満州事変は日本が、日中戦争は中国が欲した。では日米戦争は誰が・・・?

2011年1月11日 (火)

健介さんへ

>満州事変は日本が、支那事変は支那が欲(ほっ)した。そして対米戦争は?でしょう。

tiku ハルノートは実質的な最後通牒ですから、日米戦争を欲したのはアメリカということになります。これに対して日本側は、日米了解案――中国側が満州国を承認し、蒋介石と王兆銘の政府を合体させ、日本軍は協定に基づいて撤兵し、非併合、非賠償の条件の和平を結ぶことを米大統領が蒋介石に勧告するというもの〈昭和16年4月16日〉――がまとまった時点ではっきりしたように、政府、陸海軍、統帥部の上層部はいずれも、この案に全員賛成で、まさに「飛びついた」というのが実情でした。ここまで見れば、戦争を欲したのはアメリカだった!ということになります。

 ところが、その後の交渉経過を見ると、この了解案に松岡外相がつむじを曲げて賛成せず、これを「ぶち壊す」が如き強硬案に修正し5月11日アメリカにぶつけた。こうする間、この了解案の内容がドイツなどから漏れ、これに対して陸海軍の中堅以下の将校たちが猛烈に反対するようになりました。なぜか?実はこの頃は「支那事変を聖戦と呼び、暴支膺懲を東洋平和のために必要だといい、数々の軍国美談をつくり、何十万の犠牲を払ってきて、急に対米協調のためにシナから撤兵するといっても、軍だけでなく、国民全体が収まらない状態ができていた」からです。(『重光・東郷とその時代』p355)

 このため、春には日米了解案を歓迎していた東条が、11月中旬対米交渉のため急派された来栖三郎大使に対し、「撤兵の問題だけはこれ以上譲歩できない。もし、あえて譲歩すれば、自分は靖国神社の方に向いて寝られない」などと言うようになり、海軍も、日米交渉の土壇場になっても、総理一任といい、本心では戦争回避なのに自ら戦争反対といえないような状況が生まれたのです。井上成美はこうした状況の変化について、「省部の下僚は・・・対米戦を突然の宿命の如き観念に支配され・・・省部首脳までがこれを制御する勇気も才覚もなく、一歩一歩危機を作成せり」といっています。(『重光・東郷とその時代』p356)

 一方、アメリカはなぜ4月に一旦、日米了解案で妥協しようとしたのに、11月26日ハルノートを出すことになったのでしょうか。その解釈は、上述した通り、アメリカは松岡の「ぶち壊し」の交渉態度や、その後の軍の強硬路線への復帰を見て、また日本政府がそれを制御できないことを見て、戦争は不可避であると判断した。また、アメリカの世論を欧州戦争(イギリス側に立ってドイツと戦う戦争)に導くため、ドイツと同盟を結ぶ日本との戦争を挑発した。あるいは、ハルノートを起案したホワイト財務次官がソ連のスパイであり、国際共産主義運動の一環として日米間の戦争を謀略的に挑発した等々。

 これらは、それぞれ一半の真理を含んでいると思いますが、重要なことは、こうした国際政治的環境の下で、日本がこれらの問題についてどのように主体的に判断し問題解決しようとしたか、ということだと思います。了解案以降のことについて言えば、松岡のようなお粗末な人間が外務大臣だったということ。この人事を周囲の忠告を無視して行った近衛の責任は重大です。もう一つは、省部及び統帥部における陸海軍の首脳が、下僚の強硬意見や国民世論に引きずられて責任ある決断をなし得なかったということ。

 つまり、その頃は、日米の国力差をまるで無視した「聖戦」思想に基づく宿命論的日米戦争論が軍内及び世間に風靡し、そうした空気には誰も逆らえなくなっていた、ということなのです。これがナチ的国家社会主義への共鳴現象をもたらし、また、もともと日独伊三国同盟はソ連も加えて米国のアジア及びヨーロッパの戦争への参戦を抑止するはずのものだった?のに、独ソ開戦によってそれが画餅に帰した後も、なおドイツ勝利を妄信する態度を生んだのです。さらにこれが、南部仏印進駐という、タイ、シンガポール、蘭印など英米蘭権益地帯への侵攻を意味する政策を執らせることにもなりました。

 以上を総合的に勘案して、日米戦争は誰が欲したか、ということですが、それは主体的な観点から言うなら、この時代の「漠然たる、強硬を是とし、軟弱を否とする傾向であり、その背後にあったのは空想的と言っても良い拡張主義、世界再分割思想」を是とした」軍人・政治家及びそれを支持した日本人、ということになると思います。それを陸海軍首脳も制御し得ず「一か八かの戦争」に訴えることになってしまった。ここでも山本七平の言う「空気支配」(その場の空気に支配されて本当に考えていることが言えなくなること)が決定的な役割を演じたのです。

 こうした軍内の「下剋上」的風潮と、それに拘束され身動きのとれなくなった日本の政治的リーダーシップに対する不信が、次第にアメリカをして戦争不可避論へと導いた。さらに、日本がナチスの快進撃に幻惑され、「バスに乗り遅れるな」とばかり、南部仏印に進駐して東南アジアの資源地帯を制圧する姿勢を見せたことが、アメリカの対日不信を決定的なものにし戦争を決意させることになった。それに、国際共産主義運動に関わる勢力が謀略的にハルノートを発出させ日本を挑発した・・・そんなところではないかと思います。(1/12下線部挿入)

>それは日米は戦う運命であったという認識でしょう。ルーズベルトがといいますが、アメリカは選挙で変わりますから、この要素に対する外交的配慮がまったく無い事は不思議です。

tiku この件で興味深いエピソードを紹介しておきます。
一九八四年の夏頃、岡崎久彦氏が牛場信彦氏を訪問したとき、「お前か?真珠湾を攻撃しなければ、硫黄島で戦争が終わっていただろう、といったのは?」と訊かれた。氏は、「最近になって遂に思い至ったこととして、ベトナムでテト攻勢があったり、レバノンで二、三百名のアメリカ兵が死んだりすると、さっさと引き揚げてしまうアメリカであるから、もし日米戦争が、真珠湾でない形で(奇襲でなく、開戦に至る文書を公開しての正々堂々たる宣戦布告の形などで)始まっていたならば、硫黄島でもう休戦交渉に入っていただろうと思う」といった。これを聞いて、牛場大使は、今までに見たこともないような沈痛な表情をされて「そうだったか!」と悔しそうに膝を打たれた、というのです。(『日米開戦の悲劇』ハミルトン・フィッシュ、「まえがき」)

 まあ、後知恵だとは思いますが・・・。当時、それだけの政治的知恵があれば大したものでしたが・・・。この日本人のこのカッとなる性格、これはなかなか直らないでしょうね。岡崎氏にしても気がついたのは敗戦から30年後のことだったのですから。といっても、本来、海軍が想定し訓練を重ねていた対米戦闘方法は、西太平洋で米海軍を迎え撃つ邀撃作戦で、真珠湾奇襲作戦は山本五十六が強硬に主張して採用させたものです。この作戦は山本の「ばくち好き」を反映していたのでは、などど言われていますが・・・。

 つまり、国力に圧倒的な差があることは判っていたわけですから、列強の植民地主義やブロック経済を非難しつつ、日本は資源確保、のためと称して、徹底的な防衛的戦争を行うべきだった。そうすれば自存自衛という戦争目的に合した戦い方ができたはずです。といっても、これもまた後知恵で、そもそも満州問題の解決について防衛的に対処できなかったことが、事の始まりですからね。口ではそういいつつ、日中戦争でも防衛戦に徹しきれず、中国の主要都市の大半を占領する結果になったわけですから。そうした思考法が敗戦を招いたということですね。(1/12下線部追記)

>近衛氏の思想は思想といいうるものでは無いと思いますが、これは明治以降の西洋文明と苦闘した漱石鴎外の苦闘と同じ質の政治的思想的経済的苦闘が大正以降の現象で、其のひとつとして昭和の動乱を見るという見方ももっていますが、これは手に負えない問題です。西洋思想の影響を受けた日本人の精神の変容を知る必要があります。おそらく昭和前期の政府が二重政府であったように、各人の頭のなかが二重になっており、其の行動も二重になっているという事でしょう。しかもそれを自覚していない。其の上それは外国から見ると昭和の日本の外交がさっぱりわからないように、その人以外から見ると同じように見えるということでしょう。

tiku 近衛文麿の思想は次回詳しく検討したいと思います。彼の思想が最もよく当時の日本人の思想を代表していると思いますので。

 また、「明治以降の西洋文明と苦闘した漱石鴎外の苦闘と同じ質の政治的思想的経済的苦闘が大正以降の現象」として昭和の政治に表面化した、というのはその通りですね。この問題に思想的な決着をつけられなかったこと。それが、昭和初期の政治的経済的混乱期の革新思想として、明治維新期の尊皇思想(一君万民・天皇親政という家族主義的国家観に基づく政治思想)を呼び覚ますことになったのです。明治はこの思想を西郷と共に地下に埋め、見ぬふりをして近代化を進めてきたわけですが、この思想が昭和になって不死鳥のように復活し、明治の近代化思想とそれに基づき組み立てられた政治機構を破壊することになったのです。自らはそれを「近代の超克」と自負していたわけですが・・・。(1/1212:30最終校正)