、客観的に見て、植民地としては朝鮮の方が台湾よりも一段と格の高い処遇を受けていた(例えば京城大学は併合後14年で創立、台北大学は領有後33年。台湾統治の方が15年も先だったのに、徴兵施行は後まわし、朝鮮人は陸士入学を認められていたが、台湾人はダメ、などなど)」と述べています。(『諸君』2003.7)

 おそらく、台湾と同様、韓国における総督府統治においても、近代化のための経済的・社会的インフラの整備という面では、相当の成果があったことは間違いありません。(黄文雄氏の著作参照)しかし、帝国主義の時代、日本の安全と独立を守るためには、韓国をその勢力下に置くことが韓国の実情からして避けられなかったとしても、この時代のアジアの植民地主義からの解放・独立、そのための近代化という旗印を、当時、日本は世界に先駆けて持っていたのですから、それを見失わない限り、帝国主義的領土拡張の落とし穴に陥らずに済んだのではないかと思います。

 だが、残念ながら日本人は、日清、日露の戦勝に奢って、この旗印を見失ってしましました。韓国の場合はその厄災を韓国人が堪え忍びました。しかし、中国人はついに反抗に立ち上がりました。日中戦争は昭和12年7月7日の廬溝橋事件を発火点としますが、8月13日の上海事変も含めて、それは中国の抗日戦の決意によって進められ、泥沼の持久戦へと発展していくのです。そして、遂に日本は、ファシズム国家と同盟を結ぶことによって、自由と民主主義の敵という烙印を押されることになります。

 この間の歴史的経緯を詳しく点検して行くと、確かに、日中戦争も太平洋戦争も中国やアメリカの挑発を受け引きずり込まれた、と言はざるを得ないような局面がしばしばでてきます。しかし、そのもともとの原因をただせば、こんな訳の分からない、勝つ見込みの全くない戦争に引き込まれたのも、日清、日露の奇跡的(あるいは幸運)な勝利に奢り、欲に目がくらみ、そのために、先ほどの旗印を見失い、さらに自分自身をも見失った結果であり、その責任を他に転嫁することは決してできないということが判ってきます。