日本国憲法第9条の生い立ちと有事教育の行方2
前回、「あの憲法は、当時の国際的要求をかろうじて食い止めた、一種の救助艇のようなものだった。彼ら(GHQ)も、これによって日本も救われたし、GHQも救われたという話をしていたことがある」という話を紹介しました。いわば敗戦という異常事態の中で、ソビエトが極東委員会を通じてアメリカの占領政策に介入しようとする緊急事態を迎えて、天皇制―日本政府は勿論のこと、マッカーサーも占領政策を円滑に進めるためには絶対に必要と考えていた―を守るためにはどうしたらいいか。そのためには、天皇の人間宣言を行うとともに、国民の総意に基づく象徴天皇制と戦争放棄を謳った日本国憲法を、極東委員会が開かれる前に日本政府案として発表することが、緊急避難措置としてどうしても必要だったというのです。 また、これはあくまでも緊急避難的な措置ですから、「米側はGHQ製憲法の寿命は講和までの数年で、どうせ改正されるのだからと、気軽に考えていたふしがある。日本側でも金森国務大臣などは議会でいつもそれを念頭におきながら答弁を切り抜けていた」(『昭和史を縦走する』「占領期と占領史」秦郁彦p111)といいます。ところが案に相違して、「平和憲法」は、半世紀以上にわたって生きのびることになりました。問題となった第九条は、その後、マッカーサー草案段階から自衛権行使のための戦力保持を当然としていたように、自衛隊を合憲とし、さらにその戦力不足を補うため、米軍への基地提供を代償として日米同盟による安全保障体制が構築されることになりました。 しかしながら、この日米安全保障条約に基づく安全保障体制は、「集団的自衛の関係によってでなく、基地に存在によって『同盟』関係を結ぶ」という変則的なものでした。そのため「アメリカの日本防衛義務が曖昧な点をとらえれば、この条約はその『物と人との協力』という点でも不完全な条約であり、かぎかっこ付きであれ同盟と呼べるような」ものではないといわれます。(『日米同盟の絆』坂本一也p126)また、このように自国の防衛をアメリカに任せて経済復興に専心するという路線は、アメリカへの依存度を高める一方国民の独立心を弱体化させ、他方、長期にわたる米軍基地の存在が国民の独立心を逆なでし反米感情を高めるという、アンビバレントな心理状態に国民を置くことになりました。 そこでこの問題を考えるために、まず、こうした日米安保体制を導入した吉田茂の、日本の安全保障についての基本的考え方(おそらく幣原喜重郎がその原型)はどのようなものだったかについて見ておきたいと思います。 「島国であり、海の国である」日本は、海外貿易と資本技術の導入によって生きねばならない。その面で「最も進歩している」「自由主義国」、とりわけ「米国との親善関係が、我が国にとって何より最も大切」である。つまり、戦後日本は通商国家・経済国家として再生させるべきである。(『占領期』五百旗頭真p386)そのためには「米国主導の占領改革を受け入れ、安保条約を結んで米軍基地を存続させ、同時に米国との通商、資本の導入を図る。自由民主主義をとり、軽軍備で経済重視の親米国家として戦後日本を再出発させる。」また、第二次世界大戦後の世界は「集団安全保障」と「国際的相互依存」の時代に入ったのであり、「再軍備」や「自主独立」などを振りかざすのは陳腐な思想である。(上掲書p397) こうした吉田茂の安全保障観を見ると、いわゆる「逆コース批判」(戦前の強権政治復活の危機感を訴えたもの)は長期的には全くの的外れであったことが分かります。それは「平和憲法」制定以降、アメリカに対して「負けっぷりの良さ」を演じつつ、憲法を盾にアメリカの軍備強化圧力をかわし、一方で通商国家・経済国家としての再生を一貫して追及してきたからです。そのためには、特に占領期間中、憲法九条が自衛権を排除していないことは百も承知の上で、「当面、戦力を持たない」―それは経復興の邪魔になるだけでなく、冷戦期を迎えて日本人がアメリカの先兵として使われる危険性を排除する―という戦略のもとに、あえて、自衛権の放棄をも含むユートピア的非武装論をマッカーサーに信じ込ませたのです。 おそらくこれが、幣原及び吉田が説いた自衛権の否定をも含む「ビックリ非武装論」の謎を解く最も説得力のある解釈であろうと思います。(『昭和の三傑』堤堯 参照) そこで問題は、こうした考え方を今後の防衛論議にどう生かしていくかということになります。だがその前に問題となるのが、こうした幣原、吉田及びマッカーサーの言動が、自衛権の行使に伴う戦力=自衛隊の保持をも違憲とする考え方を国民の間に生み、自衛隊を「私生児」扱いしただけでなく、防衛論議がタブー化している現状をどう修正するか、ということです。そのためにはまず、憲法第九条は、自衛権の行使のための戦力の保持を認めている(最高裁判決でも合憲が確定)ということを明確にする必要があります。その上で、先に示した吉田茂が立国の基本方針、日本は「島国であり、海の国である」は、日本の生存の基本的条件を提示したものであり、それは今後も変わらないということについて、国民の認識を一致させることが必要です。 それができれば、かっての自衛隊違憲論に端を発する自衛隊の私生児扱い、さらに今日にまで及んでいる防衛論議のタブー化などの問題の克服は、世界の自由主義経済化が進行し、テロに対する国際連合の役割が強化されている今日、それほど困難なことではないように思われます。ただ一つ、中国や韓国による「歴史問題」をテコにした日本人に対する贖罪意識の強要という問題があります。当然のことながら、これは「東京裁判」に根拠を置くもので、それは「一部軍国主義者の共同謀議により日本の侵略戦争が進められた」という歴史観を前提にしています。そのため、日本人の意識が、その「一部の軍国主義者」と「その他の国民」に分離され、後者を前者の被害者とみなすことによって、一部の軍国主義者=軍隊=自衛隊という発想連鎖でこれを否定する傾向を持つのです。 しかし、これはいうまでもなく占領統治の常套手段であり、国民の不満を「一部の軍国主義者」に振り向けると同時に、その他の国民を免罪することによって占領統治(=支配)を容易にしようとする宣撫工作(中国の主張はその一種)なのです。山本七平はこれを「マッカーサーの歴史観」と呼んでいますが、こうした占領統治を容易にするために作られた歴史観に拘束されたままでは、到底、昭和戦争(『戦争責任』読売新聞社)の失敗の真因に迫ることはできないと思います。事実今だに、国民の間に、防衛問題を自由に論ずることをタブー視する傾向が残っているということは、かっての戦争は、「一握りの軍国主義」という特殊な思想の持ち主が引き起こしたものであって、自分とは関係がない、という考え方をしている証拠です。だが、事実はそうではなかった。あの戦争を国民は熱烈に支持し共に戦ったのです。 では、以上の議論をふまえて、日本の満州事変以降の歩みを検証してみます。まず満州事変ですが、それは、先に紹介した吉田茂の安全保障観の原型をなす外交方針を確立した「幣原外交」を、「軟弱外交」「弱腰外交」として批判することから始まりました。確かに当時の日本も資源を「持たざる国」でした。それ故に通商国家、貿易国家として自由貿易体制を維持する必要がありました。しかし、当時の満州における日本の権益(資源を含む)の確保と、国家統一期にある中国の「国権回復運動」との外交調整は容易ではありませんでした。そこで軍は「幣原外交」を打倒し「武威外交」を推進したのですが、それは済南事件そして張作霖爆殺事件を引き起こし、中国との外交交渉を修復不可能なものにしてしまいました。そこに、世界恐慌に端を発する保護主義の動きが重なり、軍はこの問題の解決を、満州の武力占領に求めることになったのです。 だが、これは否応なく、ワシントン体制下の中国の領土保全と門戸開放、機会均等を定めた九カ国条約に違反することとなり、イギリス、アメリカとの対立を深めることになりました。その結果、日本は、国際連盟によるリットン調査団報告書(満州独立を否認)の採択に反発し国際連盟を脱退することになりました。こうして日本は、ロンドン軍縮条約の破棄による際限なき軍事国家への道を歩むことになったのです。この間、関東軍はその軍事力にものをいわせて華北五省分離工作を推進し、ついに泥沼の日中戦争に突入することになります。英米との対立はさらに深刻化し、国際的孤立を深めた日本は、なんとイギリス本土を爆撃中のドイツヒトラーと日独伊三国同盟を締結し、さらに資源獲得のため南部仏印に軍を進め、こうして米英との対立を決定的なものにしていったのです。 こうした歩みは、一言にしていえば、通商国家から軍事国家への転換ということで、自由主義国家との連携を捨てて全体主義国家との提携を選択するものでした。そして国内においても政党政治を軍事クーデターやテロによって破壊し、大政翼賛会という一党独裁的政治体制を確立することによって、議会を軍の翼賛組織と化しその予算審議権を手中に収めていったのです。これは、大正デモクラシー下にようやく形を整えつつあった政党政治と、それに基盤を置く議会制民主主義を破壊するもので、戦後吉田茂が採った「軽軍備で経済重視の親米国家」とは対照的な、「重武装で軍事力優先の親ファシズム国家(=国家社会主義)への転身をはかるものでした。 さて、こうした日本の戦前の歩みが、はたして歴史的にみて避けられないものであったかどうか、これは議論の分かれるところだと思います。しかし、あえてそこから教訓を引き出すとすれば、その最大の教訓は、「持たざる国」としての生存の道を自由貿易体制の確立の中に求めることを諦めて、帝国主義的植民地主義によって「もてる国」になろうとしたことにあったのではないかと思います。その自由貿易体制の確立ということが、当時の国際関係とりわけ日中関係においてどれだけ現実性を持っていたか、ということが問題になると思いますが、私は、当時の幣原外相の外交方針を再点検するとき、中国の主権を尊重する方向で、満州における日本の権益を維持・拡大することは必ずしも不可能ではなかったのではないかと思っています。 そのことの検証は後日を期すとして、話を元に戻しますが、山本七平は、「新憲法が発布されたとき、私は少しも違和感を感じなかった。」と次のようにいっています。 「そしてこれは恐らく私だけではない。その時代における総力をあげ、そのため長い間最低生活に甘んじ、それを当然と考える状態にあって作りあげた陸海軍は、実に無用の長物で、何の役にも立たず、ただ一方的に叩きつぶされたにすぎなかったという事実は、あまりに歴然としていた。おそらく今ではこの言葉は極端な議論にきこえるであろう。だがそれはその人が「緒戦の大勝利」という当時の新聞のまやかしや、・・・「強大な武器をもった日本」などという虚構にひっかかっているからに過ぎない。・・・そしてこの「一方的に叩き潰された」という図式は陸軍にもそのままあてはまり、ただその現れ方が海軍より複雑だというにすぎず、それは中国戦線でも南方戦線でも、結局は同じことであった。」(『ある異常体験者の偏見』p178) 「何度も言ったが、日本という国は、島国という特質、食糧・燃料という資源、カッとなる傾向(これは射撃には全く不適)、軍隊が運用できない言語等々々、あげれば全くきりがないが、そのすべては近代戦を行いえない体質にあり、そのことは太平洋戦争という高価な犠牲が百パーセント証明した―これが、当時のわれわれの実感だったはずである。」 「そしてこの実感は、新憲法に違和感を感じさせず、また、たとえ憲法を改正してもこの客観的事実が変るわけではないのだから、生きて行くつもりなら、ここを起点として、全く別の道を模索せねばならないと思わせたはずである。当時から約四分の一世紀、その間われわれは本当に何かを模索したのであろうか。実は何もしなかった。・・・なぜそうなったか。われわれにとって新憲法が何であれ、マッカーサーにとっては『占領政策』の手段にすぎず、マック制を護持するための方便であり、占領統治・宣撫工作と新憲法とがからみ合ってしまったからであろう。」(上掲書p179) 「このマック制が、宣撫工作に新憲法を悪用し『新憲法擁護』が、結局マック制擁護の錦の御旗になり、その結果『新憲法』と『軍政・宣撫工作』という全く相いれないものの間で、人びとが一種の循環論に落ちこんだこと、それが『新憲法』の最大の不幸であり、同時にそれは、われわれにとっても最大の不幸であろう。従って、今に至るまで、新憲法が、日本という国の持つ一種の『体質』の結果、必然的に生み出されたという当然の見方が全くないのも、あるいは不思議でないかもしれぬ。」(上掲書p180) この山本七平の『ある異常体験者の偏見』は、昭和48年に文藝春秋紙に掲載されて話題を呼び「文藝春秋読者賞」を受賞したものです。それからすでに35年、山本七平のいういわゆる新憲法を生み出した、日本という国の持つ一種の『体質』、それをふまえた日本の安全保障のあり方についての論議は、一体その後どれだけの進展を見たのでしょうか。山本七平はこの時、「これを考えるためには、まず、マック制というその宣撫班的発想から自らを解放することである。これがある限り、何の結論も出てくるはずはない。」といっています。その上で、「まず、われわれが置かれている現実の位置を見、過去における決定的な失敗の跡をたどり、それへの検討を新しい方法探求の基盤とすべきであろう。」(上掲書p194)といっています。 私は先に、戦後の吉田茂が採用した「自由民主主義をとり、軽軍備で経済重視の親米国家として戦後日本を再出発させる」という外交方針―それはとりもなおさず彼の安全保障観の前提をなすものですが、それと、満州事件以降日本が採った外交政策を比較してみました。そのどちらが成功したかといえばいうまでもなく前者です。では、こうした国運を左右する選択の岐路にあたって、戦前そして戦後のマスコミそして国民の多くは、はたしてどれを選択しようとしたのでしょうか。いうまでもなく戦前は、軍の指し示した「重武装で軍事力優先の親ファシズム国家(=国家社会主義)」への道でした。そして戦後は、非武装のままソ連に隷属する衛生国家への道でした。この間、スターリンや毛沢東が戦前のヒトラーの如く国民の人気を博したことは言うまでもありません。 |