田原総一朗氏「なぜ、日本は大東亜戦争を戦ったのか」の行方
私HP「山本七平学のすすめ」談話室より再掲
田原総一朗氏の標記の本について、ネットでは、”田原総一朗が転向した”というようなう意見が多く見られます。
「あの田原総一朗が「大東亜戦争肯定論」へ転向」http://virya.blog72.fc2.com/blog-entry-21.html
田原氏は、こうした自説をyoutubeやラジオ番組で語っています。言わずもがなではありますが、この中で、2.26事件で重傷を負った鈴木貫太郎を鈴木貞一などと非常識な言い間違いをしていますし、天皇が決起将校達に対して激怒したのは、昭和天皇の子供の頃の乳母が鈴木夫人だったから、などど”いいかげん”なことをいっています。(そんなの一つのエピソードに過ぎません)
戦前のアジア主義者が支那の近代化にかけた思いに注目することは大切なことです。また、北一輝が、青年将校たちと違って「純粋素朴な天皇親政」を信じていたわけではないこと。あくまで天皇を”使いよい玉”としていたこと。つまり、北は機関説論者だった、という事を今あえて言いたいのなら、、指摘すべきは、北は、皇道派の青年将校達を”使いやすい玉(この場合は弾?)”として利用しようとしていたのかもしれない、という”残酷物語”についてでしょう。
『VOICE』の件の論文の末尾の文章は次のようになっています。
「その北一輝がなぜ青年将校達にそのこと(天皇を使いよい玉として利用すること――筆者)を教授しなかったのか。なぜ高天原的存在で満足していたか。あるいは、二・二六事件は、北一輝にとって死に場所探しだったのであろうか。」
北の本音を、彼らに教授できるわけがないでしょう。北一輝の機関説論はむしろ統制派のそれと一致していたわけで、皇道派はそれとは仇敵関係にあったのです。事実、それゆえの二・二六事件であったはずです。
それにしても斉藤実、鈴木貫太郎、渡辺錠太郞、高橋是清、牧野伸顕、西園寺公望などか弱き老人を殺し、彼らにとっては仇敵であるはずの統制派の巣窟=参謀本部や陸軍大臣官邸は、占拠して「陸大臣に面接して事態収拾に付、善処方を要望する」という程度の隠微な処置に止めたのはなぜでしょうか。
まあ、「決起の趣旨に就いては天聴に達せられあり」の「陸軍大臣告示」に見るように、彼らも畢竟身内だし、決起には賛同してくれるはずだと、甘い瀬踏みをしていたのでしょう。で、もし彼らの賛同が得られたら、過去のことは水に流して仲良くやるつもりだったのでしょうか。となると、彼らのその不満の根源は一体何処?という疑念に駆られます。
この点、石原完爾も、模様眺めで、うまくいくようであればこれを利用し、軍主導の国家社会主義体制に持って行こうとしていたという疑い濃厚ですからね。このことは、事件後の広田内閣の組閣における彼らのやり口を見れば明白です。反省どころの話じゃないのです。この辺りの駆け引き、皇道派の皆さん一体どこまで読んでいたか。
おそらく、北一輝もそうした可能性に期待をかけていたのかも知れません。それが挫折してしまった、故の”若殿に兜とられて負け戦”なのです。おそらく、そこまで昭和天皇が断固たる意思表示をするとは北も思っていなかったのでしょう。だって、機関説論者にしてみれば、天皇がそんな断固たる意思表示をするこことは一種のルール違反ですから・・・。 そんな意外感がこの句に表れていると私は思います。ユーモア(田原氏の言)なんかじゃありません。一種あっけにとられた図なのです。まして、”死に場所探し”なんて西郷じゃあるまいし、「日米戦争は愚の愚」としたリアリスト北一輝ですぞ。もちろん、青年将校達にしてみれば、自分らの信じていたものとは真逆の大御心が示されたのですから、恨む外なかったのですが。
なお、”転向”云々は、本を見てからにしますが、アジア主義者と、その後の国家社会主義者そして尊皇思想の青年将校達との絡み合いが、うまく捉えられているかどうか。まさか、昭和天皇に対して、”青年将校の声にもっと耳を傾けるべきだった”などと言いたいのではないとは思いますが・・・。もしそうなら近衛と同じで、何を今更!ということになりますね。 |