トラウトマン和平工作失敗は、和平交渉打ち切りより傀儡政権の樹立が問題

2014年7月13日 (日)

*表題を一部書き換えました(7/17)
一般的に、トラウトマン和平工作失敗の原因は、統帥部の交渉継続の主張に対して、時の政府が交渉中断を主張し、近衛首相が”蒋介石を対手とせず”声明を出して、蒋介石との和平交渉の窓口を閉ざしたためであるとされます。

私自身は、こうした解釈には疑問を持っていて、たとへ、この時統帥部のいう通り交渉が継続されたとしても、南京城陥落後加重された和平条件の下では、蒋介石が和平交渉に応ずるはずがなく、結局、同じような結末になったのではないかと思っています。

にもかかわらず、この時交渉が継続されていれば、その後の中国との持久戦争は避けられたと考えるのは、私は、この戦争が中国側のイニシアティブで始められたという事実。蒋介石が、11月初旬に日本よりトラウトマン駐華大使を通じて示された和平条件を、南京陥落が必至となる12月になるまで放置した事実を無視するものだと思います。

日本は、盧溝橋事件に始まる日中紛争を、なんとか局地紛争に止めようとしました。確かに日本軍の中には「一撃派」と呼ばれる人たちがいて、これを懸案となっていた問題解決の動機にしようとしていました。しかし、最終的には、いわゆる船津工作によって、日本政府は、華北分離工作以降積み上げられてきた華北権益を放棄することで、和平を実現しようとしたのです。

この時の船津工作の和平条件が、先に言及したトラウトマン和平工作の講和条件とほぼ同じで、中国軍参謀長の伯崇禧にいわせれば、”もし、ただこれだけの条件であれば、一体何のために戦争しているのかわからない”という程「寛大な」な条件でした。

しかし、これを蒋介石は無視しました。その間、杭州湾に上陸した日本の第十軍が、総崩れとなった中国軍を追って、あらかじめ日本政府が設定した制令戦を突破し、南京城を包囲殲滅する勢いを示すようになりました。この段階になって蒋介石はようやく、先に提示された講和条件による和平交渉に応じる姿勢を示したのです。

しかし、その頃には、日本軍による南京城包囲が完成し、中国軍に対する投降勧告がな、される段階になっていました。しかし、中国軍はこの日本軍による投降勧告を無視したため、12月10日、日本軍による南京城総攻撃が開始されました。

しかし、その陥落直前の12月12日夜8時、南京城防衛司令官であった唐生智が、部下将兵に敵中突破を命じたまま南京城を脱出したため、残された約5万の中国兵はパニック状態に陥り、その混乱の中で、多くの中国軍兵士が命を落とすことになりました。

これが世に言う「南京大虐殺」ですが、その犠牲者の内、日本軍に拘束された後殺害された兵士の数は、『南京戦史』によると約1万6千人です。その国際法上の当不当の判断については、『南京戦史』は、その具体的な状況が分からないとして留保しています。

なお、先に蒋介石が応ずる姿勢を示した講和条件については、広田弘毅が前もって念を押した通り、戦況の変化を理由に加重されることになりました。問題はこの条件加重がどのようなものであったかということです。

というのは、日本がトラウトマン和平工作において最初に示した和平条件は、先に述べたように、日本が盧溝橋事件勃発後なんとかして戦争を回避しようとして中国に示した船津工作の和平条件とほぼ同じものでした。では、なぜ戦争が始まる前の和平条件が、トラウトマン和平工作の講和条件になったかというと、この段階における戦況が膠着状態にあったからです。

その後、戦況は急速に日本に有利に展開しました。しかし、もともと日本軍には南京城攻撃の計画があったわけではなく、上海事変への日本軍の出兵は、あくまで現地居留民の保護がその目的でした。従って、この段階で蒋介石が日本の和平提案に応じていれば、日本軍による南京城攻撃もなく、講和は成立していたはずです。

もちろん、日本軍が、こうした当初の出兵目的を守り、現地軍も参謀本部が示した制令線を守っていれば、泥沼の持久戦争に発展することもなかったわけですが、上海戦における日本側の犠牲があまりに膨大であったために、いきおい、中国軍を降伏させるための、南京城総攻撃へと向かうことになったのです。

こう考えると、先の和平条件の加重は、蒋介石の責任に帰する部分が少なくないということになります。そもそも、この戦争を始めたのも蒋介石の責任が大きいわけですから、この段階で、日本が蒋介石の責任を重く見たのも当然だと思います。

ただ、問題は、どのように条件加重をするかということで、最初に示した条件のうちその第2項の扱いが最も重要でした。それは、日本が華北分離工作以降積み上げた既得権の放棄を約束するもので、華北に新政権を樹立することはしないというものでした。満州国承認については、中国側の「今後問題とせず」との意向を踏まえ、あえて触れませんでした。

そもそも、塘沽停戦協定以降の日中関係がこじれたのは、関東軍による華北分離工作がその主たる原因だったのですから、日本がこの間違いを認め、同じ間違いを繰り返さないことを約束することで、日本は、盧溝橋事件に始まる日中戦争の拡大を防ごうとしたのです。

しかし、蒋介石の日本軍不信から、11月初旬に示された和平条件による講和はできませんでした。この点蒋介石の責任は免れません。しかし、日本が加重した条件が、華北分離工作を復活するようなものであっては、それは日本の侵略意思を示すものとなり、元の木阿弥です。

つまり、トラウトマン和平工作における和平条件の加重を巡る問題点はここにあります。(統帥部と政府との意見対立のポイントはここにあるのです。)では、どんな条件加重がなされたかというと、北支に「日満支三国の共存共栄を実現するに適当な機構」を設定する他、中支に特殊機構、上海市には租界外に特殊政権を設けることが、(最終的に)「保障条項」として加えられた。

この「保障条項」とは、まず中国が、日本提示した9項目の和平条件を完全実施すること。その上で、日本が、中国が「日支提携共助に向けた(日本の)理想」に真に協力するようになったと認めた暁において、この「保障条項」を解除するというものです。

この「保障条項」は、参謀本部戦争指導係の堀場参謀が、加重された和平条件から、なんとか侵略的要素を取り除こうとして仕組んだ付帯条件でした。しかし、こうした措置で、はたして、日本軍に対する不信に燃える蒋介石を納得させることができたでしょうか。

さらに問題は、この一方で、南京城陥落の翌日の12月14日、華北に王克敏を行政委員長とする中華民国臨時政府が成立したことです。これは現地軍のやったこととされますが、軍中央もこれに呼応していたらしく、つまり、軍中央においては、中堅少壮軍人による蒋介石政権否認、傀儡政権樹立の動きが活発化し、これが世論にも影響を与えていたのです。

つまり、近衛首相や広田外相など世論の影響を受けやすい政治家は、こうした流れに乗らざるをえなかったということです。ただ、ここで近衛首相や広田外相など文民政治家が注意すべきことは、仮にこの段階で蒋介石との和平交渉継続を断念するとしても、それに代えて傀儡政権を樹立するようなことは絶対にすべきでないということでした。

なぜなら、そんなことをすれば、日本が船津工作や、その和平条件を引き継いだトラウトマン和平工作で示した基本的認識、つまり、日本軍が、かっての華北分離工作の誤りを認め、その既得権を放棄することで中国との和平を回復しようとした、そうした日本の和平への意志が、偽りであったことになるからです。

近衛や広田がこのことに自覚的であれば、堀場参謀等が、蒋介石との和平交渉継続ができなかった責任を近衛や広田等文民政治家に負わせることはできなかった。なにより、軍の方針を一本化できなかった統帥部の責任が大きいわけで、そもそも、華北分離工作は、石原イズム(東洋文明VS西洋文明)の影響を受けた者たち(多田や堀場はその中心人物)の仕業だっただからです。

そうした彼らの独りよがりの行動が、結果的に、中国国民に広範な反日・抗日意識を呼び起こし、それに引きずれる形で蒋介石が日中全面戦争を決意したわけで、トラウトマン和平工作を巡るごたごたは、つまるところ、こうした者たちによる「マッチポンプ」に過ぎなかったのです。

とはいえ、近衛や広田が、せっかく日本が、トラウトマン和平工作でその和平意思を示したのに、先に指摘したような基本認識を忘れて、「中華民国臨時政府」の王克敏の要請を受ける形で、”国民政府を対手とせず”という声明を出すとは、一体どういうことなのでしょうか。

占領下にある華北の民生安定のため、何らかの自治的政府が必要になることは当然だと思いますが、これはあくまで暫定的なものであって、それをもって日本の傀儡政権とすることは絶対に避けるべきでした。(アメリカの「中立法」の適用による貿易制限を避けるために宣戦布告できなかったため、占領地に軍政を敷くことができなかったためとされるが・・・)

当時の日本が望んだことは、中国が満州国を承認すること(「満州経営に専念すること」を訂正)。それによって日中相互の経済協力関係を実現することであって、中国と戦争をすることではなかったはずです。場合によっては、軍事同盟とまでは行かなくても、防共不可侵条約を結ぶことも可能でした。

つまり、上述したような和平交渉における基本認識を堅持していさえれば、たとえトラウトマン和平工作がこの時失敗したとしても、その内、蒋介石の対日不信も徐々に解消したでしょうし、次の和平交渉の糸口を見つけ、それを成功に導くこともできたはずです。

では、なぜそれが出来ず、間を置かず蒋介石政権打倒の軍事行動を繰り返し、結果的に中国の主要都市の大半を占領する侵略戦争を重ねることになったか。さらに、占領地に幾多の傀儡政権を樹立し、そのため、どれだけの中国人を、日本軍に協力した廉で「漢奸」の罪にさらすことになったのか。

一体、この両策の違いは一体どこにあったのでしょうか。一体、なぜ日本は、前者の道を選ばず後者の蒋介石否認、傀儡政権樹立という邪道を選んだのでしょうか。実は、この疑問を解くことが、日中戦争の不思議を解明する第一の関門なのです。

結論を言えば、要するに、日本が日中戦争勃発の危機に際して気づいた中国に対する主権侵害の誤りを、戦勝によって見失ったということ。そのため、華北における傀儡政権樹立を防止できないどころか、それに引きずられる形で、蒋介石政権否認の声明を出したということです。(統帥部がこの傀儡政権樹立を阻止しようとした形跡は見られない!)

つまり、日本は、華北分離工作の誤りを再び繰り返すことになったのです。このため、日中戦争は中国のイニシアティブによって開始されたものであって、当然、中国が責任を負うべき戦争であったにもかかわらず、日本が傀儡政権樹立による問題解決を図ったために、侵略戦争の汚名を自ら着ることになったのです。

汪兆銘政権樹立然り。傀儡政権はどこまでも傀儡政権です。中国国民の支持は集まらない。結局、蒋介石と和平交渉をせざるを得なくなる。その結果、両者の不信を買う。まとまるものもまとまらなくなる。そのフラストレーションを解消するため、日本はその原因を他に求めた。これが日本を日米戦争へと導くことになったのです。