トラウトマン和平工作はなぜ失敗したか――日中戦争のなぞを解く――はるさんの疑問に答えて

2010年8月25日 (水)

はるさんから、エントリー「トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問」についてのコメントをいただきました(参照)。この和平工作の失敗の原因については、一般的に、参謀本部の和平交渉継続、日中提携、持久戦争の回避の主張が正しく、それを拒否した政府、特に広田外相や近衛首相の責任を問う意見が大勢を占めています。しかし、私は必ずしもこの意見に賛成ではありません。

 そこで、この問題について、私は、2009年の4月から5月にかけて、「トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問」というエントリーの下に、4回に分けて私見を申し上げました。今回、これについて、はるさんよりコメントをいただきましたので、改めて、この問題についてのより分かりやすい説明を試みて見ました。読者の皆さまには、先のエントリーの記事を参照の上、本論を読んでいただければ幸いです。

 はるさん、コメント有り難うございます。トラウトマン和平工作が失敗に終わった原因について、はるさんは、

> 仲介案が作られた時期と提示された時期のズレが、日支間で、加重される条件の認識の差となると思います。しかも、13日には南京が占領されてしまいます。
日本は、上海戦及び南京戦の結果(8/13~12/13)を加味し、支那は、11/2~12/7の結果と考えてもおかしく有りません。
(この認識のズレがそれまでの対日不信感に加えて、決定的に作用していくと考えます。)

 とおっしゃっておられます。これを見ると、はるさんは、日本側が条件加重したのは、上海戦から南京占領までの戦果を考えれば当然であるが、蒋介石がそれを受け入れなかったのは、広田外相の第一次和平案の提出時期(11月2日)が早すぎたためではないか。また、その案は広田外相と参謀本部等ごく一部だけで作ったものだったから、陸相・海相は条件加重や交渉打ち切りを主張したのではないか、と考えておられるようです。(筆者注:米内海相は条件加重に反対した)

 これについての私見は、「トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問(1~4)」に書いた通りですのでそちらをご覧いただくとして、私が、この問題を考える際の最重要ポイントと考えているのは次の二点です。一つは、この戦争は蒋介石の決然たる抗日戦争意志をもって始められたものだということ(といっても、蒋介石にそれを決断させた最大原因は日本側の「華北分離工作」にありました)。もう一つは、日本側は(軍部も含めて)中国と全面戦争するつもりはなく、ただ、中国が日本の東洋文明のリーダーとしての役割を認めさせるため”こらしめのために頭を殴った”程度の認識だった、ということです。

 ここに、なぜ、日本は上海での戦争継続中であるにもかかわらず、蒋介石に対して開戦前に策定された「船津案」に基づく寛大な和平条件を提示したのか、という疑問や、蒋介石は上海決戦に負けて南京に敗走し、さらに首都南京を日本軍に陥落させられながら、日本側の「寛大な」和平条件を受け入れようとせず、あれほど強気に振る舞ったのか、という疑問を解くカギが隠されているのです。

 しかし、もしそうだとすると、つまり、ほんとに日本に中国と本気で戦争する気がなかったのなら、なぜ日本は、トラウトマン和平工作において自ら提案した第一次和平条件を加重するようなことをしたのか。蒋介石がせっかく”それを基礎とする談判に応じる”と回答してきたのに、あえて条件加重すれば、和平交渉がぶち壊しになることは当然ではないか、という疑問が起こってきます。

 実は、政府は、蒋介石が交渉に応ずると回答してきたときには、この条件加重に慎重でした。しかし、軍はそれでは収まらず、12月20日の第二次和平条件の提示となりました。しかし、これに対する蒋介石の回答が遅延するのを見て、政府は次第に蒋介石の誠意を疑うようになりました。一方、参謀本部は対ソ戦略の観点から「日中提携論」に固執して、蒋介石との交渉継続を主張しましたが、政府を説得するには至りませんでした。

 それというのも、日本側にしてみれば、上海戦で不測の膨大な犠牲は払わされたことに加えて、首都である南京を陥落させたのだから、条件加重はやむを得ない。従って、日本側に寛大な和平条件を提示する用意があるとしても、あえて、中国側の意を迎えるような態度はとる必要はないと考えたのです。にもかかわらず、参謀本部は執拗に日本側の「真意」を中国側に説明し、和平交渉を継続することを主張する。それを見て政府は、その裏に、何かドイツなどとの密約が隠されているのではないかと疑ったのです。

 結果的には、中国側の第二次和平案に対する回答は、1月15日の期限までには届きませんでした。そのため政府は、これでドイツを仲介とした中国との和平交渉は打ち切りました。しかし、このことについて、後世、なぜ当時の政府は、参謀本部の和平交渉継続の主張を受け入れなかったのか、それをしていれば日中戦争の「どろ沼化」は防げたのではないか。日中戦争は、巷間言われるように軍が始めた戦争ではなく、文民が始めた戦争なのではないか、ということがいわれるようになったのです。

 しかし、ほんとにそうか。私見では、もし、第二次和平条件が「保障的条項」(中立地帯設置等)の解除や、梅津何応欽協定等の廃棄を含めて、中国側に正確に伝えられていたとしても、蒋介石が、これれを信用して、日本との和平交渉に応じるようなことにはならなかったと思います。この点では、おそらく、参謀本部より政府の見通しの方が正しかった・・・。

 しかし、問題はその後で、この時蒋介石が出てこなくても、日本側としては和平交渉の窓口は閉ざさないで、相手が出てくるまで辛抱強く待つ(その間は占領地に軍政を敷く=別宮暖朗)必要がありました。しかし、近衛首相は”蒋介石を対手とせず”という声明を発してしまいました。また、その一方では、華北や華中での親日傀儡政権造りが進められましたので、日中戦争は、あたかも日本が望んだものであったかのような印象でもって、世界に受け取られるようになりました。

 実際のところ、結果から見れば、そういわれても仕方がないような状況が現出したわけですが、ではなぜそのようなことになったのでしょうか。実は、 昭和12年1日に参謀本部が起案した「解決処理方針」には、「現中央政府否認の場合」の措置として、「北支に親日満防共の政権を樹立し之を更正新支那の中心勢力たらしむる如く指導」するとなっていました。これは、近衛の「蒋介石を対手とせず」声明と似ていますね。

 また、「占領地域内においては画期的善導指導により・・・民衆をして抗日容共の非を悟らしめ、時と共に依日救国の大勢に順応するに至らしむ」として、日本が中国に傀儡政権を樹立することの道義的正統性も主張されていました。ということは、トラウトマン和平工作において交渉継続を主張した参謀本部の基本的な考え方は、このような日本の中国に対する優越的指導性をベースとするものだったのです。

 つまり、参謀本部が中国との和平交渉継続を執拗に主張したのは、決して中国の主権の尊重やその領土保全を約束するものではなかったということです。それは、東洋道徳文明vs西洋覇権文明という対立図式の中における世界の覇権争いにおいて、中国が、日本の東洋文明のリーダーとしての役割に理解を示すこと、特に戦略物資の調達において日本に協力することを求めるものだったのです。

 こう見てくると、日本が、自らは望まなかった日中戦争に引きずり込まれ、足が抜けなくなったその究極の原因は、以上紹介したような、日本人の「一人よがり」の文明論にあったことが分かります。それが、一方で中国に対して主権尊重・互恵平等を約束しつつ、他方で、華北五省(山東省、河北省、山西省、綏遠省、チャハル省)の国民政府からの分離工作を押し進めるという矛盾を犯させることになったのです。

 こんな言行不一致とも自己欺瞞ともつかぬ矛盾した行動を繰り返すくらいなら、始めから、植民地的経営に徹して、合理的に問題処理を図った方がよほどスッキリしていた。これが、日本が大東亜戦争から学ぶべき最大の教訓なのではないでしょうか。これは、この戦争が日中戦争に止まらず、太平洋戦争にまで拡大したという、その信じがたい不合理性を見れば、一目瞭然の結論ではないかと私は思います。