鈴木明が伝える繆斌(ミョウヒン)工作の真相

2010年11月16日 (火)

*「山本七平学のすすめ」「談話室」より再掲

 日中戦争において日本が行った和平工作は、上海事変直前まで続けられた船津工作に始まり、トラウトマン和平工作、宇垣・孔祥熙工作、王兆名工作、桐工作(中国特務機関による謀略)、銭永銘工作(松岡外相発案)、その他、スチュアート工作(アメリカ仲介)、セイヤー工作(アメリカ仲介)、「蘭」工作、リッペントロップ工作、閻錫山工作(田中隆吉交渉)そして最後の繆斌(ミョウヒン)工作があります。

まさに日中戦争の初めから終わりまで和平工作ばかりしていた観がありますが、これは、それだけ日本にとって中国との戦争は”不本意だった”ということです。一方、中国も中国共産党に対する警戒心から、できれば日本との戦争はやめたかったわけですが、満州国承認問題や日本軍の支那本土からの撤兵問題、さらには王兆名政権の扱いなどがネックとなって、ついに実を結ぶことなく、アメリカにハルノート(中国からの完全撤兵、王兆名政権否認)を突きつけられるに及んで、対米英戦争を決意するに至るのです。

この対米英戦に突入後の唯一の対中和平工作が、日本の敗戦間際に行われた繆斌工作ですが、これについて、鈴木明氏は著書『新・南京大虐殺のまぼろし』で、その”ねらい”を次のように紹介しています。

この繆斌工作について、wikiでは次ぎのように説明しています。

「1945年(民国34年)3月、繆は重慶国民政府の密命を受けて訪日し、日本軍撤退などを条件とする全面和平交渉を小磯國昭内閣と行った。この交渉は、日本側では小磯國昭や国務大臣・情報局総裁緒方竹虎らが主導した。3月21日、小磯は繆斌を最高戦争指導会議に招致することを閣僚に提案している。しかし外務大臣重光葵、陸軍大臣杉山元、海軍大臣米内光政は、繆は「和平ブローカー」で蒋介石には繋がっていないなどと批判し、繆の招致に反対した。小磯はあくまで交渉の続行にこだわり、4月2日には昭和天皇拝謁に際して繆を引き留めることを進言した。しかしこれがかえって天皇の不興を買うことになる。結局繆は成果をあげることなく南京に引き返し、この騒動が主因となって小磯内閣は総辞職となった。
戦後南部圭助(頭山満の腹心)は、蒋介石に繆斌工作が蒋自身の指示で行なわれたことを直接確認したとしており、繆斌の長男である繆中も同工作が正式な和平工作であったことを証言している」

このとき「繆斌が日本に持っていった和平条件は”日本は偽満州国を取消し、全中国から日本軍を撤退させる。そのかわりに、日本は中国で経済上の優遇を受ける。汪・南京政府はただちにこれを取り消し、その間は別の仮政府を南京に作って、国民党政府がこれを接収する”というものでした。敗戦必至の情勢にあった日本首相の小磯、東久邇などはこの案で和平を成立させたい、といったが、軍部は絶対反対を唱え、繆斌はむなしく上海に帰ってきた。

戦争が終わったとき、上海での”漢奸粛正”は9月27日にはじまり、続々大物が捕まりました。繆斌は捕まることはなかったが、アメリカ軍が東京に進駐してきて、”佐藤事件”(佐藤は繆斌が日本に来たとき使った偽名)が一部の人びとの噂に上るようになると、蒋介石は、この中国の単独和平工作がマッカーサーの耳に入っては大変だ、ということで、ただちに繆斌を捕らえ(1946.4.3)最初の漢奸裁判にかけて処刑しました。(5.21)

では、この繆斌工作はなぜ行われたか――「ヤルタ協定」(1945.2.11)で連合国の戦後処理が決められた後に、なぜこのような中国単独の対日和平工作が行われたかということ――について、鈴木明氏は次のような仮説を提示しています。

ヤルタ協定はルーズベルトチャーチル、スターリン三人が連合軍の戦後処理について決めたものだが、この秘密協定の中に、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦、さらにソ連が旅順口を海軍基地として中ソ合同で使用すること、東支鉄道と南満州鉄道が「中国長春鉄道」の名の下に、三十年間は中ソの共同管理下に置かれることが決められていた。

蒋介石はこの秘密協定に関する情報を入手したが、これは蒋介石にとって対共産党政策からいって致命的なものであり、国家としても勝手に自国の主権が「米ソ」によって売買された、屈辱的なものであったろう。ここで蒋介石は、これを機会に日本と「名誉の単独講和」という手段を取ることが最上の策と考えたが、この場合「大物」を出して失敗したら「世界」に対して弁解も出来ず、そうかといって「小物」では日本から相手にされない・・・。
そこで、繆斌であれば汪政府の上級幹部でもあり、失敗してもどうということはない。つまり、繆斌は文字通り「日中間のゲームのピエロ」として、双方が利用し、利用されたのである、というのです。

国際政治の非情さ垣間見る思いが致しますが、それにしても、これだけ繰り返し和平工作を行いながら、ついに中国からの撤兵問題を自らの意志で決断することが出来ず、その責任追求から逃れるためか、さらなる強硬策を採り、次第に深みにはまっていった日本軍の姿を見ると、やはり”これは弁解の余地はないな”と思わざるを得ません。

また、鈴木明氏は、この本で、こうした日本軍が中国各地で傀儡政権を造り、自治政府という名目で対日協力者を作ってきたことが、戦後行われた中国の”漢奸裁判”において数多くの犠牲者を出したこと、このことの紹介に多くの項を割いています。

日中戦争による数百万に及ぶ戦死傷者の被害もさることながら、これら対日協力者が戦後の”漢奸裁判”において悲惨極まる犠牲を強いられたことについて、私たち日本人は一体どれだけ自覚的であるか、そんな深刻な疑問を抱かされたことでした。