尾崎行雄の「天皇三代目演説」について――戦後の三代目は一体どんな日本を創るのか

2011年5月26日 (木)

健介さんへ

 鴎外の世代論をご紹介いただきましたが、世代論で有名なのは、尾崎行雄の、昭和=「売家と唐様で書く三代目」論です。これを戦後に当てはめると、今二代目で、次いで戦後三代目になるわけですが、あるいは、この時代、戦前の昭和と同じような三代目にならないとも限りません。この尾崎の論を、山本七平が『裕仁天皇の昭和史』の中で紹介していますので、この機会に、その解説も交えて紹介しておきたいと思います。

 この言葉は、尾崎行雄が、昭和17年東条内閣当時の翼賛選挙における応援演説の中で使った言葉です。尾崎は、この時の翼賛選挙とそれに伴う政府の選挙干渉について、昭和時代が『売家と唐様で書く三代目』になっていないのは、明治天皇が明治憲法をお定めになり立憲政治の礎を築いてくれたからであって、翼賛政治は、この明治大帝が定めた立憲政治の大基を揺るがすものではないか、と政府を批判しました。

 政府(東条英機)は、これが不敬罪に当たるとして、尾崎行雄を刑事起訴しました。これは、尾崎行雄が、「東条首相に与えた公開状」の中で、翼賛会選挙を非立憲的動作といい、これは明治大帝が歴代の首相等を戒飭(かいちょく)した立憲の本義に背戻するのではないかと批判したことに対し、東条首相は、尾崎を危険人物として抹殺すべく、この「三代目」発言に”言いがかり”をつける形で起訴に及んだものだといいます。(下線部訂正6/1)

 明治憲法を「自由主義の憲法」と言い切ったところに、「憲政の神様」と称される尾崎の面目躍如たるものがありますね。

「尾崎行雄の天皇三代目演説」

 「明治天皇が即位の始めに立てられた五箇条の御誓文、御同様に日本人と生まれた以上は何人といえども御誓文は暗記していなければならぬはずであります。これが今日、明治以後の日本が大層よくなった原因であります。明治以前の日本は大層優れた天皇陛下がおっても、よい御政治はその一代だけで、その次に劣った天皇陛下が出れば、ばったり止められる。

 ところが、明治天皇がよかったために、明治天皇がお崩れになって、大正天皇となり、今上天皇となっても、国はますますよくなるばかりである。

 普通の言葉では、これも世界に通じた真理でありますが、『売家と唐様で書く三代目』と申しております。たいそう偉い人が出て、一代で身代を作りましても二代三代となると、もう、せっかく作った身代でも家も売らなければならぬ。しかしながら手習いだけはさすがに金持ちの息子でありますから、手習いだけはしたと見えて、立派な字で『売家と唐様で書く三代目』、実に天下の真理であります。

 たとえばドイツの国があれだけに偉かったのは、ちょうどこの間、廃帝になってお崩(かく)れになった人(ウィルヘルム二世、亡命先のオランダで一九四一年没)のお爺さん(ウィルヘルム一世)の時に、ドイツ帝国というものが出来たのである。三代目にはあのとおり。

 イタリアが今は大層よろしいけれども、今のイタリアの今上陛下(ビットリオ・エマヌエル三世)がやはりこの三代目ぐらいでありまするが、いまだ、皇帝の位にはお坐になって居られますけれども、イタリアに行ってみれば誰も皇帝を知らず、我がムッソリーニを拝んでおります。イタリアにはムッソリーニ一人あるばかりである。

 皇帝の名すら知らない者が大分ある。これが三代目だ。人ばかりではない。国でも三代目というものは、よほど剣呑なもので、悪くなるのが原則であります。

 しかるに日本は、三代目に至ってますますよくなった。何故であります。明治天皇陛下が『万機公論に決すべし』という五箇条の御誓文の第一に基づいた・・・掟をこしらえた。それを今の言葉で憲法と申しております。その憲法によって政治をするのが立憲政治である。立憲政治の大基を作るのが今日やがて行なわれる所の総選挙である……」

 (ところが今日、日本にはヒトラーやムッソリーニを賛美する者がいる。しかし)「(そのやり方を)一番立派にやったのが秦の始皇帝であった。儒者等を皆殺ししてしまったり、書物を焼いてしまった。ヒットラーが大分その真似をしている。反対する者はみな殺した。そして強い兵隊を作って六合(天下)を統一して秦という天下を作りました。ちっとも珍しくない。秦の始皇帝は、よほど立派に今のヒットラーやムッソリーニのやり方をしております」

 「その(始皇帝の)真似をヨーロッパの人がしているのである。本家本元は東洋にある事を知らないで、今の知識階級などといって知ったふりをしている者は、外国の真似をしようとして騒いでいる。驚き入った事である。

 官報をお読みになると分かりまするが、私が前の前の議会に質問書を出して、官報に載っております。天皇陛下がある以上は全体主義という名儀の下に、独裁政治に似通った政治を行なう事が出来ぬものであるぞと質問した。これに対して近衛総理大臣が変な答弁をしておりますけれども、まるで答弁にも何にもなっておりませぬ。

 秦の始皇、日本の天皇陛下が秦の始皇になれば、憲法を廃してああいう政治が出来る。しかしながら、もう日本の天皇陛下は、明治天皇の子孫、朕および朕が子孫はこれ(明治憲法)に永久に服従の義務を負うと明言している(憲法発布勅語のこと)以上は、どうしても、天皇陛下自ら秦の始皇を学ぶ事は出来ぬ。そうすると誰がしなければならぬか、誰が出ても、天皇陛下があり、憲法がある以上は、ヒットラーやムッソリーニの真似は出来ませぬ。このくらいの事は分かる。憲法を読めばすぐ分かります。

 憲法を読まぬで勝手な事を言う人があるのは、実に明治天皇畢生の御事業は、ほとんど天下に御了解せられずにいるように思いまするから、私どもは最後の御奉公として、この大義を明らかにして、日本がこれまで進歩発達したこの道を、ずっと進行せられたい……」

 この演説の中の「三代目発言」が不敬罪に当たるとして、先に述べた通り、尾崎は起訴されたわけですが、まあ、”言いがかり”もいいとこですね。幸い、大審院は健全であったようですが・・・。しかし、この裁判中、尾崎は発言をやめず、痛烈に政府を批判し、『憲政以外の大問題』を公表しました。

 これはまず「(イ)輔弼大臣の責任心の稀薄(むしろ欠乏)なる事、(ロ)当局者が、戦争の収結に関し、成案を有せざるように思われる事、否、その研究だも為さざるか如く見える事」にはじまる批判」です。

 「万一独伊が敗れて、英米に屈服した時は、我国は独力を以て支那および英米五、六億の人民を打倒撃滅し得るだろうか。真に君国を愛するものは、誠心誠意以てこの際に処する方策を講究しなければならぬ。無責任な放言壮語は、真誠な忠愛者の大禁物である。

 独伊は敗北の場合をも予想し、これに善処する道を求めているようだが、我国人は独伊の優勢の報に酔い、一切そんな事は、考えないらしい。これ予が君国のため、憂慮措く能わざる所以である」

 「我国人中には、独・伊・露などの独裁政治を新秩序と称して歓迎し、世論民意を尊重する所の多数政治を旧秩序と呼んで、これを廃棄せんとするが如き言行を為すものが多いようだが、彼らはこの両体制の実行方法と、その利害得失を考慮研究したのであろうか。いやしくも虚心坦懐に考慮すれば、両者の利害得失は、いかなる愚人といえども、分明にこれを判断し得べきはずだ」

 「国家非常の事変に際会して、独・伊・露は、新奇の名義と方法を以て、古来の独裁専制主義を実行し、一時奇効(思いもよらない功績)を奏しているように見ゆるが、この体制は、昔時と違い、文化大いに進歩した今日以後においては、決して平時に永続し得べき性質のものではない。平和回復後は、露国人はともかくも独伊人は多分その非を悟って、自由と権利の復活を図るに相違ない。彼らは個人を否認すれど、国家も世界も、個人あってはじめて存立するものである。

 自由も権利も保証せられざる個人の集団せる国家は、三、四百年前までは、全世界に存在した。それがいかなるものであったかは、歴史を繙けばすぐ分かるが、全世界を通して、事実的には『斬捨御免』『御手打御随意』の世の中であった。独・伊・露は、異なった名義の下に現在これを実行している。故に現代人のいわゆる新秩序新体制なるものは、数千年間、全世界各地に実行した所の旧秩序・旧体制に過ぎないのである」

 次は、尾崎行雄が、裁判所に対する上申書の中で述べた「三代目論」についての敷衍的解説です。これがまた、極めておもしろい。

対中国土下座状態の一代目

「明治の末年においては、朝廷はまだ御一代であらせられたが、世間は多くはすでに二代目になった。三条(実美)、岩倉、西郷、大久保、木戸らの時代は、すでに去って、西園寺(公望)、桂(太郎)、山本(権兵衛)らの時代となっている。これはひとり政界ばかりでなく、軍界、学界、実業界等、すべて同様である。故に予がいう所の二代目は、明治末より、大正の末年までの、およそ三十年間であって、三代目は昭和以後の事である。

 全国民が三代目になるころは、朝廷もまた、たまたま御三代目にならせ玉われた。しかし、予が該川柳(=「売家と唐様で書く三代目」)を引用したのを以て、不敬罪の要素となすのは、甚だしく無理である。それはさておき、時代の変遷によりて起これる国民的思想感情の変化を略記すれば、およそ左のとおりである。

(甲)第一代目ころの世態民情
この時代は、大体において、支那崇拝時代の末期であって、盛んに支那を模倣した。支那流に年号を設定し(一世二元のこと。日本はそれまでは甲子定期改元と不定期改元の併用であった。中国は、明朝以降一世一元になった)、かつ数々これを変更したるが如き、学問といえば、多くは四書五経を読習せしめたるが如き、各種の碑誌銘に難読の漢文を用いたるが如き、忠臣、義士、孝子、軍人、政治家の模範は、多くはこれを支那人中に求めたるが如き、その実例は枚挙に逞(いとま)ないほど多い。今日でも、年号令人名をば、支那古典中の文字より選択し、人の死去につきても、何らの必要もないのに、薨、卒、逝などに書き分けている。

 この時代には、新聞論説なども、ことごとく漢文崩しであって、古来支那人が慣用し来れる成語のほかは、使用すべからざるものの如く心得ていた。現に予が在社した報知新聞社の如きは、予らが書く所の言句が、正当の言葉、すなわち成語であるや否やを検定させるために、支那人を雇聘していた。以て支那崇拝の心情がいかに濃厚であったかを知るべきだろう」

 「予は、明治十八年に、はじめて上海に赴き、実際の支那と書中の支那とは、全く別物なることを知り得た。特に戦闘力の如きは、絶無と言ってもよいことを確信するに至った。故に予はこれと一戦して、彼が傲慢心を挫くと同時に、我が卑屈心を一掃するにあらずんば、彼我の関係を改善することの不可能なるを確信し、開戦論を主張した。

 しかし全国大多数の人々、特に知識階級は、いずれも漢文教育を受けたものであるから、予を視て、狂人と見倣した。しかるに明治二十七年に至って開戦してみたら、予が十年間主張したとおり、たやすく勝ち得た。しかし勝ってもなお不思議に思って予に質問する人が多かった。

 また一議に及ばず、三国干渉に屈従して、遼東半島を還付せるのみならず、露国が旅順に要塞を築き、満州に鉄道を布設しても、これを傍観していた。これらの事実を視ても、維新初代の国民が、いかに小心翼々であったかを察知することが出来よう」

(山本)明治初期の対中国土下座状態には、さまざまな記録がある。一例を挙げれば、清国の北洋艦隊が日本を”親善訪問”し、長崎に上陸した中国水兵がどのような暴行をしても、警察官は見て見ぬふりをしていたといわれる。土下座外交は何も戦後にはじまったことではないが、この卑屈が一転すると、その裏返しともいうべき、始末に負えない増長(上)慢になる。ここで尾崎行雄は第二世代に入る。

二代目―卑屈から一転して増長慢

(乙)第二代目ころの世態民情
明治二十七、八年の日清戦争後は、以前の卑屈心に引換え、驕慢心がにわかに増長し、前には師事したところの支那も、朝鮮も、眼中になく、その国民をヨボとかチアンコロなどと呼ぶようになった。また(東大の)七博士の如きは、露国を討伐して、これを満州より駆逐するはもちろんのこと、バイカル湖までの地域を割譲せしめ、かつ二十億円の償金を払わしむべしと主張し、世論はこれを喝采する状況となった。実に驚くべき大変化大増長である。

 古来識者が常に警戒した驕慢的精神状態は、すでに大いに進展した。前には、支那戦争を主張した所の予も、この増長慢をば大いに憂慮し、征露論に反対して、大いに世上の非難を受けた。伊藤博文公の如きも、これに反対したらしかったが、興奮した世論は、ついに時の内閣を駆って、開戦せしめた。

 しこうして個々の戦場においては、海陸ともに立派に勝利を得たが、やがて兵員と弾丸、その他戦具の不足を生じ、総参謀・児玉源太郎君の如きも、百計尽き、ただ毎朝早起きし太陽を拝んで、天佑を乞うの外なきに至った。

 僥倖にも露国の内肛(内紛)と、米国の仲裁とのため、平和談判を開くことを得たが、御前会議においては、償金も樺太も要求しないことに決定して、小村(寿太郎)外相を派遣したが、偶然の事態発生して、樺太の半分を獲得した。政府にとりては望外の成功であった。

 右などの事実は、これを絶対的秘密に付し来たったため、民間人士は、少しもこれを識らず、増長慢に耽って平和条約を感謝するの代わりに、かえってこれに不満を抱き、東都には、暴動が起こり、二、三の新聞社と、全市の警察署を焼打ちした。

 近今に至り、政府自ら戦具欠乏の一端を公けにしたが、日露戦争にあの結末を得だのは、天佑と称してよいほどの僥倖であった。不知の致す所とは言いながら、あの平和条約に対してすら、暴動を起こすほどの精神状態であったのだから、第二代目国民の聯慢心の増長も、すでに危険の程度に達したと見るべきであろう。

  右の精神状態は、ひとり軍事外交方面のみならず、各種の方面に生長し、ややもすれば国家を、成功後の危険に落とし入るべき傾向を生じた。

 前回の(第一次)世界戦争に参加したのも、また支那に対して、いわゆる二十一ヵ条の要求を為したのも、みなこの時代の行為である」

浮誇驕慢で大国難を招く三代目

「(丙)第三代目ころの世態民情
全国民は、右の如き精神状態を以て、昭和四、五年ころより、第三代目の時期に入ったのだから、世態民情は、いよいよ浮誇驕慢におもむき、あるいは暗殺団体の結成となり、あるいは共産主義者の激増となり、あるいは軍隊の暴動となり、軽挙盲動腫を接して起こり、いずれの方面においてか、国家の運命にも関すべき大爆発、すなわち、まかりまちがえば、川柳氏の謂えるが如く『売家と唐様で書』かねばならぬ運命にも到着すべき大事件を巻き起こさなければ、止みそうもない形勢を現出した。

 予はこの形勢を見て憂慮に耐えず、何とかしてこの大爆発を未然に防止したく思って、百方苦心したが、文化の進歩や交通機関の発達によりて世界が縮小し、その結果として、列国の利害関係が周密に連結せられたる今日においては、国家の大事は、列国とともに協定しなければ、真誠の安定を得ることは不可能と信じた。よりて列国の近状を視察すると同時に、その有力者とも会見し、世界人類の安寧慶福を保証するに足るべき方案を協議したく考えて、第四回目、欧米漫遊の旅程についた。

 しかるに米国滞在中、満州事件突発の電報に接して、愕然自失した。この時、予は思えらく『こは明白なる国際連盟条約違反の行為にして、加盟者五十余力国の反対を招くべき筋道の振舞である。日本一ヵ国の力を以て、五十余力国を敵に廻すほど危険な事はない』と。果たせるかな、その後開ける国際会議において、我国に賛成したものは、一ヵ国もなく、ただタイ国が、賛否いずれにも参加せず、棄権しただけであった。

 このころまでは、我国の国際的信用は、すこぶる篤く、われに対して、悪感を抱く国は、支那以外には絶無といってもよいほどの状況であって、名義さえ立てば、わが国を援けたく思っていた国は、多かったように見えたが、何分、国際連盟規約や不戦条約の明文上、日本に賛成するわけにいかなかったらしい。

 連盟には加入していない所の米国すら、不戦条約その他の関係より、わが満州事件に反対し、英国に協議したが、英政府はリットン委員(会)設置などの方法によって、平穏にこの事件を解決しようと考えていたため、米国に賛成しなかった。また米国は、国際連盟の主要国たる英国すら、条約擁護のために起たないのに、不加入国たる米国だけが、これを主張する必要もないと考えなおしたらしい。

 予は王政維新後の二代目三代目における世態民情の推移を見て、一方には、国運の隆昌を慶賀すると同時に、他方においては、浮誇驕慢に流れ、ついに大国難を招致するに至らんことを恐れた。故に昭和三年、すなわち維新後三代目の初期において、思想的、政治的、および経済的にわたる三大国難決議案を提出し、衆議院は、満場一致の勢いを以て、これを可決した。

 上述の如く、かねてより国難の到来せんことを憂慮していた予なれば、満州事件の突発とその経過を見ては、須臾(一瞬)も安処するあたわず、煩悶懊悩の末、ついに、天皇陛下に上奏することに決し、一文を草し宮相(内大臣)に密送して、乙夜の覧(天皇の書見)に供せられんことを懇請した。満州事件を視て、大国難の種子蒔と思いなせるがためである。

 ムッソリーニや、ヒトラーの如きも、武力行使を決意する前には、列国の憤起を怖れて、躊躇していたようだが、我が満州事件に対する列国の動静を視て安心し、ついに武力行使の決意を起こせるものの如く思われる。

 しかるに、支那事件起こり、英米と開戦するに至りても、世人はなお国家の前途を憂慮せず、局部局部の勝利に酔舞して、結末の付け方をば考えずに、今日に至った。しこうして生活の困難は、日にますます増加するばかりで、前途の見透しは誰にも付かない。どこで、どうして、英米、支を降参させる見込みかと問わるれば、何人もこれに確答することは出来ないのみならず、かえって微音ながら、ところどころに『国難来』の声を聞くようになった。

 全国民の大多数は、国難の種子は、満州に蒔かれ、その後幾多の軽挙盲動によりて、発育生長せしめられ、ついに今日に至れるものなることは、全く感知せざるものの如し。衆議院が満場一致で可決した三大国難決議案の如きも、今日は記憶する人すらないように見える。維新後三代目に当たるところの現代人は『売家と唐様で書く』ことの代わりに『国難とドイツ語で書いて』いるようだ……」

 以上、尾崎行雄は、明治憲法を自由主義憲法と言い、天皇がこの憲法を発布した故に日本は独裁にはならないと言い、翼賛政治はこの憲法の大基を犯している、つまり憲法違反だと批判したのです。近衛はこの憲法を「天皇親政を建前とする」と解釈しました。この差はどこから来たか。明治人は、「立憲政治を自ら創出した」という自信を持っていた。しかし、昭和の三代目は、明治人が苦労して、江戸時代の君主主権から明治の立憲制に国家体制を創り変えた、この明治人の残した「遺産」の”有り難み”が判らず、これを破壊・蕩尽してしまった。そういうことだと思います。

 こうした過去の経験を顧みる時、自らの力で憲法を創出したという自信を持たない戦後世代の二代目あるいは三代目が、果たしてどういう日本を創って行くのか、いささか不安に思わざるを得ません。ということは、今一度、明治に帰る必要があると言うことではないでしょうか。立憲政治の価値を再認識するためにも・・・。