トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問3
前回の続きです。 それにしても近衛首相や広田外相は、蒋介石政権否認後の日本の中国政策にどのような成算をもっていたのでしょうか。昭和13年1月16日の近衛声明では、蒋介石を交渉相手とする和平を断念して「帝国ト真二提携スルニ足ル」振興政権を育成し、更正した新中国をともに建設するとしていました。というのも、南京陥落の翌日(s12.12.14)には、日本政府がほとんど関知しない間に北シナ方面軍の手によって中華民国臨時政府が樹立されていました。また、12月24日にはこれを追認するように「事変対処要綱」が閣議決定されました。そこでは、蒋介石との和平交渉が不調に終わった場合、北支に防共親日満政権を樹立し、これを拡大強化して更正新支那の中心勢力とすべく指導する、としていました。 この中では特に 北支経済開発について、その目的を日満支提携共栄実現の基礎を確立するとし、そのため北支経済開発及び統制のため一国策会社を設立し、主要交通運輸事業(港湾及び道路を含む)、主要通信事業、主要発送電事業、主要鉱産事業、塩業及び塩利用工業等の開発経営又は調整に当たるとしていました。これについて参謀本部第二課戦争指導班の堀場一雄少佐は、「戦争方略としての施策と日支提携の基本形態との区分明瞭ならずして混同せる嫌あり」とし「之等は一切戦争遂行上の過渡的手段たることを明確にし」ない限り欧米侵略の亜流に異ならない、と批判していました。(『支那事変戦争指導史』p140) 確かに、この「事変対処要綱」を見ると、蒋介石政権との講和よりも華北の経済開発に関心があるかのようであり、なかんずく重要産業をことごとく国策会社の管掌下に置くとしていることは、あたかも戦争目的がここにあったかのように見えます。事実、日中戦争の引き金となった華北分離工作はこれを目的としていましたから、日本は日中戦争でこの目的を達成したともいうこともできます。従って、南京陥落後首尾良く蒋介石政権が倒れたならば、日本が擁立した親日政権が日本の傀儡政権となって、ここに華北の満洲化という新たな事態が生まれたかもしれません。 ということは、近衛も広田もこうした事態が現出することの方が、日中間紛争を根本的に解決する上では、蒋介石との和平交渉を模索するよりもベターだと判断していたことになります。もちろん、こうした判断は何も近衛や広田に特有なものではなく、軍部や政治家を含めた大多数の日本国民もそう考えていました。これに反対したのは、前述の如く堀場少佐を中心とする参謀本部の一部軍人だけだったのですが、彼らとて、もし、蒋介石が早々にギブアップし、新たに生まれた親日政権が中国国民の支持を得ることができると想定していたら、これに異論は唱えなかったと思います。 つまり、堀場少佐等が執拗に蒋介石政権との和平交渉継続を主張したのは、和平交渉決裂後の事態はこのように日本に都合良く進まない。この戦争は必ず中国との持久戦争に発展し双方の国力を損耗することは必至である。この間中共の台頭やソ連の満洲侵攻さえ招く恐れがある、と考えていたのです。それ故に、この機会を逃さず、公明正大かつ寛大な条件で蒋介石と講和を結ぶべきである。現在蒋介石に提示している第二次和平条件は、その趣旨を十分説明すれば、決して過大な要求ではないことが了解されるはずだ。ゆえに、中国側の再度の細目条件照会にも応ずるべきだと主張したのです。 ところで、この時の日本の第二次和平条件に対する中国側の対応は、中国国民党の最高国防会議メンバー間でかなりの混乱があったように見受けられます。汪兆銘の『挙一個例』では「12月30日から翌二十七年(昭和13年)の元旦に至るまで、三日間に亙って最高国防会議が開かれ和戦の問題を協議したのである。そして大晦日に至って、トラウトマン大使の和平提案を受諾することの決定した。併せて蒋介石は行政委員長の職を辞し、孔祥熙が代って院長となり、張群が副院長となることも決定を見るに至った」としています。しかし、別説では、この改造は”和平派”の追放が主眼であり、国民政府は1月3日に「和平拒否」を正式決定したとしています。(『日中戦争』児島襄p218) これは、国民政府内において、日本の第二次和平条件に対する意見の対立があったことを伺わせます。おそらくこのために、1月13日の中国側回答が「改変された条件はその範囲多少広きに過ぎるため・・・条件の性質と内容を知らされることを希望する」という迂遠な表現になったのです。また、一月15日の、この回答は必ずしも国民政府の回避的態度を示すものでないという孔祥熙のトラウトマンに対する釈明にもなったのではないかと思われます。そこでは、国民政府は「日本との真の了解に到達する希望を抱いている」として、再度、日本側提案の〈基礎的条件〉の性格と内容の照会トラウトマンに依頼するものになっていました。 しかし日本政府は、1月15日午後7時30分蒋介石政府との和平交渉打ち切りを決議しました。参謀本部は9時20分に参謀総長閑院宮の上奏により”巻き返し”を図りましたが、天皇が一度参謀本部も同意した政府決定を覆すはずもなく、こうして参謀本部は「孤立無援」となり、それ以上の”抵抗”を断念しました。翌16日、広田外相は独逸大使ディルクセンに「中国側には和平意志がないと認めるのでこれ以上の交渉は中止する」と通告しました。 これに対してディルクセンは、「中国側の引き延ばし的不満足な姿勢にたいし、日本側が待ちきれなかった事は理解できるが、世界の人びとの目には、日本側に交渉決裂の責任があるように、うつるのではないだろうか」と述べました。ディルクセンは交渉を決裂させたのは蒋介石側だと観察していたのですが、大使のこの発言は、「日本側から交渉拒否をいいだすのは自ら不利を招くことになる、との忠告であった」と児島襄は見ています。(『日中戦争』p228) こうして日本政府は、16日正午に、次のような声明を発表しました。「・・・仍ッテ帝国政府ハ、爾今国民政府ヲ対手トセズ、帝国ノ真ニ提携スルニ足ル侵攻支那政権ノ成立発展ヲ期待シ、コレト両国国交ヲ調整シテ、更正新支那ノ建設ニ協力戦トス」。既に和平拒否、抗戦継続を決意していた蒋介石は、この声明を知ると、「有一笑而已」と述べ、「日本側がいう「侵攻支那政権」の樹立は、要するに中国の領土主権を破壊する意図を宣伝するものであり、かえって、国際世論を反日親中国に押しやる結果になる、との判断を示したといいます。(上掲書p230) このあたりの日本側の外交的駆け引きの拙劣さにはいささか愕然とします。というのは、もともとこの戦争は、中国軍の日本海軍に対する奇襲攻撃によって開始され、また、広田が11月2日にトラウトマンを通じて蒋介石に示した第一次和平条件は客観的に見ても妥当なものであり、しかし蒋介石はそれを一ヶ月も放置した。そのため南京陥落を招き和平条件の加重を見たが、それも、実質的には第一次和平条件と大差なく、中国側に和平の意志さえあれば交渉継続は可能だったことなど、中国側に不利なそれまでの交渉経過が、ここでは完全に覆っているからです。 また、こうした拙劣さを見ると、日本政府は、蒋介石政権否認の段階で、その後の占領地統治や戦争終結の道筋について、一体どれだけの見通しを持っていたのか疑問になります。実際、南京陥落の翌日成立した中華民国臨時政府(主席王克敏)も、昭和13年3月に中支那方面軍が南京に樹立した維新政府(梁鴻志)も、民心による支持は薄く、日本軍の武力なくしては一日も存続を危ぶまれる弱体政権に過ぎませんでした。そのため、当初期待されたように国民政府を地方政権に転落させる見込みはほとんどありませんでした。(『日中戦争史』秦郁彦p152) また、第一次近衛政権下における占領地管理方式は、旧態依然たる分治合作主義で、華北及び蒙彊、揚子江下流地帯、華南諸島等に日中強度結合地帯を設定し、駐兵地域の鉄道航空等を管理するとともに、中央政府にも少数の顧問を派遣するというものでした。すなわち、実質的には中国の日本による独占化の色彩の強いもので、日本が育成した汪兆銘政権関係者からさえ「日本が列国を閉め出すのみならず、中国人をも閉め出すにあらずやとの誤解を生ずる」と批判されるほどのものでした。(『現代史資料』日中戦争2「解説」) そもそも、近衛や広田は、広田和協外交が出先陸軍による妨害工作で頓挫させられた事実から何を学んだのでしょうか。折角の広田の和協外交が出先軍の華北分治工作によって妨害されたこと。その結果、中国各地で邦人テロが相次ぐようになったこと。さらに廬溝橋事件を契機に日中全面戦争に発展しそうになりあわてて船津案という日本側の全面的譲歩案を示したこと。また、広田がごく少数の軍政府首脳の了解のもとに行ったトラウトマン和平工作はこの船津案をベースとしており、いうまでもなくこれは、出先陸軍による華北分治工作に対する反省を踏まえたものだったはずです。 こうした疑問については、一般的には、参謀本部第二課戦争指導班の道義性や先見性が評価される一方、特に近衛首相や広田外相の不明が慨嘆されていますが、私は、これは一面的な見方ではないかと思います。というのは、実は、昭和12年1日に参謀本部が起案した「解決処理方針」の「現中央政府否認の場合」の措置も、「北支に親日満防共の政権を樹立し之を更正新支那の中心勢力たらしむる如く指導」するとなっていて、近衛「蒋介石を対手とせず」声明と同じようなものになっていたからです。 また、「占領地域内においては画期的善導指導により・・・民衆をして抗日容共の非を悟らしめ、時と共に依日救国の大勢に順応するに至らしむ」として、日本の道義的正統性を当然としていました。さらに、「我国家総力就中国防力培養強化及び統制を促進すると共に支那に対する我国力の消耗を制限し且対ソ作戦の準備を強化整頓す」としていました。これは、中国に日本の国防政策に従うとともに経済統制を受け入れることを求めるもので、中国の主権は全く無視されています。(『支那事変戦争指導史』p116参謀本部「事変対処要綱」) なるほど、参謀本部の主張――日本人の支那人に対する蔑視感の払拭や、支那人の民族統一にかける思いへの理解を日本人に求める、という点では、確かに彼らは一般の日本人より覚醒的でした。また、中国の領土主権の尊重という点でも善意を持っていたことは間違いないと思います。だが、日本の中国における国防上又は経済上の権益拡大という点においては、拡大派のそれと同じ、あるいはそれを凌駕するものがありました。つまりこの点では、参謀本部の主張は当時の大多数の日本人のものと同じだったのです。 ではこうした日本人の中国におけるこのような権益主義がどこから出てきたのでしょうか。実は、それは「満州国」の独立についての日本人の次のような倒錯的な思い込みに端を発していました。 「『満州国』独立以後の日本の対中国政策は、『満州国』を既成事実として交渉の範囲から除外することを前提にしており中国側にも同じ前提を要求していたのである。しかし日本にとって『満州国』が過去形の既成事実であっても、中国にとっては決して既成事実ではなく、それは満州事変勃発(九・一八)以来一貫して強化されてきた日本の圧迫の基礎として、云いかえれば常に現在のものとして、意識されていた」 「このような両国間の、あるいは両国民間の政治問題に対する認識乃至感覚の重大な相違は、日中戦争直前の事態においても指摘できる。廬溝橋事件約一週間前の『大公報』紙は、『北支中央化』問題にふれて次のような論説を掲載した。 「日本側の云う『北支』なるものは、日本の歴史よりも古い時代から中国の土地であり、我が民族の居住生活してから、少なくとも百数十代経過している。そして中央政府とは、一国の国家組織にあって当然具有すべき最高機関であり、それが領土内において政令を施行することもまた当然のことである。しかるに今、『北支中央化』を指して直ちに抗日であるとし、さらに侮日慢日行為であるかの如く日本側が云っているのは、余りにも中国を蔑視した誤論であり、中国国民として深く憤激に堪えないものである。」 「しかし日本側にとっては、『北支』の中央依存の強化はすなわち反日行為である、と意識された。このような日本側の無意識的な倒錯意識は限度なく拡大されるものであり、中国側から云えばいつか戦火によって洗礼を与えなければ是正できない性格のものであった。中国は九・一八以来つねに日本に一撃を与え得る軍事的経済的力量の養成に努力してきたのであり、戦争が必要なのは実は日本ではなく中国であった。日本としては戦争に訴えることなく中国を屈服せしめ譲歩させさえすれば満足であり・・・しかし中国が東北を回復するためには、軍事力に頼る以外手段はなかったといえよう。」(『現代史資料』日中戦争2「資料解説」) つまり、中国人の目には日本政府の主張も参謀本部の主張も同じ穴の狢に見えたのです。一方、日本人の目から参謀本部の主張を見た場合、それは理想主義的ではあるが現実性を欠いているように思われた。実際、このことは満洲経営においてすでに実証されていました。従って参謀本部がこの疑問に答えるためには、中国との戦争は不可避的に持久戦となり、双方にとって耐え難い消耗戦となることを説得的に説明しなければならなかったのです。しかし、南京陥落後の戦況は圧倒的に日本に有利であり、蒋介石政権の命脈は誰にも風前の灯火に見えました。 その一方、ソ連に対する防備の強化や英米に対する日満支経済圏の構築という点では、参謀本部も政府と目標を共有しており、そこには対立点はなく、むしろ参謀本部の方がより長期的な観点から総力戦に堪える国防国家構想を持っていました。従って、近衛や広田が蒋介石との和平交渉継続に反対したのは、つまり、日本の伝統的な大陸政策を遂行する上においては参謀本部と意見は同じだが、蒋介石がこれを受け入れる余地はほとんどないから(この判断は当たっていた!)、従って、これに期待をかけるのは無駄であり、早々に交渉を打ち切ったほうがすっきるする、ということだったのです。 そこで最後の疑問は、ではなぜ、蒋介石政権は容易には倒れず、日中戦争は必然的に持久戦争となるということが近衛や広田には読めなかったのか、ということになります。それは、先に紹介したように、中国人の満州事変以来の日本に対する強靱な抗戦意志を理解することができなかったということ、これに尽きると思います。つまり日本人の大半が、「満州国」を過去の既成事実とし、こうした見方への抵抗を抗日と見なして中国に反省を求め、その保障措置として華北の中央政府からの分離自治、さらには親日政権の樹立を求めた、この倒錯的心理現象の再生産が、日本人の判断を狂わしていたのです。(つづく) |