日本はなぜ繆斌工作、ダレス工作ではなく、ソ連に講和の仲介を依頼したか

2010年11月18日 (木)

*前エントリーに対する健介さんとの対話ですが、大事な観点が含まれていますので本文掲載とします。

健介さんへ

>>日中戦争による数百万に及ぶ戦死傷者の被害もさることながら、これら対日協力者が戦後の”漢奸裁判”において悲惨極まる犠牲を強いられたことについて、私たち日本人は一体どれだけ自覚的であるか、そんな深刻な疑問を抱かされたことでした。

>これは日韓併合以後わが国に協力した朝鮮人に対する扱いと同じでしょう。

tiku 中国や韓国における「漢奸」や「対日協力者」に対する扱いの過酷さは日本人の想像を絶するものがあります。政治的救済が道徳的救済になる儒教文明の問題点だとは思いますが、日本人の場合はおっしゃる通りあっさりしているというか、自らが引き起こしたこうした悲劇にどう対処すべきかという、そうした観念自体があまりないような気がしますね。中国で反日感情の最も強い人たちは、実は「民主化運動」を推進している人たちだ、ということを聞いたことがありますが、こんなところにも原因があるのかも知れません。

tiku 健介さんの米内光政評についてですが、それは多分、『米内光政と山本五十六は愚将だった』三村文夫著を参考にされたのではないかと思います。三村氏は、ポツダム宣言が出たとき鈴木首相が天皇に受諾の聖断を求めていれば、原爆もソ連来襲もなしに和平に至ることが出来たであろう、と言っていますね。また、ダレス工作の可能性についても言及しています。

 まず、ダレス工作についてですが、この工作を行った藤村義朗海軍武官がドイツ人ハックを介してダレスと接触したのは昭和20年5月23日頃で、彼はさかんに海軍省に交渉に応じるよう働きかけますが、海軍省は陸・海の離間を策するものではないかと疑い、7月20日頃にはこの交渉は外務省に移管されました。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ohori/sub10.htm参照

 これとは別に、スイス陸軍武官の岡本清福と国際決済銀行理事北村孝治郎、同為替部長吉村侃、外務省(加瀬公使)による、国際決済銀行のヤコブソンを介した「ダレス工作」が7月10日頃開始されています。この時の日本側の意向に対するダレスの回答は、

1,国体の護持については、アメリカとしては了解するが、他国への思惑もあるから、明言は出来ない。
2,朝鮮、台湾問題に就いてはノーコメント
3,ソ連の参戦前に話をまとめなければ、全てはご破算になる。
だったと言います。

 しかし、この頃は大本営、政府は、ソ連を仲介にする和平を進めており、加瀬が東郷外相宛送った電報に対しては「ダレス機関との接触に関しては、出来るだけ情報を送れ」というだけで、別段の指示は与えませんでした。

 では、なぜ政府は以上のようなアメリカとの直接交渉に乗り出そうとしなかったかと言うことですが、簡単にいえば、米英との交渉では、まず、無条件降伏以外には考えられなかったからで、軍部、特に陸軍が絶対承服しない事は明白だったからです。つまり、ソ連であれば、戦後アメリカがあまり強大になることは望まないだろうし、日本が、日露戦争以前にソ連が持っていた権益を返還するなどの条件をつければ、あるいは仲介に応じてくれるのではないかという淡い期待を持ったのです。

 最終的には、近衛が特使としてソビエトに行くことになりましたが、ご存じの通り、ソビエトはヤルタ会談で、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦、さらにソ連が旅順口を海軍基地として中ソ合同で使用すること、東支鉄道と南満州鉄道が「中国長春鉄道」の名の下に、三十年間は中ソの共同管理下に置かれる外、南樺太、千島列島のソ連への引き渡し等という秘密協定をルーズベルトと交わしていました。対日参戦の方がソ連にとっては魅力的だったわけで、”知らぬは日本ばかりなり”なのでした。

 なお、このソ連を仲介とする和平工作に、徹底抗戦を叫ぶ陸軍以外の和平派といわれた人たちが、それにどれだけの期待を寄せていたかと言うことですが、「そのほとんどが対ソ交渉は極めて危険な綱渡りで、できるならば米英との直接交渉のほうがよいと考えていた」ようです。しかし、陸軍が同意した仲介が唯一ソ連だったため、それにかけざるを得なかったわけです。(『日中戦争史』中巻参照)

>彼等は何かを画策していたとしか思えない。海軍外務省宮廷この三派は何かをしていたのではないか。陸軍大臣阿南が<米内を切れ>と述べたというがそれは其の事、つまり何かを画策していたことをいうのではないか?

tiku 米内は和平派に属していましたからね。阿南はポツダム宣言受諾の御前会議の評決で三対三となり天皇聖断を仰ぐことになったことについて、海軍を和平派に与させた米内が許せなかったのではないでしょうか。また、ポツダム宣言が出された段階で天皇聖断を仰ぐことが可能だったとは思えませんし、仮にあったとしても成功したとは到底思われません。

 誠に残念なことですが、陸軍が一億玉砕の徹底抗戦から敗戦(無条件降伏)やむなしと考えるようになったのは、原爆とソ連参戦の後だったということです。今考えれば、何とバカな!と言うことになりますが、これも当時の軍が”死して悠久の大義に生きる”といったような死生観も持っていて、玉砕、特攻をよしとしていたことを思えば、これはありえないことではなかったのです。

>(米内は)とにかくおかしな人で、第二次上海事変のときも最初は自制をしていたが、それからは陸軍が渋るのを押し切って派兵を主張している。この変化はどのような判断だろうか。

tiku この件は前回述べた通りです。

>ミョウヒン工作が実現するようなら支那事変はとっくの昔にまとまっている。

tiku 繆斌工作の和平条件として鈴木氏が紹介している内容は確かに分かりにくいですね。より正確に言うと次のようなことだったのではないでしょうか。 

・満州処理問題については別に協定す
・日本は支那から完全に撤兵す
・重慶政府はとりあえず南京に留守府を設置し3ヶ月以内に南京に遷都す
・前項、留守府は重慶系の人物をもって組織す
・現南京政府の要人は日本政府において収容す
・日本は米英と和を構ず
(『葛山鴻爪』小磯国昭*一次資料は現在捜している所です。)

 こうした条件で、蒋介石が日本との講和を考えたその動機としては、
「満洲の争奪戦は明らかに中共側に歩があった。(その上)重慶側としては、何よりも先ずソ連の満洲侵入を防止しなければならなかった。華北においては、延安を中心とする中共軍に対する包囲作戦が完成されねばならなかった。この二つとも日本軍の協力なしには到底実現出来ない現状にあった。」ということでした。(『日本終戦史』中巻参照)

 繆斌は『満洲と華北はなかなか複雑です。重慶側からあべこべにに日本側にもう少しいて下さいとたのむようになりますよ』と言ったといいます。(上掲書参照)

 こう見てくると、蒋介石の繆斌工作とアメリカの「ダレス工作」とは相通ずるものがあったということになりますね(そういうことなら、蒋介石が繆斌を消す必要もなかった、ということになりますが・・・)。しかし、残念ながら、それは日本が降伏することを前提にしていましたから、軍部がそれを受け入れ、つまり敗北を認めて、支那から完全撤兵するなどということは現実問題としてはあり得ないことでした。

 このような日本の政治状況について繆斌は、この工作を仲介した日本側の朝日新聞特派員田村真作に対して次のようなことを言ったといいます。

 「日本の政治家は豚頭です。中国の民衆は、納得がいかないことは政府の言うことでもききません。日本の民衆はおとなし過ぎます。日本の指導者は、世界中で一番楽でしょう。日本の民衆は気の毒ですね。」(上掲書p46)さもありなん!というべきか。