蒋介石の「以徳報怨」をどう評価すべきか――ap-09さんとの対話

2011年2月11日 (金)

*私HP「山本七平学のすすめ」談話室より転載

ao-09さんへ

>この蒋介石の「以徳報怨」からなのでしょうが、父が戦後処理について中国は懐が深いというようなことをよく言っていました。でも彼(蒋介石)は国民党を率いていたので、現政権の中国共産党からすれば敵ですね。これをもって現在の国のあり方としての中国を論ずるのは難しいところがあるような気がします。中国共産党はしたたかですから、この蒋介石の行動をもってプロ中国、反日に欧米社会にアピールすることには大変成功していると思います。日本の分は悪いです。

tiku 戦後、日本人が蒋介石に対して抱いた「恩義」について、①蒋介石がカイロ会談において「天皇制」の存続を支持したこと、②日本敗戦時「以徳報怨」の東洋道徳に基づき「対日賠償の放棄」と日本人兵民の「無条件送還」を実行したこと、③ソ連による「日本の分割占領」を阻止したことなどが指摘されます。

 これらに対して、それは「蒋介石神話」であって、実際は、ソ連の対日参戦により、ソ連と中国共産党が結びつくことを恐れた蒋介石が、日本軍の国民党軍に対する武装解除を円滑に行うことによって、その後の中国共産党との戦いを有利に進めようとした政治的判断に基づくものであった、とか、健介さんが指摘されたような批判があります。

 が、いずれにしても、こうした蒋介石の大局的な判断が、当時の日本人を心底揺り動かすものであったことは事実でした。支那派遣軍総司令官だった岡村寧次は、大陸における戦闘においては日本軍は中国軍に対して連戦連勝と自負していましたが、天皇の玉音放送1時間前に放送された蒋介石の「以徳報怨」の演説を知って初めて「完全な敗北」を実感したと言います。

 これは、いわば日本人の心情的な反応と言えますが、以上の蒋介石の下した判断が、日本が戦後の国際政治情勢の変化の中で生き残っていく上において、決定的に重要な政治的判断であったことは疑いを容れません。そして、そうした判断を導いたものが「以徳報怨」の東洋道徳であったとすれば、東洋道徳も捨てたもんじゃないと言うことになります。

 では、こうした蒋介石の発言は当時の中国人にはどう受け止められたのでしょうか。当時の英米の各新聞はこれを「世界史に類例のない・・・最も寛容で、哲学的な格調高いもの」と評しました。しかし、「北京の知識人層にはその高い理念に感動し支持するものも少なくなかったが、一般的には大きな不満の声があがった」といいます。

 ”それは当然だろう”と思いますが、日本兵130万、居留民80万人の中国からの引き揚げが、終戦の年11月から約10ヶ月で終了した。それも他の地区からの引き揚げ者は裸同然だったのに、中国本土からの引き揚げ者は「衣料品等も一通りは当分の生活に困らない程度に荷物を持って帰ってきた(一人30キロまで許された)」というのは、蒋介石の指令なしには考えられません。

 もちろん、占領地における日本人の統治能力が中国人よりも高かったということ。確かに日本軍に協力することを忌避する中国人は多かったわけですが、その治安維持能力、組織管理能力、経済運営能力が高かった(日本軍支配下にあった華中では「ほとんどインフレにならず、物価も上昇しなかったという)ために、中国人の日本軍に対する怨みはそれほど強くならなかった、ということ言えるのではないかと思います。

 これに比べると、蒋介石ら国民政府が重慶から戻ってきて、「敵区」(日本軍の占領地区)や「淪陥区」(親日の王精衛政府に支配地域)を管理するようになると、却って、民衆は過酷な経済的略奪や搾取を受けるようになり、そのため、「多くの民衆は仕方なく中国共産党に新たな期待するようになった」といいます。台湾でもそんなことで、一般民衆の反発を招き、それに対する弾圧がなされ、蒋介石の神格化が行われました。

 ところで、この蒋介石の「以徳報怨」の演説に対し、最も激しく反発したのが、国民政府と敵対し、戦後の大陸においてその勢力拡大工作を一気に展開していた中国共産党でした。この蒋介石の演説を、周恩来は次のように激しく批判しました。

 『日本軍が中国に与えた損害の賠償として500億ドル(当時の日本円で約18兆円)を要求すると共に日本国内の鉱工業施設をすべて接収し、これを大陸に移すべきである。同時に中国に残留する日本軍人及び一般人200万人はそのまま抑留し、中国が戦争以前の姿に復旧するまで労務使役すべきである』」(『白団』中村祐悦p60)

 では、日本人に対する、この蒋介石と毛沢東の差はどこから生まれたのでしょうか。それは、端的に言えば、両者の思想あるいはイデオロギーが違いと言うことになりますが、実は両者の思想は、単なる違いで済まされるものではなく、中国思想をどのように発展させていくかという点において、根本的に相容れない対立関係にあったのです。

 蒋介石の思想は、儒教における「礼義廉恥」の道徳規範の徹底を図ることでした。しかし、それは伝統的村落秩序=地縁的・血縁的人間関係が一切を支配する社会関係に基礎を置くものだったために、私的・個別的利害の蔓延、村落の上下秩序関係の強化となり、底辺農民に対する一層の搾取・重圧として跳ね返ることになった。特に徴兵体制は拉致の色彩を帯び、兵の士気や規律の低下は避け難かったといいます。

 これに対して毛沢東の思想は、儒教の「牧民的」政治観が生んだ、政治をつねに「運命あるいは天命として甘受する農民の心性」を、土地の平等分配や租税の減免、汚職・腐敗の摘発などを通して、イデオロギー(マルクス・レーニン主義)的精神統一を図ろうとするものでした。これが兵士や農民の生産活動を促すものとなり、また、その安全や利益を保障するものとなって、彼等を味方につけることが出来たのです。(『蒋介石と毛沢東』参照)

 そんなわけで、国共内戦においては、中国共産党が次第に勢力を伸ばすことになったわけですが、いうまでもなく、そのイデオロギーはマルクス・レーニン主義に基づくものであり、儒教思想は階級イデオロギーに過ぎず、日本は帝国主義国家という位置づけでしたので、それは撲滅の対象にしかならない。それが先の周恩来による対日賠償要求に現れていたのです。

 では、この蒋介石の「以徳報怨」という考え方をもたらした儒教道徳と、毛沢東の、一定のイデオロギーに基づく「思想改造」を強制する思想とは、どちらが優れているかということですが、確かに後者は、前者の「牧民的」政治思想を「民主的」に改造しようとした点では一定の成功を収めましたが、政治権力が個人に思想改造を強要するに至った点では、儒教道徳より退化したと言えます。

 言うまでもなく、儒教思想は、政治的救済が道徳的救済となるという点において、大きな問題点を抱えています。つまり、政治が道徳の理想を体現することになっているために、結局、政治権力が理想化され批判が許されなくなる。だからこそ儒教では、政治権力者=統治者自身に孔孟的治者規範が求められたのです。だが、毛思想の場合は、この権力行使を規範化する道徳がない、というか否定した。

 これが、毛思想が、その後露呈したような儒教思想に及ばない点なのですね。では、これに対して日本思想はどうなのか、ということですが、結局、問題は思想における「義=正義」の観念の絶対化をいかに防ぐか、ということにあります。この「義」は社会に秩序を維持するためには絶対必要だけれども、同時に、その絶対化を避ける、特にそれが政治権力の絶対化に結びつかないようにするということが大切です。

 では、日本の思想は、この思想の絶対化を防ぐものを持っているか、ということですが、これは、日本人が「人間的」という言葉で表すところの、究極的には「もののあはれ」という言葉で言い表される、人間と自然(=絶対者)との対話の中から生まれた「あはれ」の感情なのではないかと思います。これが儒教に対するバランス装置としての国学の思想的ベースになっていたと思います。

 だが、これは一つの感情であって、七情(喜・怒・哀・苦・愛・悪・欲)に惑わされやすい。だから、できるだけこれらを抑えて、「即天去私」の平静かつ純粋な心的態度を保持すべきだ。これが江戸時代における儒教の日本的解釈の到達点だった。幕末になると、ここにおいて人間がそれに即して生くべき「天」のメッセージを具体的に伝えるものとして、尊皇思想が生まれ、これが明治維新という抜本的な体制変革を可能にした。

 こうして、明治における時代精神は、「即天(皇)去私」となったのです。また、この時天皇自身は、後期天皇制の伝統を受け継ぎ、立憲君主制における「君臨すれども統治せず」と親和した。また、国民は去私の精神で国の近代化に尽くした。こうして、日本は文明開化、富国強兵、殖産興業による近代化に成功したのです。ところが、この( )の中に、何を容れるかで事態は変わってくる。

 昭和は、ここに国家社会主義思想と親和した尊皇イデオロギーが挿入され、その「尊皇」と「軍」とが統帥権独立によって一体化したことによって、思想の絶対化→政治権力の絶対化という現象が生まれたのです。これも、儒教文化に起因するものと言えますが、日本の場合は、折角、それを抑止する後期「去私」天皇制を持っていたのに、それを伝統思想として思想史に組み入れ国民の共有財産としていなかったために、その知恵を生かすことができなかった。

 では、この時、本来、思想の絶対化を防ぐべきはずの「もののあはれ」はどのように作用していたのでしょうか。これは日本軍の玉砕、特攻精神に現れたように思います。問題は、それに殉じた人たちよりも、それを命じた指導者たちにあったのではないか。彼ら自身の「もののあわれ」を感じる心はどうなっていたか、ということが問われるべきではないでしょうか。一億玉砕を命じたその精神は、はたして「無私」といえるものだったか。

 以上の事を、日本の思想史的文脈の中で解明する必要があると思っています。

(参考までに、蒋介石の「「以徳報怨」の演説の概要を紹介しておきます)

蒋介石総統のメッセージ
「全中国の軍官民諸君」-全世界の平和を愛する諸氏!-
(重慶にて。1945年8月15日)「台湾建国応援団」サイトより転載

 「我々の抗戦は、今日勝利を得た。正義は強権に勝つという事の最後の証明をここに得たのである。
我々に加えられた残虐と凌辱は、筆舌に尽くし難いものであった。しかしこれを人類史上最後の戦争とする事が出来るならば、その残虐と凌辱に対する代償の大小、収穫の遅速等を比較する考えはない。この戦争の終結は、人類の互諒互敬的精神を発揚し、相互信頼の関係を樹立するべきものである。 
我々は『不念旧悪(1)』及び『与人為善(2)』が、我が民族の至高至貴の伝統的徳性であることを知らなくてはならない。我々はこれまで一貫して、敵は日本軍閥であり、日本人民を敵とはしないと声明してきた。
我々は、敵国(3)の無辜の人民に汚辱を加えてはならない。彼等がナチス軍閥(4)に愚弄され、駆使された事に対し、むしろ憐憫の意を表し、錯誤と罪悪から自ら抜け出せる様にするのみである。銘記すべき事は、暴行を以って暴行に報い、侮辱を以って彼等の過った優越感に応えようとするならば、憎しみが憎しみに報い合う事となり、争いは永遠に留まる事が無いという事である。それは、我々の仁義の戦いが目指すところでは、決してないのである。

(1)「旧悪を念ぜず」 (2)「人と善を為す」 (3)日本を指す(4)日本の軍部を指す