「田母神論文」から、私たちは何を学ぶべきか2
前回「一握りの軍国主義者」論の問題点について山本七平の見解を紹介しました。実はこの問題は、氏が『ある異常体験者の偏見』を執筆当時(1973年)、毎日新聞の元編集委員新井宝雄氏との間で論争になったものです。 新井氏は、山本七平への反論の中で次のようにいっています。 これに対して山本七平は次のように反論しています。 つまり、「戦争の実態」を究明しようとするときに「一握りの軍国主義者」で片づけてしまえば、結局「オレは彼らを声高に非難している。従ってオレは彼らとは関係ない純正潔白な人間だ」ということになり、戦争は「一部の軍国主義者」がやったことで、自分も含めその他国民は被害者だということになる。そうすると「一部軍国主義者」の「悪」は自明だから、後はそれを醜悪化し戯画化するだけとなる。一方、政治家やマスコミを含め国民が一致して軍を支持したという事実も消えてしまう。その結果、なぜ軍はそのように行動したのか、なぜ国民は軍を支持したのか、それはどういう思想に基づいていたのか、ということが判らなくなってしまう。それでは「戦争の実態」はつかめないし、問題の解決もできないではないか、というのです。 ここで山本七平は、個人の思想と行動との関係を問題にしています。つまり、人間の行動を、時代情況との相対的な関係の中だけで捉えて、その人の思想との関連を無視する、そのような精神構造を問題にしているのです。また、氏がマスコミを批判するのは、決して「マスコミが無用の長物」だといっているのではなく、新聞が、戦前は軍の戦争政策、戦後はマッカーサーの軍政施行のスポークスマン的役割を担ってきた、そうした事実を指摘しているのです。確かに、戦時中は軍の検閲があり戦後の占領期はマッカーサーの検閲があった。しかし、そうした時代情況を理由に、新聞社がそうした過去の行動を正当化するということは、自らの言葉=思想に責任を持たないということになりはしないか、といっているのです。 このような、人間の行動の「正当化の基準」を、時代情況への対応の仕方だけで考える倫理観を、山本七平は「情況倫理」と呼んでいます。これは日本の伝統的な考え方で、「『情況に対する自分の対応の仕方は正しかった。』従ってその対応の結果自動的に生じた自分の行為は正しかった。それを正しくないというなら、その責任は『自分が正しく対応しなければならなかった』苛烈な状況を生み出したものにあるのだから、責任を追及さるべきはそのものであって、自分ではない」という論理です。(『空気の研究』単行本p116)これは田母神氏の「大東亜戦争肯定論」の論理にもつながります。 そして、「この考え方の背後にあるものは、実は一種の『自己無謬性』乃至は『自己無責任性』の主張であり、(この)情況の創出に自己もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠如している状態なのである。そしてこれは自己の意志の否定であり、従って自己の行為への責任の否定である。そのため、この考え方をする者は、同じ情況に置かれても、それへの対応は個人個人でみな違う、その違いは、各個人の自らの意志に基づく決断であることを、絶対に認めようとせず、人間は一定の情況に対して、平等かつ等質に反応するものと規定してしまう。」(上掲書p121)これが「一部の軍国主義者論」の論理になります。前回述べた軍政としての「マッカーサーの戦争観」とも重なるわけです。(下線部追記11/24) こう見てくると、田母神氏の「大東亜戦争肯定論」も新井氏の「一部の軍国主義者論」も同じ「日本的情況主義」の伝統に根ざしていることが判ります。ではこのような、個人の置かれた「情況」を、個人の行動の倫理的判断の基準とする考え方はどこから生まれているかというと、それは、その「情況」に対応する個人が「人間性の平等」という観念で均質的にとらえられているということ、つまり、個人がある「情況」に置かれれば誰でも同じように対応するのが当然と考えられているからです。ここでは個人個人はそれぞれの思想に基づいて行動し、その行動に対して責任を持つ、という考え方が排除されます。 そして、「この日本的情況倫理は、実は、そのままでは規範にはなり得ない。いかなる規範と雖も、その支点に固定倫理がなければ、規範とならないから、情況倫理の一種の極限概念が固定倫理のような形で支点となる。ではその支点であるべき極限としての固定倫理をどこに求むべきかとなれば、情況倫理を集約した形の中心点に、情況を超越した一人間もしくは一集団乃至はその象徴に求める以外になくなってしまう。西欧が固定倫理の修正を情況倫理に求めたのとちょうど逆の方向をとり、情況倫理の集約を支点的に固定倫理の基準として求め、それを権威としそれに従うことを、一つの規範とせざるを得ない。」(上掲書p136) 「日本における・・・スターリン賛美の論理も、日本軍への『神兵化』も、ヴェトナム報道も、毛沢東礼賛も、常に同じくこの論理による一種の『神格化』である。そしてこの論理の矛盾を指摘した者は、常に一種の『瀆聖罪=不敬罪』として非難される。そして非難されて当然なのである。というのは、この支点的絶対者を、どこかに設置しない限り、いわば一種の人間尺の極限概念のような形でゴムの一端をどこかに固定しておかない限り、『オール3』的(人間性=筆者)評価の『3』(つまり平等の基準点=筆者)が設定できず、従って、平等は立証できず、情況倫理も成立しないからである。」(上掲書p137) ここに、なぜ日本人が、一方で人間性の平等を指向しつつ、他方で、絶対者(戦前はヒトラーやムッソリーニ、戦後はスターリンや毛沢東など)を賛美する傾向を持つのかの理由があります。また、これは戦前の言葉で言えば「一君万民(平等)」、戦後は「一教師オール3生徒」ということになります。そして、これらの組織は中国の儒教の影響で「家族主義的」に運営されますから、それは一蓮托生の連帯責任の社会となり、いわば個人の倫理より集団=組織の倫理が優先する社会となり、組織に不利なことは決して口にしない、逆に「知りません」「記憶にありません」といって事実を語らないことが美徳とされる社会になります。 実は、この「家族主義的」組織の基本原理は「忠孝一致」ということで、「孝」という親子間の道徳規範が、「忠」という組織間の秩序原理にまで拡大適用されたものです。これが、「教育勅語」の説く倫理観なのです。いうまでもなくこの倫理観は、「仏心」が、あたかも、月が一滴の露にもその影を映すように全ての人の心に宿っている、とする仏教的平等観を母体として、その上に中国の輸入思想である儒教が重なり、それが江戸時代を通して日本的に変容する過程で生まれたものです。そして、これが尊皇思想となり明治維新の原動力となるのです。こう見てくると、よく日教組批判の口実に使われる「平等主義的オール3評価」は、決して左翼的なものではなく、実は、戦前の「教育勅語」の「一君万民(平等)」思想を受け継ぐ、最も伝統的な日本的評価基準なのです。 いうまでもなく、戦前の軍部も右翼も、こうした「一君万民」「天皇親政」的な政治形態を理想としていました。従って、それと矛盾する「天皇機関説」的立憲君主制、それを支える政党政治、その思想的前提である「自由主義」ないし「自由主義者」は絶対許すべからざるものと考えていました。一方、社会主義者は、ただ方向を誤っただけで、いわば転向させれば有能な「国士」になると考えていました。従って、転向者の多くは軍部の世話で「満鉄調査部」などで、満州における計画経済の立案に参加していました。 そして、以上述べたような「一君万民」を前提とする情況倫理・集団倫理の世界では、組織に不利なことは口にしない、逆に「知りません」「記憶にありません」といって事実を語らないことが美徳とされます。その結果、事実を事実として、その人の思想信条と切り離して論ずることができなくなります。また、前回紹介しましたが、是か非かを論ずる前に可能不可能を論ずることもできなくなります。そしてこの体制は、個人が自由に発言し行動することを徹底的に排除し、「父と子の隠し合い」の関係以外は認めないということになるのです。 そして、この「父と子」の関係によって律される秩序を維持しようとするなら、この集団は必然的に閉鎖集団とならざるを得ない。そしてこの閉鎖集団を維持するためには不都合な外部情報を統制して内部の秩序維持を図らなければならない。対米戦争期の日本が英語を敵性言語と規定してその教育を廃止したのはそのためです。それは結局、相手の実態を見てはならないという態度になり、一切の情報を統制し、新聞と読者の間、政府と国民の間をも「父と子の隠し合い」の状態に持って行くことになります。そしてそのためには、集団の倫理を個人の倫理の上におく、いわゆる「情況倫理」を当然とするようになるのです。 いささか回りくどい説明になりましたが、私たちが究明すべき昭和の「戦争の実態」とは、以上のような、組織の名誉のためにはホントのことを隠す、事実を事実として語ることを許さない、従って、可能か不可能かという事実に関する議論と、是か非かという価値観に関する議論とを区別できなくなる、など「情況倫理」の世界がもたらしたものだったのです。もちろん、この「親と子」の運命共同体的な組織は、到達すべきモデルがある間は爆発的なエネルギーを発揮し得たわけですが、そうした目標を見失い孤立した状態の中で外交問題を自らの発想で処理しなければならなくなったとき、以上述べたような、事実を事実として語ることを許さない精神風土の中で、冷静客観的な判断ができなくなり、ついに、やるつもりもなかった無謀な戦争に突入することになったのです。 以上、「一部の軍国主義者論」の問題点、及びそうした考え方が依拠している日本の伝統的な考え方=「情況倫理」の世界についての、山本七平の分析を説明してきました。とはいえ、ここで引用した山本七平の『「空気」の研究』は1977年の出版で今から30年以上前のものですから、その頃からすると現在は、いわゆる「内部告発」による談合事件や不正の摘発が相次ぎ、コンプライアンス(企業が法令や規則を遵守しようとすること)の姿勢が明確になってきています。しかし、今なお閉鎖的な身内社会を脱していない組織が多く存することも事実です(特に教育界は問題です。大分でその一端が明らかになりましたが・・・)。 しかし、ここで問題となるのは、今日の日本の精神風土において、はたして、以上指摘したような、戦前の日本を破滅に追いやったいくつかの思想的課題が、はたしてどれだけ克服されたか、ということです。個人の思想信条の自由を組織の利害あるいは名誉に従属させていないか。身内組織の利害を超えた一般的法的規範の遵守という考え方がどれだけ浸透しているか。事実論とその人の思想信条とを区別して論ずることができるか。可能不可能の議論と是非論とを区別できるか、などなど。 テレビでは連日、『自己無謬性』の刻印を額に押したような「正義の士」が、世の悪を陶然として指弾追求し、それに扇動された人びとが、名指された「極悪人」に抗議の電話を集中する。憲法を守れといいながら、この人権無視、思想信条の自由の侵害。この平和な時代でさえこうなのだから、かっての植民地主義、軍国主義、人種差別、世界恐慌、冷害・不況の時代にああいうことになるのも、けだし当然かも・・・と思うのは私だけでしょうか。(*少し抑制した表現に修正しました。11/23) |