トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問2
前回の続きです。 このあたりの事情を最も的確に説明しているのが、別宮暖朗氏の「第一次大戦と二十世紀サイト」です。その「トラウトマン工作」の冒頭には次のような解説がなされています。 「和平交渉は戦局が一段落せねば成り立たない。これは自明のことで、それより以前和平がもし成立するようであれば、戦闘自体が中断されるはずだ。一方このような悲惨な戦いを中止するため為政者がなぜ話合いをしないのか不思議と思うだろう。だが、戦争とはその為政者(片方)が開戦を決意したため起きているのだから、これは不思議ではない。この辺りの事情は大衆には全く知らされない。そして戦争を引き起こした片方の指導者は戦局の悪化を簡単には認めない。蒋介石も例外ではない。なぜならば、認めることは、自身の政治的破滅につながるからだ。」 これは、11月6日にトラウトマンより第一次和平条件を知らされた時の蒋介石の継戦意志の強さ、さらに戦局が決定的に悪化した12月2日の段階で第一次条件による和平交渉に応ずる旨トラウトマンに伝えた時の蒋介石の強気の態度を説明するものです。同時に、この戦争が中国側の決然たる開戦意志によって始められたということ。一方日本側の、全面戦争に発展するのをなんとかして食い止めたい、そのためには、いまだ戦闘が継続中であるが、開戦直前に策定された「寛大な」和平条件でもってなんとか戦争を終結させたいともがく様子も見えてきます。 もちろん、戦闘があらかじめ設定された追撃限界線や、あるいは南京城外で戦闘が停止されれば、こうした和平交渉も効果を発揮したと思います。しかし、日本軍では、現地軍が軍中央の指示を無視して既成事実を積み重ねそれを中央が追認するという「結果オーライ主義」が常態化していました。そのため12月7日には中国側の和平条件受諾の報が伝えられたにもかかわらず、南京城総攻撃が開始され「城下の盟」が実現する暇もなく12月13日には南京城が陥落しました。 では、このような情況下で戦争に勝利した日本がとるべき行動はどのようなものだったでしょうか。別宮氏は続けて次のようにいっています。 つまり、それまで日本の文民政府は、軍の無統制な行動に振り回されるだけで、しかも、その結果の後始末ばかりさせられてきた。しかし、今回の戦争については、参謀本部が上海への戦線拡大を恐れて兵力の逐次投入をしたため膨大な犠牲を生むに至り、これに対して文民政府は「アウトライトな攻撃に対しては断乎反撃すべき」という常識論でもって上海への増派を支持し、こうして上海戦の膠着状態は打開された。そうした先行経験もあって、文民政府は、南京陥落後も拙速に蒋介石との和平提案を推進しようとする参謀本部に疑問を投げかけた、というのです。 昭和13年1月初旬に当時の近衛文麿首相の所信をまとめた文書に「講和問題に関する所信」があります。近衛はその中でつぎのようにいっています。 一、然るに・・・元来我より進んで講和条件を提示することさへ如何と思わるるに彼の一部拒絶に逢うて再び譲歩の色を見するが如きことありては益々彼の乗ずる所となるべきや明らかなり、政府側としては軍部がかくの如き拙速を採りてまで講和を急がるる真意を了解するに苦しむ次第なり。 二、ここに於いて政府側としては軍部がかくの如く講和を急がるるには何等かそこの深き事情が損するに非ずやと推測せざるを得ず、然るに今日迄の陸軍大臣の説明だけにては今日講和を急ぐがざる可らざる理由明白ならず。もし真にこの際講和を急がざる可らざるの事情存するならば陸軍大臣は率直明白に之を他の閣僚に説明すべきものと信ず、閣僚も其説明により真に能く事情を了解するに至らばいかなる譲歩も之を忍び局を結ぶことに全力を注ぐことと成るべし。恐らく之に対し事情を解せざる一般国民の間には猛然として、反対運動起こるべきこと予想せらる其際各閣僚が陸軍大臣により真に能く事情を了解し居れば一致団結断乎として政府の責任に於いてこれら反対運動を抑圧すべし・・・。」(『現代史資料9』p104) そして、こうした見解は、近衛首相だけでなく、広田外相はじめ軍部大臣を含む閣僚全員、そして日本国民やマスコミの大半が支持する国民的世論となっていたのです。 これに対して参謀本部は、このままでは中国との長期消耗戦を余儀なくされ、その間にソ連による満洲侵攻を招く恐れがある。従って、なんとかして蒋介石に日中親善を望む日本側の「真意」を伝えて早期に戦争を終結したい。そのためには、和平条件を侵略的との疑念を抱かせない「寛大な」なものにする必要がある、と考えていました。そのため、12月20日、陸・海・外・参本間で纏められ閣議決定された「講和交渉条件」では、いわゆる加重条件とされた北支、内蒙及び中支占拠地域の非武装地帯や北支の特殊機構の設定などは、和平案が履行されるまでの保障条項として取り扱われました。 しかるに、広田が中国側に伝えた「日華和平交渉に関する在京独逸大使宛回答文」は、実はこの「講和交渉条件」そのものではなく、それを抽象的な四項目にまとめたもので、その中に上述の保障条項や賠償条項を含めるなど、はなはだ侵略的な印象を与えるものとなっていました。さらに、その細目条件の説明は口頭説明となっており、さらに、「講和交渉条件」に明記されていた「講和に関連して廃棄すべき約定」(梅津可応欽協定、塘沽停戦協定、土肥原秦徳純協定、上海停戦協定)が省かれるなど、中国側に条件加重による極めて過酷な印象を与えたのです。 その年末、参謀本部は、傍受電で支那側が四条件の内容を具体的に承知したいと希望を述べていることを知りました。これに対して外務省は既に詳細説明せりと応酬し、これに対して支那側はその説明を筆記にて受領したいと申し入れてきました。参謀本部戦争指導当局はこうした外務省の態度は不可解であるとして、閣議決定の「講和交渉条件」を端的に支那側に提示すべく軍務当局を通じて督促し、また在京の許大使に直接伝達すべしと付言しました。(『支那事変戦争指導史』堀場一雄p121) では、なぜ参謀本部がそのとりまとめに当たった「講和交渉条件」と、広田が独大使に伝えた回答(「第二次和平案」)とが、このように異なった印象を与えるものとなったのでしょうか。この間の事情は『西園寺公と政局(6)』に次のように説明されています。 「参謀本部は一時も早く戦争をやめたいので、『ドイツを仲介にして支那側の希望を判明させたい』と言って非常に焦っている。当方の条件も何とかしてつくって、連絡会議で成案を得たいと思っていろいろ努力した結果、閣議に出したら『先方に言ってやって、その案で纏まらない時は、政府も後で困るから・・・』というので、大体をカヴァーするような抽象的なもの即ち防共と経済提携と賠償と特殊政権の四条件に変て、その案を一応総理から上奏し、また統帥府の陸海軍首脳者からも上奏して、寧ろ御前会議を開かないで済まそうということになった。」(広田外相の談話) しかし、それにしても独大使に伝えられたこの「第二次和平案」が中国側にかなりの混乱を巻き起こしたことは事実のようで、三宅正樹氏の「トラウトマン工作と資料」には、1月14日に独大使ディルクセンから広田に中国側回答――日本側より提議された基礎的4条件はその範囲が広きに過ぎるため、再度その条件の性質と内容を知らされることを希望するというもの――が伝達されたときの次のような会話が紹介されています。 「広田はあいまいな中国側宣言に憤激しそれを単なる遁辞なりと考え且中国側は諾否を表明すべきあらゆる必要材料を有しありと述べたり。結局、敗北し和平を請わざるべからざるは中国にして、情報を与えられることを絶えず求められてきた日本には非らざりきと。本官は外務大臣に対し中国政府は正式には現在迄僅かに四個の基礎条件を知れるのみなることに注意を喚起せり。彼より本官宛のその他の通信は彼の希望により中国政府に対し極めて漠然たる形式に於てのみ送達せられたり。」 これを見ると、広田から中国側に伝えられた和平条件は、4個の基礎条件のほかは「極めて漠然たる形式」において知らされただけだったことが判ります。また、この間のドイツ外務省電文記録によると、その四条件の内の第二の原則(所要地域に非武装地帯を設け且該各地方に特殊の機構を設定すること)に関する説明としては、「華北における非武装地帯に加えて、揚子江渓谷における非武装地帯が今やはっきりと考慮されている」など、明らかに「講和交渉条件」の内容を逸脱する説明も見られます。(トラウトマン工作の性格と資料) 実は、12月20日に決定された「講和交渉条件」は、参謀本部の奮闘により12月14日の閣議で加重された条件、すなわち、非武装地帯の拡大(華北、内蒙、華中)、華北特殊政治機構の承認及び保障駐兵を保障条項としていて、梅津可応欽協定等四つの協定と共に講和成立後に廃棄されることが予定され、実質的に「第一次和平条件」を踏襲するものとなっていたのです。こうした「講和交渉条件」の軽易な性格を曖昧にし、過酷な条件加重との印象を与えた「第二次和平案」は、広田がディルクセンに通告した回答文の方だったのです。 従って、それが、中国側の照会に答えるべく作成された12月20日の「講和交渉条件」の趣旨と異なる印象を中国側に与えていることが判明したならば、当然参謀本部の言う如く、その回答文のオリジナルテキストをそのまま中国側に示すべきでした。実際、中国側からはその条件の細目照会が度々来ていたらしく、1月14日の中国側回答の直後の16日にも、新しく行政院長となった孔祥熙より、再度広田が示した基礎的条件の性質と内容を照会する次のような口上書が届いていたのです。 「中国と日本が、両国に悲惨な結果をもたらす現在の武力抗争にまきこまれていることは、最も不幸なことである。中国は、依然として、その結果東アジアに永続的平和が維持されるような、日本との真の了解が到達する希望を抱いている。われわれは、日本によって提案された〈基礎的条件〉の性格と内容とを知らせて欲しいという、熱烈な希望を表明した。何故ならば我々は両国間に平和を再建する兆候を探し求める全ての真摯な努力をなすことを、我々は日本によって提起された条件に関する我々の見解を表明するのに、よりよい立場に到達すると信ずる。」(「トラウトマン工作の性格と資料」) もちろん、広田が独大使に示した回答文は、12月21日に閣議決定されたもので広田の独断ではありませんが、「講和交渉条件」が閣議決定された後、「此等条件を支那側に移す要領に就ては外交事務当局に一任され度し」と申し出たのは広田でした。また、中国からの度重なる細目照会に対して、あえて「極めて漠然たる形式」の回答しか与えず、最終的には1月14日の中国側回答を遷延策と見なして、蒋介石との和平交渉を打ち切ったのも広田でした。それだけにその責任は免れない。 確かに「陸軍は相変わらず双頭の鷲であり、『二本軍』であった。陸軍省と参謀本部の意見が違う。・・・軍内部で意見調整できないものを、取り上げようがなかった」(『落日燃ゆ』城山三郎p207)という言い訳も出来ると思います。しかし、独大使に示した「第二次条件案」は、1月11日の御前会議で決定された「支那事変処理根本方針」(12月20日に決定された「講和交渉条件」にあえて日支提携の根本理念とその運用方針を附したもの)とも、その基本理念を異にしています。 にもかかわらず、なぜ広田や近衛が中国との和平交渉継続を願わず、その打ち切りを選択したのでしょうか。前回も言及しましたが、私はここに、軍人を含む日本人一般の伝統的な大陸政策に対する思い入れがあった。つまり、この時の省部の軍人と参謀本部の軍人との違いは、その大陸政策推進上の手段・方法の違いに過ぎず、その点、参謀本部の意見は確かに正論ではあるけれども、その有効性においては、省部軍人の主張する積極的侵攻策の方が現実的と見なされていたからではないかと思います。 つまり、参謀本部は、”言わせておいて片付けられた”のです。裏から見れば、参謀本部の説く「相互の主権及び領土の尊重に基づく日満支の互恵互助的提携論」(「支那事変処理根本方針」)は、満洲独立から華北分離工作へと発展した日本の伝統的な大陸政策と根本的に矛盾するものであり、前者の主張は究極的には満洲国さえ危うくする危険をはらんでいた。その自己矛盾が、参謀本部の主張の説得力を決定的に阻害したのではないか。おそらく石原莞爾はこのことに気づいていた。しかし、それを公言することはできなかった。 残された唯一の解決策は、支那の満洲に対する宗主権を回復させることだった、と私は思うのですが・・・。 |