トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問4

2009年5月17日 (日)

10、トラウトマン和平工作はなぜ失敗したのか

 さて、本テーマの最後の疑問として「トラウトマン和平工作はなぜ失敗したのか」ということについて総括的に考えてみたいと思います。このことは自ずと、「なぜ、日本は中国と戦争をしたのか」を問うことになりますし、ひいては太平洋戦争の敗因を探ることにもなると思います。

 一般的には、トラウトマン和平工作の失敗の原因を、文民政府(近衛首相や広田外相など)の責めに帰す意見が大半です。いわく、参謀本部は、中国との戦争が必然的に持久戦争になることを恐れて、蒋介石との寛大な条件による早期和平を強く主張した。しかし文民政府は、和平条件を過酷なものにつり上げ、かつ蒋介石の交渉態度を無礼として交渉打ち切りを主張した。米内海相に至っては内閣総辞職をちらつかせて参謀本部に政府案への妥協を迫った。もしこの時、参謀本部の意見が容れられていたならば、日本は中国との泥沼の持久戦争を避け得たし、ひいては日米戦争を戦うこともなかったであろう、と。

 だが、今までにも言及してきた通り、私はこうした見解は妥当ではないと思います。堀場一雄の『支那事変戦争指導史』では、参謀本部はあたかも広田外相が示した第一次和平条件を一致して支持したかのような印象で書かれていますが、実際の経過は次のようなものでした。

 まず、12月7日にディルクセンより蒋介石の交渉受諾の報が伝えられました。この時広田は、ディルクセンに対して一ヶ月前に起草された条件を基礎として交渉を行うことが可能か疑問だ、と述べましたが、即刻、総理・陸・海・外四相会議を開催し、ここでドイツの仲介を受諾して話を進めることが申し合わされました。、続いて陸・海・外務の事務局長が会議し、従来の条件に不当に加えられた直接損害の賠償を付加するだけの新条件が決まりました。

 しかし、広田の仲介申し入れがあったことを知った陸軍は色めき立ち、『広田を殺す』と騒ぐ者も出る始末で、多田参謀本部次長を含む省部会議は、『現在のような支那側態度では和平の応じられぬ。一応拒否し、後日新条件を提示する』」と決定しました。12月8日には杉山陸相が広田を訪ね「一応ドイツの仲介を断りたい。首相も同意だから」と伝えたとされますが、これは、この省部会議の結果を受けたものだったのではないかと、高田万亀子氏は見ています。

 こうした陸軍の強硬姿勢に対して、「海・外事務当局の二日がかりの工作が奏功し陸軍はドイツの仲介を受諾することに翻意」しました。(『外交官の一生』石射猪太郎p324)ただし、12月14日に政府大本営連絡会議にかけられた新和平案は、「新たに作成された強硬な陸軍案に基づき、『三省事務当局間で最大の条件として一応まとまりたるもの』(『静かなる楯』高田万亀子p200)で、原案説明に当たった石射東亜局長によると、それは「華北の中央化を妨げぬ趣旨」を守って「大乗的見地から立案された」ものとはいえ、「なお中国側の受諾を疑問視せざるを得ない」ものでした。

 しかし、連絡会議では、この案すら忠実に支持したのは米内海相と古賀(峯一)軍令部次長のみで、多田、末次(信正)、杉山、賀屋から出された異論で次々に条件が加重されていきました。この時近衛は、末次が「このような条件で国民が納得するかね」と言うと、「どんな条件にせよ、国民のためにこれが最善とあれば国民の間に不満があろうとも、これを断行しなければならぬ」といいましたが、条件加重に積極的に反対したわけではなく、また、広田外相は一言も発しませんでした。

 この時石射は、多田が条件加重派だったことに驚いていますが、それは、陸軍ではこの会議の前に、既に「華北五省を特殊化する強硬な新条件を陸軍案(前出「三省事務当局間で最大の条件としてまとまりたるもの」を決めるときの陸軍原案と考えられる)」を決めていて(上掲書p200)、結局これが、附記2条を含む11ヵ条の「第二次和平条件」となったのです。この時に加重された条件の要点は石射によれば次の通りでした。

・原案では、華北の中央化を妨げない趣旨にしたのが、特殊地域化の要求に変わり、
・塘沽協定を始め諸軍事協定の解消、冀察及び冀東政府の解消を規定した原案が削られ、南方の非武装地帯を上海周辺に限ったのが「華中占領地に」拡大され、
・中国側が故意にわが権益に与えた損害の賠償のみ予定した原案が、戦費の賠償をも要求する趣旨に変わり、
・和平協定成立後初めて停戦協定にいるべき旨の一項が付加され、
・なお日本政府は、中国側より講和使節を日本に送ることなどが申し合わされた。(『外交官の一生』石射猪太郎p326)

 こうした条件加重について風見書記官長が、こういう条件では「和平は到底成り立つまいと思うが、閣僚諸氏はどう思われるか」と聞くと、米内は「僕は和平成立の公算はゼロだと思う」。広田は「まあ三、四割は見込みはありはせぬか」、杉山は「四、五割は大丈夫だろう。いや五、六割は見込みがあろう」と答えたとされます。また多田も「(回答して)一応筋だけは当方の誠意を示しておく必要あり」と述べました。(『変動期の日本外交と軍事』)

 その翌日の12月15日には、陸軍省部合同で「対処要綱」が決定され、蒋介石が「条件を受諾せぬ場合は蒋介石否認」とされました。また、12月16日の連絡会議では、多田は広田や米内海相から、蒋介石否認に反対の言葉や態度を示された時、「天下りと思ってやればよし」といったとされます。(前掲書)

 こうした多田の強硬姿勢に対し、その部下である作戦指導課の堀場少佐は、
一、念を押したる上の回答を無視する本措置は、国家の信義を破ると共に日本は結局口実を設けて戦争を継続し侵略すと解釈するほかなし。是道議に反す。
二、成し得べくんば支那側今次の申し出を取上げ交渉に入るべし。交渉に入らば折衝妥結の道自ら開くべし」等と主張しました。

 堀場はこうした批判を広田に向けていますが、以上の経過を見ればわかる通り、広田の「第一次和平条件」を葬ったのは、上司の多田を含む省部会議だったのです。これに対して堀場は、参謀本部が12月1日に関係当局の意向を斟酌して作成していたという「解決処理方針」をもって、陸・海・外務の強硬論を説得し、12月20日になってようやく、華北の特殊地域化や非武装地帯の拡大などの加重された条件を、講和成立後に解除される保障条項とする「第二次和平条件」をとりまとめました。

 この条件案は、その後の閣議で、中国側に附記を含めた11ヵ条全部を示すか、原則4ヵ条を示すか問題となりました。これについて杉山陸相から参謀本部に意見が求められたとき、多田は書面で「順序方法は外相に一任するが、支那側が直接交渉に乗り出してくる時は全条件を納得してくることを要す。・・・目的は支那側が速やかに直接交渉に応ずるか否かを知ること。」と回答しました。要するに、蒋介石が直接交渉を求める場合は全条件の受諾が必要である。それ以外は政府に任す、ということだ思います。

 ところが、堀場は中国側が四条件の内容を具体的に承知したいという希望を述べ伝えていることを知った時、この四条件について、「右四条件より受くる印象は、甚だ侵略的にして本来の建設的理念を没却しあり、四ヵ条の内非武装地帯及び賠償問題の二項を含む。そもそも非武装地帯は保障条項にして一次的便法なり。又賠償の如きは元来期待せざりしものなり。支那側が疑心を抱きて具体的言質を請求するは当然なりと謂うべし」として、広田を激しく批判しました。(『支那事変戦争指導史』p121)

 しかし、先に見た通り、第二次和平条件の11条件を、その大体をカバーする4条件に変えたのは広田とはいえず、閣議での意見を踏まえたものでした。また、「非武装地帯は保障条項にして一次的便法なり」といっても、それは先ず蒋介石が本体の11条件を呑むことが前提であり、それが何時解除されるかについては日本側の随意に任されるわけで、蒋介石としてはとても信用できなかったと思います。また、「賠償の如きは元来期待せざりしもの」といっても、これは堀場の願望に過ぎません。

 確かに、堀場が、加重条件に対してそれを保障条項とし、和平成立後解消することの努力したことは評価さるべきですが、蒋介石が第二次和平提案について講和交渉に応ずるとしたときの条件は「華北の行政権は徹底的に維持されること。まず停戦すること。最後通牒では困る」でした。しかし、この保障条項付きの第二次和平条件は、中国の華北行政権を否定する特殊地域化や華中の占領地の非武装地帯化という過酷条件を呑まない限り、停戦には応じないとしており、蒋介石がこれを呑む可能性はなかったと思います。

 しかも、堀場のいう日本の真意とは「過去の一切を精算して日支両国が互いに領土主権を尊重し、渾然融和して日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に、相提携していこう」(『静かなる楯』p203)とするものでした。確かに日本にとってはそれでいいでしょうか、蒋介石にしてみれば、さんざんぶん殴られて満洲をひったくられ、「さあもうおしまい。みんなで仲良くやりましょう。しかしいやだというならば」と、大きな拳を振り上げられているわけで、蒋介石ならずともそんな国と肝胆相照らせるはずがありません。(上掲書p203)

 さらにいえば、堀場の「日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に、相提携していこう」という考え方は、次のような石原莞爾の最終戦総論に立脚するものでした。日本には、世界の思想・信仰を東洋の道義文明によって統一する使命がある。その使命達成のためには、西洋の覇道文明との最終戦争に勝利しなければならない。そこで、まず中国を日本を盟主とする東亜連盟の一員とし、政治的・経済的・文化的一体化を図り、まずソ連、最終的には西洋文明のチャンピオンたるアメリカとの最終戦争に備えなければならない・・・。

 まさに、アメリカとりわけ中国人にとっては妄想としかいえない誇大思想で、堀場がいかにまじめかつ真剣であったとしても、こんな手前勝手な思想に基づいて日中友誼論が説かれてもそれが説得力を持つはずがありません。実際、こうした考え方に立脚した堀場の主張は、政府・重臣にも不信の念を抱かせ、「陸軍とドイツの間に了解があるのではないか。ドイツ自身のために利用されているのではないか。対ソ同盟でも考えているのではないか」と疑われさえしたのです。

 一方、当時の日本の大陸政策の基調としては、昭和11年8月7日の「国策大綱」によって、「満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し、北方ソ国の脅威を除去するとともに、英米に備え、日満支三国の緊密なる提携を具現して、わが経済的発展を策するをもって、大陸政策の基調とす、而してこれが遂行にあたりては、列国との友好関係に留意す」としつつ、「ソ連の極東兵力に対しては、開戦初頭一撃を加える如く在満鮮兵力を整備充実す」とし、「海軍軍備は、米国海軍に対し、西太平洋の制海権を確保するに足る兵力を整備充実す」としていました。

 この両者は似ています。といっても、後者は、あくまで予算獲得上の陸海軍の妥協の産物であり「その場限りの作文」とされるものです。(『昭和の動乱(上)』p125)しかし、南京陥落後の蒋介石との和平交渉の段階では、軍部や政治家を含めた日本人一般の、日本の大陸政策についての基本的考え方は、ほぼこのようなものになっていました。つまり、堀場らと政府との日本の大陸政策を遂行していく上での主張の違いは、「手順あるいは心構え」の違いといった程度のものでしかなかったのです。

 さらに、日本の大陸政策を遂行していく上で、この両者のどちらが現実的であったかといえば、政府側であったというほかありませんでした。というのは、「蒋介石が日本側が期待するような条件で和平に応ずる」可能性はほとんどなく、この点、参謀本部の期待は「甘い」という外なかったからです。もしこの時、参謀本部が本当に中国との長期持久戦を恐れていたなら、軍事専門家として万難を排して政府を説得すべきであり、それをせず、あたら精神論に主軸を置いたことがかえって災いしました。(註:本来は華北分離政策の誤りを指摘すべきでしたができなかった)(下線部追記5/18)

 以上、私が、昭和13年1月に堀場等の主張による蒋介石との交渉が継続されていたとしても、それが成功する見込みはほとんどなかった、と考える理由について説明しました。もちろん、これによって、近衛首相や広田外相の責任が免除されるとは考えていません。高田万亀子氏は「近衛首相や広田外相としては、軍が乗っているこの機に一気に和平に持っていく機略こそあって欲しかった」と言っていますが(『静かなる楯』p211)、私もその通りだと思います。

 とはいっても、この時代、軍の意向を無視しては何事もできなかったことも事実です。当時、参謀本部作戦課長だった河辺虎四郎(少将)は「今次の政府の態度とその処理は、なるほど軍部の処理には、便利であることがわかるが、そうした手放し的な『軍部まかせ』の考え方が、果たして大局上妥当かどうか、私は事実、政府当局がもっと自主的に慎重な構えをとってくれることを、内心望んでいた」と書いています。(『市ヶ谷台から市ヶ谷へ』p137)

 しかし、広田自身は次のようにいっています。「外交の方は軍部さえちゃんとその持っていきたいところをはっきり決めてくれたら、手の打ちようはいくらでもあるんだ。いまうっかり手を出して、またそれじゃいけないの、これじゃいけないのといわれたら出しようがない」(『西園寺公と政局6』)つまり、「最大の政治力を持ちながら部内をまとめられない陸軍を、はたからどうしようもない」というのが実態で、問題は「陸軍の下剋上、統制不能」にあったのです。

 重光葵は「北支工作を連鎖として、満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」といっています。(『昭和の動乱(上)』p188)その日本の政治機構を破壊した張本人が、当時の青年将校、特に幕僚将校たちであり、その暴走の端緒をなした事件が、張作霖爆殺事件であり満州事変でした。そして、この青年将校たちを当時の国民の多くは熱狂的に支持したのです。

 次回は、この不思議について考えてみたいと思います。