日本近現代史における躓き1

2008年6月9日

 日本の近現代史、特に明治以降の歴史を一通り勉強していくと、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思わせるいくつかのポイントがあります。前回記したように、明治時代までは、西洋の近代化された科学技術だけでなく、政治制度やその他の法制度にも謙虚に学び、それを日本に取り入れ、かつ模範的に行動しようとする姿勢が濃厚でした。

 日本軍についても、「北清事変」におけるその勇敢で規律正しい行動が、西欧諸国の賞賛の的になっています。また、日露戦争では、日本軍の陸戦(遼陽、旅順、奉天)における死闘を経ての勝利、日本海海戦における「信じられないほど」の大勝利が、同盟の相手国であるイギリスだけでなく、アメリカのマスコミにも熱狂的な賞賛の渦を巻き起こしています。

 当時の『ワシントンタイムス』は、「日本の勝利は文明・自由・進歩の勝利であるとして、『スラブ人種とアングロサクソン人種は20世紀中に決死の死闘をする、との予言があるが、はたしていまやその一部が実現したと云える。なぜならば日本はアングロ・サクソンの正当な後継者だからである』と評したそうです。

 それよりももっとすごいのが、その世界の非白人全体に及ぼした影響です。ネールは『父と子に語る世界歴史』のなかでその感激を次のように語っています。
「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に大きな影響を与えた。わたしが少年時代、いかに感激したかを、おまえに何度も話したとおりだ。たくさんのアジアの少年、少女、そして大人が、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国が敗れた。だとすればアジアは、昔しばしばそうしたように、いまでもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムはますますアジアに広がり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった。」

 さらに、日清戦争で日本に敗れた中国の孫文も「日本の勃興以降、白人はアジア人を見下さなくなった。日本の力は日本人自身に一等国の特権を享受させただけでなく、他のアジア人達の国際的地位も向上させた」と述べています。(以上の引用は『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦p259~p262)

 そして、この日露戦争の結果、清国留学生が日本に殺到するようになり、1905年には、興中会、華興会、光復会の革命三派による中国革命同盟会が東京においてを結成され、その後の中国の反清・反帝国主義、民族主義を掲げる革命的民衆運動をリードしていくことになるのです。

 このあたりまでの日本の歴史、またこの間の戦争における日本軍兵士の純粋かつ勇猛果敢な戦いぶりについては、司馬遼太郎や児島襄などの時代小説を読んで感激された方も多いと思います。とはいえ、こうした見方が一般的になったのは、司馬遼太郎の時代小説が書かれて以降のことで、それまでは、第二次世界大戦の反動から、日本の近代史全体を否定的に見る見解が主流をなしていました。

 その意味で、司馬遼太郎は、戦後のアメリカ軍による占領政策としての思想言論統制の結果できあがった日本の戦後社会の自閉的言論空間の壁の一角を打ち破り、日本近現代史における明治期までの歴史に、光をあてることにはじめて成功したといえます。

 だが、問題はその後です。この日露戦争の勝利は、同時に、白人世界の日本に対する警戒心を呼び起こすことになりますが、それよりなにより、日本がこのように近代化に成功し西欧諸国に肩を並べられるようになったと自負して以降、いわゆる自前の思想で国を動かすことを余儀なくされて以降の日本国の舵取りが、次第に変調を来してくるのです。

 その最初の変調、冒頭に述べた”もう少し何とかならなかったのだろうか”と呻かざるを得ない最初のポイントが、1910年の「日韓併合」です。その次が1915年の中国に対する「21箇条要求」、そして最後が、アメリカとの戦争を必然ならしめた日本の「満州支配」です。

 最初の「日韓併合」は、戦後60年を経ても今なお消えない朝鮮民族の日本人に対する恨みを背負い込むことになりました。また、「21箇条要求」は、中国にその条約締結日(最終的には13条となり5月9日妥結)を「国恥記念日」とさせただけでなく、ついには泥沼の日中戦争へと発展しました。そして、最後の「満州支配」は、一方で中国との持久戦争を戦いつつ、さらに米英を中心とする連合国との絶望的な戦争に突入することになりました。

 こうした結果を見れば、司馬遼太郎ならずとも、この日露戦争以降の日本の歴史に、呪詛の一つも投げつけたくなるのは当然です。

 しかし、この間の歴史的経緯を注意深く検討してみると、実は「日韓併合」も「21箇条要求」も日本軍の「満州支配」も、日清・日露戦争における奇跡的勝利がもたらしたものであり、ここで生じた問題を、その後の国際関係の中で適切に処理できなかったことが、その後の日本を泥沼の日中戦争、ひいては地獄の太平洋戦争へと引きずり込む、その基因となっていることに気づくのです。

 また、この間の歴史的経緯をさらに詳しく見て行くと、そこには、「東京裁判」が想定したような、満州事変以降の侵略戦争を一貫して計画・開始・遂行した首謀者がいたわけではなく、また、政治家を含む文民と軍部との関係も、必ずしも前者の責任が免除されるものでもなく、また、巷間言われる陸軍悪玉・海軍善玉論もかなりあやしく、さらに、当時のマスコミには、「一部の軍国主義者」よりも遙かに過激な侵略的論調が風靡していました。

 これらのことを総合的に考え合わせてみると、むしろ、韓国や中国を同文同種であり価値規範を共有するものと見て一体的に行動すべきことを主張した、いわゆる「アジア主義」思想が、かえって中国や韓国の反発を招いたことや、既成事実の積み重ねで物事を処理しようとする態度が、法規範を重視する国際社会の信用を損なわせたこと、あるいは日本人独自の死生観が、苦闘する戦況の中で甚だしい人命軽視へとつながったことなど、要するに日本人の思想的弱点が、負け戦の中でもろくも露呈したと見た方がいいように思われるのです。

 今後、他のテーマと飛び飛びになることもあるかと思いますが、この間の事情をより詳しく見ていきたいと思います