日本人はなぜソ連に終戦工作の仲介を依頼したか。その背後にあった日本人の無意識の思想は?

2011年1月26日 (水)

歴史学徒さんへ

>大本営がソ連の満州侵入を考え、それと共同歩調をとっていたのだと思う。ソ連と同盟してアジアからアメリカを撃退する計画があったと思う。

tiku 大本営会議は、天皇、参謀総長、軍令部総長・参謀次長・軍令部次長・参謀本部第1部長(作戦部長)・軍令部第1部長・参謀本部作戦課長・軍令部作戦課長によって構成されました(陸軍大臣と海軍大臣は会議に列したが発言権はなかった)。このように、大本営の組織には内閣総理大臣、外務大臣など政府側の文官は含まれない(例外として、小磯内閣期に首相が大本営のメンバーとなったことがある)ので、大本営と政府との意思統一を目的として大本営政府連絡会議が設置されました。

 では、終戦工作はどのようにして行われたか。これは、沖縄戦以降戦局が絶望的となり、4月5日、日ソ中立条約不延長通告(失効まで1年)、さらにドイツ降伏(5月7日)の後、政府は、なお国力のある内に終戦工作に着手すべきであるとして、最高戦争指導会議(1944年8月4日大本営政府連絡会議で設置が決められた)の構成員(鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、及川軍令部総長(五月末豊田大将に代わる)でもって六者首脳会談を持ち、終戦工作を協議することとしたのです。この会談は終戦の際まで続行され、終戦に関する重大事項はすべてこの会合で協議されました(協議内容は一切厳秘とされた)。

以下、『大東亜戦争収拾の真相』松谷誠著参照

 次ぎに、この会議に於ける協議の経過を見てみると、最初の会議は5月11日、12日、13日と三日にわたって開催され、そこでは、ソ連の利用度いかんが問題として取り上げられました。東郷外相は、対ソ施策はもはや手後れで、軍事的にも、経済的にも、ほとんど利用しうる見込みはないと主張しました。しかし、陸海軍側はなかなかそれを承知しえず、そこで鈴木首相が中間をとり、ともかくソ連の腹を探りつつ事を運んでみよう、ということで次の三つの目的を持って対ソ交渉を開始することにしました。

(一)ソ連の参戦防止
(二)ソ連の好意的態度の誘致
(三)戦争終結につきソ連をして有利なる仲介をなさしめる。

 この内三項については、東郷外相は、ソ連は英米と組んで利益を得んとしていると思われるので、対ソ代償を考えておく必要がある。その代償としては、日露戦争以前の状態への復帰を承認する必要がある、と述べましたが、阿南陸相が「日本が負けた形で終戦条件を考えることは反対だ」として意見が対立したため、とりあえず第一項、第二項でもって対ソ工作を進めることとし、第三項は暫時留保しておくことになりました。

 この間の協議を通して、陸海両相の戦争観の違いが明らかになりました。すなわち阿南陸相は「一度勝ちどきをあげて、その上終戦に持っていきたい」と主張したのに対し、米内海相は「このままでは国体の護持もおぼつかなくなる恐れがあるから、一日も早く講和すべき」という考えでした。ところで天皇は、この六者首脳懇談会に出ていたわけではありませんが、東郷外相の説明を受け、五月初め頃から「早期終戦の思し召しがはっきりしてきた」といいます。

 一方、沖縄戦以後の戦争の進め方については、当初は「沖縄決戦か、本土決戦か」の議論を巡って軍首脳間で激論が交わされていました。海軍が前者を主張し、4月7日、豊田連合艦隊司令長官は戦艦大和を基幹とする残存艦艇でもって特攻攻撃を命令しました。これに対して、陸軍部内においては沖縄決戦論は入れられず、本土決戦が断然大勢を圧していました。しかし、4月下旬、沖縄戦況が悪化し、その奪回が不可能となると、海軍も陸軍の本土決戦に追随するようになりました。

 その結果、6月8日、御前会議において次のような「戦争指導の基本大綱」が決定されたのです。そこでは「国力の現状」について次のような認識が示されていました。

 「敵の空襲激化に伴い物的国力の充実極めて困難なる状況にありと雖も、これが最大の隘路は生産意欲並びに敢闘精神の不足と国力の戦力化に関する具体的施策の不徹底なるに存す。之が為国民の戦意特に皇国伝統の忠誠心をいかんなく発揮せしむると共に、戦争遂行に必要なる最小限の戦力維持を可能ならしむる如く、八、九月頃までに完了せしむるを目途とし強力なる各具体的施策を講ずるの要あり。」 

そして、その方針は「七生報国の信念を源力とし地の利人の和を以てあくまで戦争を完遂し以て国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す」となっていて、以下、本土決戦のための要領が列挙してありました。これは、先の六者首脳会談の協議内容とは雰囲気が随分違いますね。東郷外相、米内海相、木戸内府などはこの決定を甚だ不満としたそうですが、当時の空気としては、こうした陸軍の強気?の主張が大勢を制しており、これを正面から押さえることは不可能だったのでしょう。

 一方、先の六者首脳会談における終戦工作についてですが、ソ連が4月5日、日ソ中立条約不延長通告をしてきたにもかかわらず、なぜソ連を仲介とする終戦工作を選択したのでしょうか。その理由としては次のようなことがあげられていました。

一、大正末期(ワシントン会議)以来の、陸軍の英米を嫌う思想的潮流があり、その後、陸軍の中国大陸進出に伴い、米英勢力と間接的に衝突する結果になったこと。

二、米英首脳が昭和18年1月、カサブランカ会議で枢軸側の無条件降伏を声明したため、米英との有条件での和平交渉は不可能と考えたこと。

三、スエーデン、スイス、バチカン等を仲介とする場合も無条件降伏という回答以上には出ないと予想されたこと。

四、ソ連については、対日参戦の公算大であるが、他面、日ソ中立条約は破棄されたもののまだ約一年の有効期間があり、また、終戦後の米英ソ間の相克が予想されるので、その施策よろしきを得れば。無条件降伏以上の講和も不可能ではない、と考えられたこと。

 こうして、東郷外相も対ソ工作に期待をかけるようになったのです。もちろん、その場合は、先に紹介したような代償を供与する必要があると考えていたのです。(当時、日本は、昭和22年2月に結ばれたヤルタ秘密協定によって、ソ連が領土的権益と交換に対日参戦を約していたことを全く掴んでいなかった。)

 この間、日本の海外出先機関による和平工作がいくつか試みられています。その中で最も熱心に取り組まれたものが、いわゆるダレス工作です。これは、在スイス日本公使館付海軍武官であった藤村義朗・日本海軍中佐を介するルートと、在スイス陸軍武官岡本清福中将およびスイス国際決済銀行の北村理事、吉村為替部長等を中心とするルートの二つがありました。

 いずれも、当時、当時、アメリカの戦時諜報機関OSS(CIAの前身)のスイスベルン支局長を務めていたアレン・O・ダレス(国務長官ジョン・フォスター・ダレスの弟、アイゼンハワー政権の冷戦外交に大きな影響を与えた人物で、後にCIA長官となった)に働きかけたものした。これは、ドイツ降伏後、ソ連が対日参戦によって極東に地歩を固めようとしていることに対するアメリカの警戒心を喚起することで、日米直接和平交渉の道を切り開こうとしたものでした。

 しかし、この工作に対しては、軍令部も参謀本部もまた外務省も、上述したようにソ連を仲介とする和平工作に期待をかけていたため乗り気を示さず、単に情報入手のためこれを利用する程度に止まりました。もちろん、アメリカ内部も、日本を降伏させる方針を巡る意見の対立がありましたし、また、連合国全体における意見の食い違いもありましたので、時間的に見ても、この工作が成功する見込みはほとんどなかったと、私は思っていますが・・・。

 ただ、その後、ダレスは、この工作の失敗について、次のように述懐したといいます。「あの交渉が成功していたら、今日中国やインドシナにまでソ連の勢力が伸びてくるようなことはなく、アメリカは、こんなみじめな目に遭うこともなかっただろう」(『日本終戦史(中巻)』p82)これは、朝鮮戦争が真っ最中だった頃の話だそうですが、その後のアメリカはもっとひどいことになりましたね。

 さて、先の六者首脳会談の決定に基づき、東郷外相は広田元首相に、マリク駐日ソ連大使に対する働きかけを依頼しました。広田は6月3,4の両日マリク大使と非公式会談。6月18日には、六者首脳会談で正式にソ連の斡旋による終戦交渉に着手する決定を見たので、6月24日、広田・マリク正式会談を行いました。その際、マリク大使は日本側の条件を要求したので、日本側は6月29日の会談でこれを示し、マリク大使はこれを本国に取り次ぐことを約束しました。しかし、その後、広田の会談申し入れにもかかわらず、マリク大使は病気と称して応じませんでした。

 7月7日、天皇は鈴木総理を召されて対ソ交渉の経過を聞かれ「腹を探るといっても、期を失してはよろしくないから、この際端的に和平仲介を頼むことにし、親書を持たせて特使を出すことにしてはどうか」と言いました。これを受けて7月10日、六者首脳会談において特使派遣が正式に決定され、特使には近衛元首相が選ばれました。このことは7月13日に佐藤大使を通じてソ連側に伝えられましたが、ソ連首脳部はポツダム会談に出かけるため返事は遅れるとのことでした。

 7月16日から、米英ソの三巨頭によるポツダム会談が始まりました。日本はポツダム会談後では時機を失するとして、ロゾフスキー次官を通してソ連に、近衛特使の派遣の目的はソ連政府による和平斡旋である旨伝えましたが、ソ連は、日本の特使派遣には応ぜず、その裏で急遽対日作戦準備を始めました。7月26日、日本に無条件降伏を要求(ただし、日本民族の奴隷化、又は国民として滅亡せしめんとする意図は有さない)とするポツダム宣言が発せられました。このため、特使派遣による日ソ交渉はなくなりました。

 なお、このポツダム宣言に対して鈴木首相は、これについて「ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂にあくまで邁進するのみである」と語りました。鈴木首相としては、ノーコメント程度のつもりだったそうですが、陸海統帥部の要求――ポツダム宣言は軍の士気に関わるので、無視する態度を発表するよう政府に求めた――を容れて「黙殺」という言葉を使ったのです。

 それというのも、実は、5月半ば以来の対ソ外交交渉による終戦工作は、陸軍では陸軍大臣と参謀総長のみが関与しただけで、参謀次長以下には全く知らされていませんでした(そうしない限り終戦工作はできなかった)。そのため、上記のような統帥部の政府に対する強硬な申し入れとなったわけですが、これがとんでもない結果を生みました。それは、8月8日、佐藤駐ソ大使がモロトフ外相を訪問した際、モ外相は、「日本がポツダム宣言を拒否したことにより、日本のソ連に対する調停申し入れは基礎を失った」として、佐藤駐ソ大使に対して、調停案どころか対日宣戦文を手渡したのです。

 その後の、天皇の二度の「聖断」による終戦・・・つまり「右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解」のもとに、ポツダム宣言を受諾するに至るまでのドラマは、皆さん周知のことですので割愛するとして、最後に、では、なぜ日本は、こんな”ひどい”ソ連に対して、その危険性を察知しながら、なぜ、あれほどナイーブな淡い期待を寄せ続けたのか、と言うことについて、考えたいと思います。

 次の文章は、昭和20年4月頃から、参謀本部戦争指導課が、政治、経済、思想、報道等の各方面の識者数人を集めて作成した「終戦処理案」(『大東亜戦収拾の真相』松谷誠著所収)です。ここには、彼等がなぜソ連に戦争終結の仲介を依頼しようとしたか、その理由が書いてあります。先に、六者首脳会談による四項目のソ連に和平工作の仲介を依頼した理由を紹介しましたが、ここでは、より率直に、彼等のソ連に対する思想的親和性が表明されています。

 和平転移の方法
(4)七、八月の間、ソ連がわれに対する和平勧告の機(を作ってくれる)ことに期待する理由

A スターリンは独ソ戦後、左翼小児病的態度を揚棄し、人情の機微に即せる左翼運動の正道に立ちており、したがって恐らくソ連はわれに対し国体を破壊し赤化せんとする如きは考えざらん。

B ソ連の民族政策は寛容のものなり。右は白黄色人種の中間的存在としてスラブ民族特有のものにして、スラブ民族は人種的偏見少なし。されば、その民族政策は民族の自決と固有文化とを尊重し、内容的にはこれを共産主義化せんとするにあり。よってソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん。

 ただし上層部の考えるが如き形式的国体護持論では、スターリンの心を打たず、かつ将来危険なり。したがって国体護持が国民生活に深く根ざしあることを、対ソ外交の衝にあたる者がスターリンに話すとともに、国内的にもそれを確立する如き政治施策を行なうを要す。

C ソ連は国防・地政学上、われを将来親ソ国家たらしむるを希望しあるならん。すなわちソ連は従来大陸国防国家なりしも、航空機の発達と将来米英に挟撃さるる危険とは、ソ連に大陸海洋国防国家たることを要請しつつあり。しかるが故に、西にありては、国防外核圏を拡張せんがためにフィンラソド、ポーランド、ドイツ、バルカン方面に親ソ国家を建設せんとするとともに、バルト海地中海への出口を求めつつあり。南に対しては、ペルシャ湾への出口を求めつつあり。さらに東に対しては、東ソの自活自戦態勢の確立のために満州、北支を必要とするとともに、さらに海洋への外核防衛圏として、日本を親ソ国家たらしめんと希望しあるならん。

D 戦後、わが経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点より見るも対ソ接近可能ならん。

E 米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方、将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん。

F 対ソ折衝とともに、補助手段として対英接近を図るべし。右理由は、ソ連の一方的弾圧を回避せんがためと、米ならびに重慶は、国体否定の空気強けれど、英はしからざる故なり。

 これが、上述したような日本の終戦工作の中枢にあった参謀本部中堅軍官僚及びそれに協力した識者のソ連認識だったわけですね。私は、歴史学徒さんがおっしゃるような、「大本営がソ連の満州侵入を考え、それと共同歩調をとっていた」というようなことはなかったと思います。しかし、この「終戦処理案」に見るように、当時、終戦工作に携わった少壮軍人や識者たちの多くが、米英をはじめとする自由主義体制よりも、ソ連の共産主義国家体制の方を選択しようとしていたことも事実のようです。

 このことは、上述したような卑劣極まるソ連の対日参戦、さらに60万の日本人をシベリアに拉致し強制労働させるという恐るべき暴虐をやった、その後においても、日本人のソ連に対するナイーブな期待に変化はなかった、この事実を想起するだけでも、こうした日本人の思想的傾向の不可思議さは、十分驚くに値するものではないかと思います。

>現在の共産党の委員長志位和夫は大本営参謀の志位正二の甥である。

tiku 志位正二は大本営参謀の経歴はなく、関東軍参謀のようですね。

>蒋介石との和平工作は無に帰したのではないと思います。戦後賠償請求権を放棄した蒋介石の「恨みに報いるに徳を以ってなす」の政策を引き出すのに何かつながっていると思います。

tiku 『蒋介石秘録』等で蒋介石の言葉を読むと、中国における「大人」という言葉にふさわしい悠然たる風格と知性を感じますね。それにしても、中国の国民が、「不念旧悪」「与人為善」という蒋介石の呼びかけによく従ったものだと驚きます。こうした蒋介石の「以徳報怨」の態度は、旧軍人を含めた多くの日本人を感動させました。しかし、蒋介石がやったことはそれだけではなかった。ソ連による日本の分割占領を阻止しようとしたことや、また、対日賠償請求放棄を率先し戦後日本の復興を可能ならしめたのも氏でした。このことを、日本人は決して忘れてはならないと私は思います。