トラウトマン工作で、参謀本部の多田次長と堀場参謀は、ほんとに蒋介石との和平を実現できたか?2

2010年12月13日 (月)

健介さんへ
> 多田参謀次長は、このままでは日本は破滅すると自覚をして、ことに望んだが、それに対して近衛と広田と米内はなぜそれを取り入れなかったのか。つまりここで収めないとわが国が破滅するという共通の認識を持たなかったのか?

tiku 今回のエントリーでの私の結論は、「この時点で戦争をやめることは誰にもできなかった」です。そのことについての論証は、私なりに尽くしたつもりですが、十分ではないようですので、関連資料を紹介しておきます。

 この間の経緯を最も正確に記録していたのが、当時内閣書記官長だった風見章です。以下、その説明を箇条書きにしてみます。(『近衛内閣』風見章参照)

・昭和7年中日中華民国大使蔣作賓が近衛を訪れ次のように語った。「日本軍部は支那の各小軍閥をたたき合わせ支那の統一を妨害しようとしている。しかし、支那の統一機運は蒋介石を中心に強固に成長している。従って、目下軍部が行いつつある蒋介石打倒をやり続けると、支那は捨てばちになって反抗するに至る、と真剣に説いた。」近衛はこれに共鳴した。

・しかし、日本の軍部は、中国が強固なる統一政権下に措かれるのを嫌い、蒋介石が統一政権として実力を拡充しつつあるのを見て喜ばず、反蒋地方政権の援助にすこぶる熱心だった。

・しかし、昭和11年後ごろになると、日本軍部が反蒋政権として育て上げようとしてきた西南地方政権のごときも、それまでの親日的態度をなげうち、逆に反日的存在に寝返るようになった。

・こうして国民政府のと中国統一機運が勢いを示し出すと、日本の軍部は、せめて華北地方だけでも日本の勢力圏として保存しようと頻りに画策した。1935年の冀東自治政府という傀儡政権をつくったのもその一環であった。華北における国民政府的勢力と、それをはねかえさんとする日本の勢力が激しくきしりあい、どうにもならなくなったところに廬溝橋事件が起きた。

・この間、中央における主流は、国民政府を相手にする方針であった。しかし、現地軍は新政権の成立に期待をかけようとしていた。この相容れざる二つの潮流が対立したまま日中全面戦争に突入することになってしまった。第一次近衛内閣は、この二つの対立する潮流がきしり合って巻き起こす波の上を、あたかも、舵なき船の如くただよわされるごとくであった。

・日中戦争が起こって後、最初の和平交渉であるトラウトマン和平交渉が本格化したのは南京陥落後の12月13日で、この日、大本営・政府連絡会議が開かれた。しかし、早くも蒋介石の国民政府ではなく、日本が樹立する新政権を相手にすべきで、蒋介石との交渉は無用とする意見が生まれていた。

・しかし、近衛は熱心に、この和平交渉に時局収拾の機会を得ようとしていたので、この交渉無用論には耳を傾けなかった。ところが、12月14日には王克敏の「中華民国臨時政府」が成立した。近衛はこのことを新聞で初めて知って憤り、これが和平交渉の邪魔になることを恐れた。

・近衛としては、陸相も華北を第二の満洲にしないと固く約束してくれていたので、まさか、和平交渉の片が付くまで、そんな事がなされるはずがないと思ってもいたが、実は、陸相も知らされていなかいようだった。それほど、当時の陸軍の統制は失われていたのである。

・12月14日には第二回大本営政府連絡会議が開かれ和平条件の審議に入った。この時の審議の様子は、外務省の石射猪太郎の記すところでは「参謀本部の多田次長外、末次内相、賀屋蔵相、杉山陸相の意見によって次々に条件加重されることになった」。多田が条件加重派に回ったことに石射は驚いている。

・これに対して、末次内相が「かかる条件で、国民が納得するかネ」と発言。これに対して、近衛が、末次氏の方に向き直りすこぶるあらたまった口調で「どんな条件にせよ、国民のため、これが最善のものだとあれば、政府としては、国民の間にどんな不平不満があろうとも、あくまでこれを断行しなければならぬ」といいきった。

・次いで風見が発言し「こういう条件では、和平は到底成り立つまいと思うが閣僚諸君はどう思うか」とたずねた。問題は華北における特殊権益確保の件で、風見はこのことを問題にした。彼は、当時の情勢から判断して、和平を成り立たすためには、満州国の承認と、抗日政策の抛棄ぐらいの大まかな条件で片付けておくべきで、華北の権益問題にふれたのでは交渉は駄目になると考えていて、まして、華北新政権が生まれるような状況では話にならないと考えていた。

・この問いに、広田はちらと風見の顔を見ただけですぐには口を開かない。するとやにわに米内海相が「ぼくは、和平成立の公算はゼロだと思う」といった。これを引き取る形で広田は「まあ、三、四割は見込みがありはせぬか」といった。陸相は「四、五割は大丈夫だろう、いや五、六割は見込みがあろう」といった。

・広田としては、前内閣である広田内閣当時の対中国政策要領で「華北の特殊権益はあくまでこれを確保する」としていたので、和平条件の決定に当たっては、これを取りのけるわけにはいかなかったのではないか。また、首相も、この決定に納得しないわけにはいかなかった。こうして和平条件は12月18日の臨時閣議で決定された。

・この和平提案は12月22日に広田からディルクセンに伝えられた。しかし、年内には回答はなく、翌年になっても回答は届かなかった。その一方で、和平交渉無用論がものすごい勢いで頭をもたげてきた。このころ、すでに華中においても華北にならって新政権を樹立しようとする工作が進められていて、外務、海軍もこれに賛同し、1月7日には川越駐華大使が「国民政府を相手にしない方がいい」という意味の意見を発表した。

・もっとも、中国通といわれた民間人たちの多くは悲観論で、国民政府との講和促進論が定論だった。しかし、後のたたりが恐ろしいという時勢であり、弾圧もひどくなっていたので、戦争反対の声はおおっぴらにはあがらなかった。

・こんな雰囲気の中で和平交渉無用論が圧倒的になり、近衛も陸海外三省がそれを妥当とするに至ったので、それに従うことになった。1月9日に政府大本営連絡会議が開かれ、政府統帥部共に「和平交渉打ち切り」に賛成し、こうして方針の切り替えがなされるに至った。

・そうした方針の切り替えがなされたのは、
(1)国民政府は重慶に移っており、やがて国民の信頼を失い地方政権に転落するに違いない。
(2)長期抗戦を叫んでいるが、それは滅び行くものの悲鳴で、日本が長期戦に引きずり込まれる心配はなくなった。
(3)新政権をもりたてることで、日本の要求を貫徹するという時局収拾の道が自ずから開かれる。
という認識があったからです。

 言うまでもなく、こうした政府の認識は完全に間違っていました。というのは、蒋介石は(1)のような状態に陥っても、中国国民の支持を失うことはなく、さらに日本が取った(3)の方針は、中国の主権を破壊する行為として、中国に対する国際社会の同情と支持を集めることとなり、その結果、中国は(2)とは逆に、日本軍を長期戦に引きずり込むことが出来たのです。

 では、参謀本部の多田や堀場は、こうした認識の誤りから免れていたか。この件については、高田万亀子氏は次のような見解を提示しています。

(堀場について)
「和平派として、もっともはっきり奮闘したのは戦争指導班の堀場少佐だが、その彼も自身の主観とは裏腹に、和平促進にはむしろマイナス効果さえ演じたようである。

 彼は石原イズムの観念論で、道義戦争を確信しながら、人の心理の洞察に欠け、客観的には現実味のない独善が過ぎたと思う。石射は「陸軍でともに語るに足る唯一の人」としで柴山軍務課長を挙げ、堀場を全く顧みていないが、それは理解できる。例えば堀場の和平のための「按兵不動策」――「南京攻略戦を行い、しかも攻略はせずに兵を城下に止め、戦争指導当局が勅使を奉じて城内に乗り込み、直接蒋介石と会談して双方の真意を交換し、蒋を和戦究極の決定に導く」

 「奔馬の勢」で敵首都に殺到した軍隊を城下で抑え、不動の包囲をしくことなど容易なことではない。まして中央命令違反が常習の現地軍に期待できることなのだろうか。彼らは功名にはやり、しかも現地補給で進撃しているのである。・・・

 按兵不動策は実際には部内の強い反対で潰れたが、堀場も熱心に提唱した南京攻略戦の方は、多田次長の反対も及ばず発令され、果たして提唱した堀場の意に反する実際の攻略をもたらしてしまった。これか強硬派をさらに勢いづけたのはいうまでもなく、堀場は自分で自分の足を引っ張ったことになる。

 また堀場は、蒋介石に日本の真意を通達し、肝胆相照らせば必ず大乗的解決はできると判断したというのだが、大軍で城下を囲み、武力威圧しながら和戦の応否を聞くという態度に、敗者か肝胆相照らせるものであろうか。

 しかも日本の真意とは、「過去の一切を清算して日支両国が互いに主権領土を尊重し、混然融和して、日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に、相提携していこう」というものである。

 堀場は本気だったろうし、日本はそれでいいだろう。だか蒋介石側はその最も嫌う満州国との友誼を強制される。散々ぶん殴り、ひったくって(満州国)、それを取り上げたまま、「さあもうおしまい。みんなで仲良くやりましょう。しかしいやだというならば」と大きな拳を振り上げているのである。だが堀場はそれに気が付かない。武力威圧されては国民の手前もあり、蒋介石はますます強くならなければならない側面もあったのにその考慮もない。

 蒋介石が差し当たって最も望んだのは、常に「まず停戦」なのである。米内が事が起こった時常に提唱するのも、両軍まず兵を引いて交渉に当たれということだった。だが「和平折衝中軍事行動を続ける」ことは、事変勃発当初から戦争指導班の一貫した方針である。

 南京攻略を唱導した堀場は、和平を的確にするためこれと並行する広東作戦さえ提唱した。蒋側から仲介受諾の回答を受けた後も、広東作戦・山東作戦を進めようとした参謀本部である。・・・広田も「和議を申し込むと同時に山東を撃つとどういう結果になるか、問題になる」と言ったが、戦争指導班といえどそうしたことは考えないようだった。」(『静かなる楯 米内光政(上)』p202~204)

(多田について)
「統帥部・近衛・米内折角の和平交渉を挫折させた責任は、単に打ち切りの罪を論じて済むものではなく、その前、部内を統制できず、見込み不能の苛酷案を主張した多田の参謀本部と、これになす術がなかった政府がともに負うべきものではないだろうか。

 多田は、華北の中央化を否定し、次々に条件を強化していく部内強硬派を全く抑えることができなかった。「打ち切った場合の蒋否認」も承認し、自分でも見込みの少ないと思う陸軍案を主張しつつ交渉継続を迫った。彼の言動は、強硬派と堀場の双方に突き上げられ、揺れ動いている感が強い。そして最も熱烈な和平推進派の堀場もまた、その主観とは裏腹の、和平に遠いことしかできなかったと私は思う。

 「統帥部謙虚なるに」とはどこをついても言えそうもない統帥部だった。陸軍の政治力の大きさは厳然として他を圧している。新対華策が採用されたのも、船津工作、トラウ
トマン工作が推進されたのも、また対英米親善方針が嵯鉄したのも、折角あったイギリスの仲介を蹴ったのも、すべて陸軍の意向がそうだったのである。つまり陸軍の意向で国の方向は決定するのである。

 他が情けないことはともかくとして、そうした陸軍だっただけに、多田がもう少し強い次長、真に識見ある次長として部内を統御できたら、トラウトマン工作はもう少し違った展開になったろう。残念なことにそうはならなかった。

 しかも彼らは持久戦不利のことはいったが、その理由を説明することには十分でなかったらしい。それを不満がる閣僚等の言葉がもし本当なら、面子がそうさせなかったのであろう。

 そして統帥部の和平熱意は、政府宮廷筋に共感でなく不審を与えた。
「なぜあんなに急ぐのか、危険でたまらない」
それは天皇を含む彼らの一致する見解だった。たとえ説明がなくても察すべきであるし、彼らに認識不足があったことは弁明できないが、しかし参謀本部の方にもそう言わせるだけのものはあった。

 まず見え見えなのか対ソ戦志向である。中国との間に和平をもたらしても、それは決して平和のためではなく、次のソ連戦に備えるための和平である。対ソ戦志向の対華和平では、うかうかと乗っていけないと思うのも無理はない。それに軍人外交だから、今も見てきたようにいかにも強引で拙劣である。

 木戸は、参謀本部か外務省に任せず、自分で交渉の内容のみならず、方法にまで干渉するのを不審がり、「陸軍とドイツとの間に了解があるのではないか。ドイツ自身のために利用されるのではないか。対ソ同盟でも話し合っているのではないか」と疑っている。

 ドイツはついこの間まで親中国で、大幅な軍事援助も与えていた。上海の大苦戦には、ドイツが指導した最新式の防衛陣地を知らずにいて、ひどく面食らった点も大きく原因したという。そのドイツがここへ来て転換したのである。

 参謀本部とドイツの接近に日独同盟の青写真がなかったとは言えない。
「主敵ソ連という利害の共鳴現象がトラウトマン工作をもたらしたのではないか」
「外務省から見ればトラウトマン工作が軍部の謀略として警戒されたであろうことは想像に難くなく、このような外交二元化への広田の反発は、トラウトマン工作に本当に熱心にならない結果を招き、失敗の一因となった。そのこと自体外交を正道へ戻すことになるが、トラウトマン工作ではこの態度が不利に作用した。この点での広田の評価は一方的には論じにくい。」とはトラウトマン工作研究の先達三宅正樹氏の言葉である。その通りであろう。

 だがそれはそれとして、近衛首相や広田外相としては、軍が乗っているこの機に一気に和平に持っていく機略こそあってほしかった。(中略)トラウトマン工作は中国側の態度からみて、最も順調にいっても成功したかどうかは疑問もあるが、多田と近衛の責任は、統帥部と政府のリーダーとして誰よりも大きいであろう。

 その点米内が、連絡会議で石井の説明する「大乗的」な外務案に忠実に支持したのは、和平への大筋を誤っていない。彼も加重条件を全く否定したわけではなかったが、和平交渉のポイントが華北の中央化にあることは認識していたし、和平交渉中の停戦は持論である。ところが陸軍は南京戦を進めてこれを陥れ、華北に傀儡の北京臨時政府を樹立して、まだ交渉も始めないうちに、先の和平条件を裏切ってしまった。」(『静かなる楯 米内光政(上)』p210~214)

 私は、こうした高田氏の指摘は当たっていると思います。つまり、トラウトマン工作が、参謀本部の多田や堀場の主張が受け入れられて継続していたとしても、停戦も行われず、華北新政権が樹立されるような状況では、蒋介石がこれに応ずることはなかった。 

 つまり、中国との和平交渉が成功するための条件は、まず、和平交渉に入る前提として停戦すること。その上で、満洲及び内蒙の処理は後日の協議に譲り、長城以南の中国の領土主権の確立と行政権の完整を期す中国の原則的立場を認めること、だったのです。そのことは、その後数多く試みられた和平工作の失敗を見れば明らかです。

 日本軍は、ついに、この誤りに気づかなかったのですね。ちなみに、昭和天皇は、トラウトマン和平工作の交渉打ち切りに反対し交渉継続を主張する参謀本部の意見具申に対し、「それなら、まず最初に支那なんかと事を構えることをしなければなほよかったじゃないか」と言っています。日支間の戦争がなぜ起こったか、昭和天皇はその原因をしっかり見ていたのです。