田母神論文を支えている日本人の思想的陥穽

2008年11月11日 (火)

 田母神氏が民主党などの要求により参議院の外交防衛委員会で参考人招致されることになりました。さて、どんな議論が交わされるか。

 田母神氏は3日の更迭後の会見で、自分が論文で主張したことは「誤っているとは思わない。政府見解は検証されてしかるべきだ」。「政府見解とか、一言も反論できないということでは、北朝鮮と一緒ですね」といっています。また、論文は本や雑誌の引用がほとんどで独自の研究とは言い難いとの指摘には「書かれたものを読んで意見をまとめた。現職なので歴史そのものを深く分析する時間はとれない」といっています。従って、私が前回指摘したような歴史的事実に関する議論には深入りしないと思います。

 では何を主張するか、結局それは、自衛官の服務規定上どの程度まで政治的な自分の個人的見解を対外的に公表することが許されるか、という問題に落ち着くと思います。ただ、空軍幕僚長というポストは一種の管理職ですから政府見解に反する意見を公表すれば解任降格となってもやむを得ないでしょう。しかし、それが懲戒免職の対象となり退職金返納までさせられて然るべきものか、私はそれは疑問だと思います。

 この問題について、この懸賞論文の審査委員をつとめた政治評論家の花岡信昭氏は、「田母神氏の論文は一言で言えば、いつまでも『自虐史観』『東京裁判史観』にとらわれているような実態から脱却して、先の戦争をもっと多面的に見つめなおそうではないか、日本が悪逆非道なことばかりしてきたとされるような一面的な歴史観を克服しようではないか、といった点に尽きる。これは既に保守系論客の多くが主張してきたことであった。

 論文の中で使われている歴史的事実などに異論をさしはさむ向きはある。正直いって、審査の過程でもそのことは話題になった。だが、総体として、田母神氏が真っ向から『日本は侵略国家の濡れ衣を着せられている』と問いかけたことを重視したのであった。」といっています。その上で花岡氏自身は次のように自説を述べています。

 「国家の過去をことさらあしざまに言いつのる状況がいつまでも続いていていいはずはない。歴史は見る視点によってさまざまに解釈されていいのではないか。朝鮮半島や台湾などで、日本があの当時、インフラ整備や教育環境の充実などに努力したことはまぎれもない事実なのだ。」

 「『村山談話』で日本は過去の『侵略』を反省し、謝罪の意思を表明した。これもあらゆる場面で重ねてきたことなのだが、半世紀以上も前のことをいまだに謝罪し続けている国など、世界のどこにもない。戦争というのは、開戦に至る過程で、国家としての判断、主権の尊厳など、あらゆる要素が存在するのであって、『侵略戦争』の一言で片付けられるものではない。要は戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた『東京裁判』の呪縛から解き放たれていないということではないか。」(花岡信昭メルマガより転載)

 そして花岡氏は最後に、田母神氏は「民間人になったのだから、もう何を言っても平気だ。これが(参考人招致)実現したらおもしろいことになるとひそかに期待している。」と述べています。しかし、先に述べたとおり、国会の参考人質疑で、満州事変や日中戦争及び大東亜戦争の歴史的評価に関する議論を深めることは無理だと思います。また、田母神氏にしても、論文は「書かれたもの」(渡部昇一氏や黄文雄氏の著作など)をまとめたものに過ぎなくて、それも「勉強不足」が目立ちますから、それに深入りすることはしないと思います。

 そこで、私の関心ですが、もちろんそれは花岡氏がいっておられることで、日本の満州事変から敗戦に至までの歴史をどう評価するかという問題です。渡部昇一氏や黄文雄氏そして花岡氏の主張は、要するに、「国家の過去をことさらあしざまに言いつのる状況がいつまでも続いていていいはずはない。歴史は見る視点によってさまざまに解釈されていいのではないか。朝鮮半島や台湾などで、日本があの当時、インフラ整備や教育環境の充実などに努力したことはまぎれもない事実なのだ。」ということを言っているだけで、必ずしも当時の歴史が正しかったと主張しているわけではありません。

 そうしたバランス感覚が、田母神氏の論文では、彼らの書いたものの一部を引用しただけのものであるために、抜け落ちているのです。従って、この問題を論ずる上においては、田母神氏の論文ではなく、渡部昇一氏や黄文雄及び花岡氏らの主張をより詳しく点検する必要があります。本稿「日本近現代史における躓き」は、もともと、こうした問題関心から書き始めたものなのです。従って、かなりしつこい論述になっていますが、勉強しつつやっていることですので、議論が輻輳する点はどうぞご容赦いただきたいと思います。

 以下、この問題に関する私なりの見方を手短に紹介しておきます。私は、今までにも何度か言及しましたが、いわゆる「自虐史観」というのは好きではありません。また、そうした見方に安住して、”自分は正しい”と信じ込み、当時の日本人やそれを弁護する人たちを、あたかもある種の残虐人間であるかのごとく見なし、ヒステリックに批判する人たちを私は支持しません。問題は、彼らが「自己義認」から「自己絶対化」に陥っているのにそれに気がついていないことで、これこそ戦前の日本歴史を反省する上での最大のキーポイントではないかと思っています。

 こうした観点から、渡部昇一氏や黄文雄氏の主張について私見を述べると、確かに私も「朝鮮半島や台湾などで、日本があの当時、インフラ整備や教育環境の充実などに努力したことはまぎれもない事実」だと思います。台湾の領有や朝鮮の併合は条約に基づいてなされました。一方、満州の場合は、関東軍の謀略に端を発する満州占領から地方自治政権の連省による満州独立となりました。そしてそれを内面指導するという形で、実際は関東軍の武力を背景とする日本の新進官僚や財界人による中央集権的統制によって、その近代化が取り組まれました。

 そして黄文雄氏は、こうした日本による台湾、朝鮮、満州支配を、「大東亜戦争の否定・肯定論を超えた貢献論」という観点から、次のような自説を展開しています。

 「私は白人の植民地支配に対して否定的かといえばそうではなく、むしろ肯定的である。しかも植民地時代の遺産と社会主義時代の遺産を比べても、植民地主義の人類への貢献の方がはるかに大きい。なぜなら世界に対し、社会主義は破壊しか残さなかったが、植民地主義は近代化建設をもたらしているからだ。

 では日本は大東亜戦争において、一体いかなる歴史的貢献を行ったのであろうか。」「 大日本帝国が人類史に対して行った貢献、果たした役割として私がまず取り上げたいのは、開国維新後の「文明開化」と「殖産興業」を、東アジア地域に波及、拡散していったことである。この「文明開化」はソフトの波、「殖産興業」はハードの波だ。日本の成功あってこその拡散力で、それらが日清戦争の結果台湾を、日露戦争の結果朝鮮を、満州事変の結果満州を、そして支那事変の結果中国(占領地)を近代化させ、さらには大東亜戦争から戦後にかけ、南洋をも近代化させていったのだった。もちろんこの近代化の波は、資本や技術だけでなく、知識や知恵の伝播でもあった。

 このように東アジアを近代化させたのは、欧米でもロシアでも中国でもなく、日本だったのである。日本が台湾、朝鮮、満州、中国で行ったのは、匪賊退治、内戦・内訌阻止、治安確立、インフラ建設、金融財政の健全化、農民救済、農業改良、植林・米産指導等々だけでなく、二十世紀における世界支配の力学を変えたのだった。欧州大戦だけでは、ドイツが何度負けても従来の植民地時代が変わることはなかったのだ。

 だから戦後六十年以上が経った今日、戦前・戦中だけでなく、戦後の時代の流れからも、より冷静に、より客観的に、そして史実に正確に基づきながら、大東亜戦争を見なければならないのである。この戦争には悲劇の一面も大きいが、それとは別に人類史への貢献という側面も探求していかなければならないと思う。」(『大東亜戦争肯定論』黄文雄p27~29)

 黄文雄氏は、台湾出身で台湾ペンクラブ賞を受賞したすぐれた評論家です。特に、日本近現代史に関わって、中国の国家権力を恐れない大胆な切り口の評論で有名で、私も氏の著作を読み多くのことを学んでいます。しかし、あえて私見を述べさせていただくなら、氏は台湾出身ということもあって中国人に厳しく、日本人に優しい。それは大変有難いが、しかし私は、日本人自らのこととして、日本人によってもたらされたその歴史の「悲劇」の側面から目をそらすべきでない、と思うのです。

 言われるように、確かに日本人がこうしたアジアの近代化に貢献したという側面もありました。また、「善意」もありました。しかし、思想的に見れば、自国と他国との区別がつかず、そのため他国の文化的伝統に対する理解を欠き、その結果、自分たちの生き方や思想を彼らに押しつけることになった。そしてそこから朝鮮人や中国人に対するいわれなき差別感や優越感が生まれた。それが、朝鮮や中国との近代化に向けた真の友好関係の樹立を妨げた、というよりそれを破壊した。そしてついには、自国をも破滅させ「侵略国家」の汚名まで被ることになった・・・。

 私は、「日本近現代史における躓き」で幣原外交がどのようなものであったか繰り返し説明してきました。それは、もし当時の日本人に、朝鮮や中国をそれぞれ固有の文化的伝統をもつ他国と認める思想的余裕があったなら、満州問題についても、イギリスやアメリカとも連携を維持し得て、中国の国家統一にともなうナショナリズムに根ざした国権回復運動にも適切に対処し得たのではないかと思うからです。つまり幣原外交を支持する余裕が当時の国民にあったなら、日中戦争そして日米戦争という破滅の道に落ち込むこともなかったと思うのです。

 もちろん、そのためには、当時一世を風靡した国家社会主義的な思潮の中で、政治家は、軍部による政党政治批判を阻止するだけの知恵と力を持たなければなりませんでした。そしてマスコミは、関係する情報を冷静かつ的確に国民に伝えるべきでした。また、国民は、そうした情報をもとに冷静に判断して、軍部によるテロやクーデターを支持しないようにすべきでした。しかし、残念ながら事実はこの反対で、当時の国民にはそれだけの知恵と勇気を欠いていました。

 その結果、何のためにやっているか皆目わからないまま数百万の兵士を中国に送り込む「日中戦争」を4年余も戦い、その泥沼から逃れようとして、勝ち目のない「日米戦争」に”窮鼠猫をかむ”式に、一か八かの戦いを挑むことになったのです。

 ではこうした歴史的体験から、私たちはいかなる教訓を導き出せるでしょうか。それは、当時の軍部の陥った被害者意識と自己絶対化の心情、テロやクーデターの首謀者が厳罰に処せられずかえって英雄視されたこと、謀略により国法や国際法を犯しても結果さえよければよしとされ栄達を重ねたこと、一方、こうした軍部の専横に抵抗するどころか手引きさえした政治家たち、軍部の宣撫機関と化したマスコミ、そして満州事変や真珠湾攻撃を熱狂的に支持した国民世論等々、これらの不思議とその真因を見極めることなくして、私は決してその悲劇の糸口をつかむことはできないと思うのです。

 実は、こうした見解は、山本七平さんが自らの体験を通して導き出したもので、私はこの事実を日本近現代史を学び直す中で自分なりに検証したいと思っているのです。そうすることによって、日本近現代史をまぎれもない私たち自身の父祖の歴史として理解したいと願っています。田母神氏の論文はこうした観点から見ると、誠にいいわけがましく、我が父祖たちの失敗の真因に向き合っていない、ここからはさらなる被害者意識しか出てこないような気がします。あえてその論に言及した所以です。