田母神論文が教える「有事教育」の必要性

2008年12月24日 (水)

 12月1日、田母神氏は日本外国特派員協会で講演し、「普通の国のように軍を使うことができないのは歴史認識の問題」と従来の考え方を繰り返し強調しました。また、「(核保有を)議論するだけで(核)抑止力が向上する」などと国内外での「本音の安全保障論議」の必要性を訴えました。(毎日新聞12月1日配信)さらに、戦争や武力行使の放棄をうたった憲法9条についても「国民の意見が割れており、直してもらった方がいい」と述べました。また、懸賞論文で「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣(ぬぎぬ)」と主張した点については「自衛隊員の多くは支持していると思う」と語りました。(読売新聞12月1日配信)

 田母神氏のいう歴史認識の問題については今まで論じてきましたので、ここでは、現在の平和憲法下における自衛隊のあり方、それを担う自衛隊員の意識あるいは「士気」の問題について、私見を申し述べておきたいと思います。田母神氏は、「日本は侵略国家だった」という歴史観が「普通の国のように軍を使うこと」を困難にしているといいます。そして、核という問題も含めて「本音の安全保障論議」が必要であり、それが自由にできないのは、「国際紛争解決の手段」としての武力の行使を放棄した憲法9条についての「国民の意見が割れている」ためであり、こういう状態は「直してもらった方がいい」と述べています。

 ここで田母神氏のいう「普通の国のように軍を使うこと」というのは、どういう意味なのか必ずしもはっきりしませんが、一応ここでの議論は現行憲法下における自衛隊のあり方についての議論だと思いますから、これを「軍=自衛隊による自衛権の行使」という風に理解して議論を進めたいと思います。田母神氏はこの「軍=自衛隊による自衛権の行使」が困難になっているのは「日本は侵略国家だった」という歴史観があるからだといっています。しかし、私はそれは違うと思います。実際は、国際法上「侵略国家」といわれても仕方のない軍事行動があったという反省に立って、憲法上軍の使用を自衛権の行使に限定したのであり、そして、こうした考え方は、国際法から見ても決して特異な考え方ではなかったのです。

 国連憲章(1945.10.25発効)は、国連の目的が「国際の平和及び安全を維持すること」であることを明記し次のように規定しています。

 第一条 平和を破壊するに至る虞の国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
第二条 すべて加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

 つまり第一条は、国際紛争はすべて平和的手段によって解決するということであり、第二条は、武力による威嚇又は武力の行使はいかなる場合も他国に対して行わない、ということです。いうまでもなくこの規定は1928年の不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約、日本を含む当時存在した主要国60カ国が調印、現在でも有効とされる)の規定を反映したものです。この不戦条約は次のように規定しています。

 第一條 締約國ハ國際紛争解決ノ為戦争二訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互間係二於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ拠棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名二於テ巌蕭二宣言ス
第二條 締約國ハ相互間二起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段二依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス

これは、日本国憲法第9条一項の規定そのままです。そして東京裁判における最大の訴追理由は「平和に対する罪」ですが、これは、この不戦条約を破って戦争を始めたことそれ自体とされたのです。(『滅び行く国家』立花隆p224~228)もちろん、不戦条約は自衛戦争を認めています。そしてこのことを当時の日本もよく知っていました。それ故に、満州事変や真珠湾攻撃を自衛戦争だと言い張ったのです。しかし、これが通るためには不戦条約の解釈から「先制攻撃」(=作戦計画に基づき第一撃を討つこと)をしては駄目で、だから、満州事変が関東軍の謀略(=柳条湖における満鉄線路爆破)に始まったことを関係者は隠し続けたのです。(それが当事者の証言で明らかになったのは1956年秋のこと)

 また、真珠湾攻撃では開戦通告が遅れたことが問題とされますが、不戦条約によって開戦手続き(=最後通牒又は宣戦布告)は集団安全保障に基づく参戦を除いて空文化していた(『軍事学入門』別宮暖朗p36)そうですので、たとえ宣戦布告が真珠湾攻撃開始以前だったとしても自衛戦争とは認められなかったでしょう。もちろん戦争にはどちらが先に手を出したかということの外に、どちらが正義かということがありますが、これはいずれの国でも主張しうることであり、いわばそれは自国民を戦争に駆り立てるための宣伝に過ぎないといえます。ここに、不戦条約が先制攻撃を非としていることの意味があるわけで、つまり、その最初の一撃を侵略と規定することで戦争の発生を防止しようとしたのです。

 もちろん、これで戦争が防げるかというと、その後の歴史を見ても判る通り、必ずしもその理想どおりにはいきません。宗教的あるいはイデオロギー的に自国の軍事行動を正義とする国家が現れ、それに対して有効に対抗できない場合は侵略される恐れが出てきます。そこで、勢力均衡の考え方に立つ「同盟を含んだ安全保障体制」の構築が必要になってくるのです。つまり、日本国憲法第9条第一項の規定は、「同盟を含んだ安全保障体制」(=日米安保条約)の構築と矛盾するものではないのです。それは、自国の自衛権の行使(=独立の確保)を集団的な安全保証体制の中に求めようとするもので、従って、当然「集団的自衛権」は認められるのです。

 ただし、現在の日本政府は、憲法解釈上「日本の自衛権は憲法上の制限に従って行われ、自衛権の行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきものであるため、「集団的自衛権を行使することは…憲法上許されない」としています。しかし、それでは、日本はアメリカと安全保障条約を結ぶことによって自国の自衛権を担保してもらうが、その逆はできないということになります。そこで、その埋め合わせをするために「思いやり予算」など在日米軍の駐留経費の一部を負担したりしているのです。しかし、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以後、アメリカからの要請によって、安全保障分野における日本の役割拡大が求められるようになりました。

 これは、アメリカと日米安全保障条約を結び、自国の自衛権の行使をアメリカによる「集団的自衛権」行使によって肩代わりしてもらっている以上当然出てくる議論で、日本はアメリカのそうした要求を、平和憲法を盾に今まで拒みつづけてきたのです。それは「日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる」とした、連合国最高司令官マッカーサーの指示を受けて作成されたものだったからです。しかし、当初の民政局が示した原案は、自衛権まで否定するものでしたので、その後、いわゆる芦田修正により日本国憲法第9条第二項の冒頭に「前項の目的を達成するため」が挿入され、「」自衛権行使のための戦力の保持及び国の交戦権」は認められるとしました。だが、「集団的自衛権」の行使については、日本国憲法9条の解釈として認められない、と解釈してきました。

 ここに、日本国憲法第9条の解釈上、田母神氏も指摘するような、日本の防衛をめぐって「国民の意識が割れる」状況が発生しているのです。実際、この条文の成立過程を見れば、もともとそれは、一切の戦力の保持及び交戦権を否定していたことは明らかで、文章表現もそう解釈するのが自然です。また、第二項の「前項の目的を達成するため」も、自衛権の行使を可能とするため応急的に挿入したもので、苦肉の策という外はない。そして、こうした一見して矛盾した条文をあえてそのままにすることによって、日本の自衛権の行使の有効性をアメリカの「集団的自衛権の行使」に担保させつつ、一方、アメリカの極東戦略に巻き込まれないために、自らの「集団的自衛権」の行使は憲法上できないとしてきたのです。

 こうした態度は、ある意味では狡智といえますが、何となくすっきりしない。一体、こういう態度がいつまで許されるのか、しかし、そのおかげで日本は戦後60余年間一人の戦死者も出さず、また他国の人を傷つけることなく平和を保ってきた。それは世界が夢みてきたことではないか。だから、その理想は今後とも誇り高く保持すべきではないか。こうした意見がある一方、だがそれは、アメリカ軍の一方的な犠牲の上に保持されてきた平和ではないか。また、日本も憲法解釈上自衛権の行使は当然としており、実際、世界第三位(軍事費)の自衛力を持つ自衛隊を持っているではないか。それなら、そうした自衛隊の役割を憲法上明記し、国論の分裂を避けるほうが賢明ではないか、という意見もあります。

 さて、こう考えてくると、私たち国民は、自国の安全・独立の確保のために自衛権を行使するとはどういうことかということを、憲法第9条を盾に、あまり考えてこなかったということに気がつきます。あるいは、その困難に伴う精神的負担を自衛隊員に押しつけてきたのではないか。いやそれどころか、彼らの仕事を軽視あるいは忌避さえしてきたのではないか。こうした観点から田母神氏の提起した自衛隊員の意識あるいは「士気」という問題を考えてみると、氏の訴えるところは一理ある。いうまでもなくそれは、日本人は、今後、日本の「有事」ということをどう考えるのか、という問いにつながっていきます。

 実は、こうした問題は、一部の政治家や官僚が考えればいいという問題ではないのです。そもそも防衛とか有事への対応ということは、国民生活にも重大な影響を及ぼすことであり、国民の理解と支持がない限り不可能なことなのです。当然、教育の課題としても採り上げられるべきものです。しかし、今日までの中央教育審議会の答申はいずれも、国際化の重要性を強調し、そうした厳しい環境の下で経済的な繁栄を持続していくためにはどうしたらいいかを論じながら、その前提となる平和の確保、我が国の安全保障の問題については一言も触れてきませんでした。。(『未来形の教育』市川昭午「なぜ有事に言及しないのか」参照)

 では、本当に「有事はないと考えてよいか」「本当にアメリカ頼みで大丈夫か」日米欧の120名以上の識者・知識人に対するインタビューに基づいて作成された三つのシナリオの一つは、「安保で自立を迫られる日本」だったといいます。(上掲書p72)それよりなにより、日本人は独立国家として自国の安全を守るということ、その意味が判らなくなってしまっているのではないか。ホントに憲法改正をしないだけで、国の安全は守られるのか。少なくとも、現在の世界各国の安全保障の実態を学ぶべきではないか。さらに、現在のような国民の意識で、自衛隊員に「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努める」ことを求めうるのか。まずは、「国民が防衛問題の重要性を認識し、有事への対応を真剣に考え、まともに議論し合うこと」が必要ではないか・・・。

 「本当の文民統制は、文民が防衛問題について的確な見識を有することを前提としてはじめて可能となるのである。」(上掲書p82)

 と、ここまできて、ふとあることに気づきました。例の裁判員制度についてですが、その意味が私はどうもよく分からなかったのですが、これはある意味で、我が国の安全の確保、社会秩序の維持ということについて、国民の意識の高揚をねらって、その審理過程に参加さすべく義務を課す、つまり、徴兵制ならぬ一種の「徴民制」ではないかと・・・。それならそうとはっきり言うべきではないかと、私は思いました。