日本の政府・統帥部首脳は松岡を除き「日米諒解案」を支持した。しかし、ヒトラーを賛美する時代の空気がそれを拒否した

2011年1月16日 (日)

健介さんへ

>>一方、アメリカはなぜ4月に一旦、日米了解案で妥協しようとしたのに、11月26日ハルノートを出すことになったのでしょうか。

>この日米了解案は野村大使が持ち込んだものでしょうがこれはアメリカの正式な提案ではなかった事を松岡が見抜いたとありましたが、これについてはいかがでしょうか

 この了解案ができた経緯ですが、昭和15年11月末、米人カトリック神父ドラウトから井川忠雄(産業組合中央金庫理事)に日米関係改善についての会見申込み(クーン・レープ商会のシュトラウスの紹介状持参)があり、井川は、r陸軍軍務局長武藤章等と協議の上会談に応じました。井川はその内容を近衛首相に逐一報告。ドラウトは日本側との話し合いで、日米交渉の可能性があると判断、帰国してルーズベルト大統領やハル国務長官と協議した結果、同意を得たので日本側にその旨報告しました。

 これを受けて、昭和16年2月11日、野村大使ワシントン着、井川も野村と前後して渡米、3月6日には陸軍軍事課長の岩畦豪雄も渡米。近衛、東条らは井川らの渡米に非常に好意的でしたが、外務省は冷淡かつ妨害的だったといいます。これは、松岡外相が、陸軍が外務省を出し抜いて日米交渉をやろうとしていると邪推したためだと言います。

 4月に入って、日米諒解案の起草がはじまり、日米双方当局の検討を経て(日本側は野村大使、若杉公使、磯田陸軍武官、横山海軍武官、井川、岩畦で検討)日米諒解案(第二案)がまとまりました。その結果、これを基礎として日米交渉が進められることになり、まず日本政府の訓令を得ることになりました。

 この日米諒解案のポイントですが、次の七つの項目に整理されています。(一部要約、抜粋)

一 日米両国の抱懐する国際観念並に国家観念について
米国が日本に民主主義への塗り替えを強要するようなことはせず、相互に両国固有の伝統に基く国家観念、及び社会的秩序、並びに国家生活の基礎たる道義的原則を保持することを認め、相互の利益は之を平和的方法により調節するとした。

二 欧洲戦争に対する両国政府の態度について
日本の三国同盟の目的は防衛的なものであって攻撃的なものではないこと。米国の欧洲戦争に対する態度は、一方の国(イギリス)を援助して他方(ドイツ)を攻撃するものではないこと。(それは「自衛権の発動」という考慮において決せられるとした)

三 支那事変に対する両国政府の関係について
米国大統領が左記条件を容認し、且つ日本政府がこれを保障したるときは、米国大統領は之に依り、蒋政権に対し平和の勧告を為すべし。
(イ)支那の独立
(ロ)日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退
(ハ)支那領土の非併合
(ニ)非賠償
(ホ)門戸開放方針の復活。但し之が解釈及び適用に関しては、将来適当の時期に日米両国間に於て、協議せらるべきものとす
(ヘ)蒋政権と汪政権との合流
(ト)支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制
(チ)満洲国の承認

 蒋政府に於て米国大統領の勧告に応じたるときは、日本国政府は、新に統一樹立せらるべき支那政府、又は該政府を構成すべき分子を相手として、直ちに直接に和平交渉を開始するものとす。

 日本国政府は、前記条件の範囲内に於て、且つ善隣友好、防共共同防衛、及び経済提携の原則に基き、具体的平和条件を直接支那側に提示すべし。

四 太平洋に於ける海軍兵力及び航空兵力並びに海運関係について
日米両国は、太平洋の平和を維持せんことを欲するを以て、相互に他方を脅威するが如き海軍兵力及び航空兵力の配備はしない等。

五 両国間の通商及び金融提携について
今次の諒解成立し、両国政府之を承諾したるときは、日米両国は各その必要とする物質を相手国が有する場合、相手国より之が確保を保証せらるるものとす。又両国政府は、嘗て日米通商条約有効期間中存在したるが如き、正当の通商関係への復帰のため、適当なる方法を講ずるものとす。

 両国間の経済提携促進のため、米国は日本に対し、東亜に於ける経済状態の改善を目的とする商工業の発達及び日米経済提携を、実現するに足る金クレディットを供給するものとす。

六 南西太平洋方面に於ける両国の経済的活動について
日本の南西太平洋方面における発展は、武力に訴うることなく、平和的手段によるものなることの保証せられたるに鑑み、日本の欲する同方面における資源、例えば石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産及び獲得に関し、米国側の協力及び支持を得るものとす。

七 太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針について
(イ)日米両国政府は、欧洲諸国が将来東亜及び南西太平洋に於て、領土の割譲を受け又は現在国家の併合等を為すことを、容認せざるべし。
(ロ)日米両国政府は、比島の独立を共同に保障し、之が挑戦なくして第三国の攻撃を受くる場合の救援方法につき、考慮するものとす。
(ハ)米国及び南西太平洋に対する日本移民は、友好的に考慮せられ、他国民と同等無差別の待遇を与えらるべし

日米会談について
(イ)日米両国代表者間の会談は、ホノルルに於て開催せらるべく、合衆国を代表してルーズヴェルト大統領、日本を代衣して近衛首相により開会せらるべし。代表者数は各国五名以内とす。尤も専門家、書記等は之を含まず。
(ロ)本会談には、第三国オブザーヴァーを入れざるものとす。
(ハ)本会談は、両国間に今次諒解成立後、成るべく速かに開催せらるべきものとす(本年五月)
(ニ)本会談に於いては、今次諒解の各項を再議せず、両国政府に於いて予め取り決めたる議題に関する協議、及び今次諒解の成文化に努めるものとす。具体的議題は両国政府間に協定せらるるものとす。

 この諒解案の要点は、日本は、三国同盟における参戦義務を実質的に骨抜きにする。米国は(イ)から(チ)の条件で中国に和平を勧告する。米国は日本が必要とする物資の確保を保障し、日米通商条約を回復する。米国は、南太平洋における日本の石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産及び確保に協力する。日米両国は将来東亜及び南西太平洋における領土の割譲・併合を容認しない。米国及び南西太平洋に対する日本移民は差別しない、というものです。

 これは、従来、日本の軍部や近衛が、「持たざる国」の論理を日本の満州事変や東南アジア進出の正当化に使っていたことに対応したものだということができます。つまり、米国は満州国を承認する。その代わり、日本軍は無賠償・非併合で支那領土から撤退する。また、日本の人口問題や資源問題に対応するため、日本が平和的に東南アジアに進出する際の資源の確保にアメリカは協力する。また、移民についても他国民との差別扱いはしないなど。

 では、この諒解案に対して日本側はどのような反応を示したでしょうか。 

 「大橋(外務次官)は、前夜からその朝にかけて野村大使から電報が入って来たこと、尚暗号解読中だが、世界の迎命を左右する様なものだと、狼狽した喜び様であった。大橋は午後四時半に電報の解読を待って、寺崎アメリカ局長を伴って再び近衛を訪れた。

 近衛首相は、問題の重要性に鑑み、即夜八時から政府統帥部連絡会議を招集した。政府から近衛首相、平沼内相、東条陸相、及川海相、大橋外務次官、統帥部から杉山参謀総長、永野軍令部総長が出席し、武藤、岡の両軍務局長、富田書記官長も加わって、米国からの提案を協議した。近衛手記によると、次の様な意向が表明された。

一、この案を受諾することは、支那事変処理の最捷径である。即ち汪政権樹立の成果挙らず、重慶との直接交渉も非常に困難であり、今日の重慶は全然米国依存である故、米国を中に入れねば何ともならぬからである。

二、この提案に応じ日米の接近を図ることは、日米戦回避の絶好の機会であるのみならず。欧洲戦争が世界戦争にまで拡大することを防止し、世界平和を招来する前提になろう。

三、今日わが国力は相当消耗しているから、一日も速かに事変を解消して、国力の恢復培養を図らねばならぬ。一部に主張されている南進論の如き、今は統帥部でも準備も自信もないという位だから、矢張り国力培養の上からも一時米国と握手し、物資等の充実を将来のため図る必要がある。

 というので、大体受諾すべしという論に傾いた。ただその条件として、ドイツに対する信義から、三国同盟と抵触しないことを明瞭にする要があるとか、若し日米諒解の結果、米国は太平洋から手が抜けるので、対英援助を一層強化することになると、日本としてはドイツに対する信義に反するし、全体の構想が低調になって面白くないから、日米協同して世界平和に貢献するという趣旨を、もっとハッキリさせ、英独間の調停まで持って行きたいとか、内容が少し煩雑に過ぎるとか、旧秩序に復帰する様な感じを与えるから、新秩序建設という積極面をもっとハッキリ出したいとか、迅速に事を運ぶため、外相の帰国を督促する要があるとか、種々の意見が出た。又この事をドイツに通報すべきや否やについても、信義の上から通報に賛成の説と、諒解成立を切望する見地から、内密にしようという説とがあった。

 要するに種々意見はあったが、皆が交渉に賛成であった。東条陸相も武藤軍務局長も喜んではしゃいでいた。陸海軍とも「飛び付いた」というのが真情であった。そこで直ぐにも、「主義上賛成」の返電を出せという議があったが、大橋次官は、もう二、三日で帰国する松岡外相の意見を聞いてからにすべきだというので、近衛もそれに同意した。それなら一日も早く、松岡に帰国を促そうということになり、満洲里宛てで、首相が至急通話したい旨を松岡に伝えた。」(『近衛文麿』矢部貞治p546)

 これを見ると、近衛を初めとする政府首脳(松岡は独ソ訪問から帰途中で不在)、それに陸海の省部並びに統帥部の首脳は一致して、この諒解案を歓迎したことが判ります。ということは、彼等には米英と戦争してでも東亜新秩序を作り上げてようとする決意はなかった、ということになります。とりわけ近衛首相にとっては、この諒解案は、自ら過誤を犯したと認める日中戦争の終結を可能にし、また、中国や蘭印等からの必要資源の調達や移民の自由も保障されるのですから、氏の持論である「持たざる国」論が認められたことにもなり、大歓迎であったわけです。

 そもそも、近衛首相が三国同盟を結んだのは、ソ連も加えてそれを四国同盟とし、その圧力で対米英戦争を抑止あすることを目的としたものでした。その約束が、独ソ開戦によって反古にされたのですから、諒解案において、アメリカが欧州戦争に参戦した場合の日本の参戦義務が骨抜きにされてもかまわないわけです。また軍も、昭和15年3月30日の支那事変処理に関する参謀本部提案になる陸海省部最高首脳会議において、昭和15年中に支那事変が解決されなかった場合、昭和16年初頭から逐次撤兵を開始することを決定したほど、支那事変を持て余していました。(『大本営機密日誌』p32)

 こうした判断に対して、これは米国が対独作戦を進める上での二正面作戦を避けるための時間稼ぎであり、これを受け入れることは米国への屈服を意味するという味方もありました(大島浩駐独大使)。確かに、この頃、日本が三国同盟を結んだことや仏印に進駐したことで日米間に緊張が高まっていました。しかし、実情は、米国人は極東のことには関心が薄く、欧州に重点を置いていて、「戦争を支持する者もしない者も、眼中に置いていたのはヒットラーであって日本ではなく」、対日強硬論の多くは経済制裁程度しか考えていなかったのです。

 また、1941年8月に行われた「大西洋会談」でも、チャーチルが日本の南進に対応して米国の軍事介入を要請したのに対し、ルーズベルトは確約を与えませんでした。また、会談直後に発表された大西洋憲章は、次のように国際社会における政治経済的な原則を列挙して、枢軸国の追求する世界像に代わりうる、理想的な国際社会の構造を提示していたのです。つまり、米国は、世界恐慌から立ち直る過程で、もう一度、ワシントン体制に代わるような国際主義原則に戻って、アジアと太平洋における経済発達を図ろうとしていたのです。

 そのため、この憲章では、「全ての国による経済的提携」がうたわれ、世界のすべての人びとは恐怖感や欠乏感から解放されることこそ、平和への道だ」と説き、すべての国は世界のあらゆる地域における市場や資源の恩恵に、「平等な条件の下で」浴すべきだと宣言していました。その上、そこには、あらゆる人びとは地球のいたるところに渡航する権利を有する、というような、日本がパリ講和会議当時に提案した「人種平等宣言」を思わせるような項目まで含まれていたのでした。(『日米戦争』入江昭p46)

 では、これが本当なら、どうして11月16日の「ハルノート」が出されるようなことになったのでしょうか。だって、この諒解案に執拗に反対し、独ソ開戦後も三国同盟を堅持しようとしたした松岡外相は近衛により解任されたわけですし、近衛はルーズベルトとのトップ会談によって日本に対する米国の誤解を解くことができると信じていたからです。近衛は陸軍が拒んでいる撤兵についても、それで日米妥協が図れるとなったら、電報で木戸にそのことを知らせ、陛下に撤兵の「聖断」を出してもらう。それをやれば「殺されるに決まっている」が「生命のことは考えない」と言い切っていたのです。

 これだけ近衛が腹を決めていたにも拘わらず、なぜアメリカは日本を信じなかったか。結局、アメリカは、日本軍において枢軸を支持する勢力は強力であり、たとえ天皇の支持があったとしても近衛はこれを抑えることはできない。そのことは、諒解案以降の交渉過程で確認された、としていたのです。つまり、日本が三国同盟を堅持し独伊と共に世界新秩序建設に邁進する方向を選択することを断念させるためには、力による対決しかない。そうした強硬姿勢を姿勢を取ることによってしか、日本に方針転換させることはできないと考えたのです。

 つまり、撤兵問題とは、日本があくまで枢軸側に立って世界新秩序建設に向かうか、それとも、大西洋憲章に述べられたような、米英中心の新たな国際協調主義に戻るかの二者択一を迫る「踏み絵」だったのです。従って、日本に支那からの撤兵を求めるということは、力で日本に後者の側に立つことを求めるものであり、日本がこれを拒否すれが、それは日本はあくまでヒトラーと共に世界新秩序建設に向かうことを意味したのでした。つまり、そのことを瀬踏みするためにこそ、日本に諒解案がぶつけられたのでした。

 つまり、日本がこの諒解案を拒否した段階で、日本に後者の選択をさせるためには、力による強制しかないことが明らかになったのです。だって、日本の名誉ある撤兵は、アメリカが中国に日本との和平を勧告することによってしか実現できませんから。それを日本が拒否したということは、アメリカ仲介による名誉ある撤兵はしないということ。それは日本は中国が降伏するまで戦争を続けるということ。しかし、中国はアメリカが支援する限り降伏しない。結局、日本はアメリカとの戦争を決意せざるを得ない・・・。

 こう考えれば、アメリカが、たとえ天皇が近衛を支援したとしても、軍のこうした行動を抑えることはできないと判断したのも当然、ということになります。つまり、日米諒解案こそ、日本が枢軸側に立つか米英側に立つかを判断する試金石だったのです。そして、日本の政府や軍の首脳は一致してそれを受け入れようとした。しかし、松岡の妨害に会って逡巡する間、独ソ開戦後のヒトラーの快進撃に便乗する下僚軍人・官僚、マスコミの強硬姿勢に引きずられ、ついにハルノートという「踏み絵」を突きつけられることになった・・・。

 なお、日米諒解案は「アメリカの正式な提案ではなかった事を松岡が見抜いた」と言うご意見について。この諒解案には、ルーズベルト大統領と近衛首相の会談が予定されていて、そこでは「今次諒解の各項を再議せず、両国政府に於いて予め取り決めたる議題に関する協議、及び今次諒解の成文化に努めるものとす」と明記されていました。従って、これをアメリカの正式提案でなかったと言うことはできません。ただ、この諒解案が、日本に、米英中心の新たな国際協調主義に立つことを求めていたことは明らかで、これを枢軸側から見れば、これがアメリカの謀略に見えたのは当然です。

 結局、日本は、本音では松岡を除く政府、統帥部の首脳部がほぼ一致してこの諒解案受諾に賛成しながら、その時代のヒトラー崇拝の空気に支配され、結局、枢軸側の武力による世界新秩序建設の道を選択することになったのですね。それが、今回の、「日米戦争を欲したのは誰か?」という疑問に対する私の答です。この決定をした日本における独裁者は、東条でもなく、もちろん近衛でもなく、その時代の「空気」だった、と言うことになりますね。山本七平の『空気の研究』が名著たる所以です。