統帥権が悪いのではなく、統帥権を悪用して政権奪取を図った軍部が自縄自縛に陥ったということ(2)

2010年12月23日 (木)

(前便より続く)

 こうして、「関東軍の推進する軍の北支工作は、政府の外交方針とは全然無関係に、且つこれを無視して、秘密の間に遂行せられ、外交当局も政府も、その実相を窺い知ることは出来」ませんでした。

 「外務省の立てた前記の大局的外交方針には、軍中央部においては、表面これに賛成しながらも、その実行については、中央においても出先き軍機関においても、猛烈に反抗した。外務省が、政府において予て決定されていた所に従って、支那公使を大使に昇格して、その地位を強化して、新しい政策を強力に遂行せんとした試みに対して、軍部は、外務省がこの際更めて大使昇格を陸軍省に協議しなかったことを、脅迫をもって抗議し、外務当局に対し激しく反感を表示した。

 軍部は、すでに満洲問題は勿論、支那問題そのものを、外務省の手より引き離して、軍部の手によって処理する底意を持っていたのである。これがため軍部は北支工作は勿論、支那に関する問題は、外務省その他より掣肘を受くべきものでないとして、軍部限りにて大胆に処置し、政府自身もこれを制することを敢えてしなかった。

 在支陸軍武官磯谷少将は、しばしば日本の名において声明を発表して、列国の支那における態度を誹膀し、日本軍部の支那問題処理の決意を表明し、支那政府を罵倒し、鋭く夷国を攻撃して、政府の外交方針とは正反対の立場を取り、軍中央部またこれに呼応したため、支那及び列強の世論を沸騰せしめた。日本の実権者としての軍部の態度は、当時内外より重要視されていたので、事態は益々悪化し、政府の外交政策の統制は、愈々失われて行った。

 この軍の態度は、北支工作の進行とともに、共産党の絶好の宣伝材料となり、せっかく好転し来たった空気を混濁せしめ、満洲問題を外交的に収拾せんとする試みは、事毎に破壊された。当時、中国共産党の勢力は、蒋介石の討伐に遭って、後退を余儀なくされていたが、日本軍部の支那本土における工作に関連し、国際共産勢力か反日風潮を利用した攪乱策動は、最も有効に且つ隠密に行われておった。

 ソ連の参加後、共産分子の多くなった国際連盟は、衛生部長ライシマン(ポーランド・ユダヤ人、共産党員)を、当時日本攻撃の有力な材料であった阿片問題調査を名として、支那に派遣した。彼は、遂に支那政府の顧問となり、最も効果的に、支那政府の内部より共産党のために働いていた。ソルゲ諜報団もまた久しく支那、日本にわたって活動していた。

 コミンテルンは、世界的組織をもって日支の紛争を国際的に拡大すべく、全力を挙げていたのであった。欧米諸国におけるソ連第五列の政治上の力が、十二分に利用されたことは云うを俟たぬ。かくして、米国の対日態度は、スティムソン主義の下に、益々硬化して、理想的門戸開放政策の実行を強硬に日本に迫って、些細なことにまで、抗議と反対とを繰り返し、日本軍部を刺戟し、ついに日本当局の実現せんとした、満洲事変解決の方策を結実し能わざらしめた。

 若し、米英が日本の平和主義者の考案を是認し、日本が東亜における安定勢力たることを承認し、政治的活眼を以て支那を中心とする東亜の政局を、一応安定せしめる方針に出でていたならば、世界の情勢は、おそらく今日の如く危険なものとはならなかったであろう。」(『昭和の動乱』p104~105)

 こうして蒋介石は、日本の政治が「二重政府」状態に陥り、対支政策が軍部に主導される現実を見て、また、国内における抗日世論の激発に押される形で、安内攘外の「剿共」路線から、抗日全面戦争へと舵を切ることになったのです。こうした日本の「二重政府」状態は、二・二六事件以降も、確かに健介さんが言われるように、政府も議会も残ったのですが、日中戦争が始まってからは戦時体制に突入したこともあって、日本の政治はただ軍の決定を「翼賛」するだけのものになったのです。

 こうした状態に陥ったそのはじまりが、統帥権をテコにした「二重政府」の創出であったわけで、そして、そうした状態を、当時の政治家が党利党略で招いたのですから、昭和の悲劇の原因を、全て軍人に負わせるわけには行きません。といっても、その元凶ともいうべき政治家は、実は犬養毅でも鳩山一郎でもなく、特に前者は、森恪の要請で統帥権問題で政府批判演説は行ったものの、実際は、極力、森恪の暴走を抑制しようとしていたのです。そのため犬養は五・一五事件で暗殺されてしまいました。

 蒋介石は、中国が列強の圧力に耐えて生き残り、近代化を果たすためには、国家統一によって軍と予算を政府の下に一元化することがどれだけ重要であるか、このことを学ぶためには、日本の明治維新を御手本とするとよい、といい、次のように部下将兵たちを諭しています。

「開会にあたって私は、日本の維新史の中から、長州、薩摩、土佐、肥前の四雄藩が当時自ら処した道、彼らの軍制改革の経過と彼らの改革精神を詳しく述べて、われわれ軍事同志の参考としたい。

 日本はわが中国にたいし侵略政策を実行している。われわれは日本のことを話すたびに憤慨にたえない。特に済南惨案(済南事変)発生後は国をあげて日本を仇敵としている。しかし、いたずらに憤慨するだけでは、何にもならない。

 われわれは日本がなぜ中国を侵略することができるかを知らねばならない。・・・その理由は、日本が維新の初めに健全で穏固な統一政府を組織し、現代的な国家の完成に努力したからである。

 現代的な国家を作るには、どのような条件が必要であろうか?それは一に『統一』であり、二に『集中』である。徳川幕府の末期、長州、薩摩、土佐、肥前の諸藩の中堅は連合軍を組織して、悪戦苦闘の末、ついに幕府を倒した。これはわれわれ各集団軍が一致協力して極悪な北洋派を打倒したことに、すこぶるよく似ている。

 討幕成功の後、日本の歴史の先例では、薩長の二藩が徳川氏に代って興隆すべきところだったが、長州、薩摩らは決然として大政を朝廷に捧げた。

 全国の統一が成っても、日本の朝廷には一人の兵もなかった。各藩の兵はみな藩主と君臣の関係で結ばれていた。このとき維新の諸傑は困難を恐れず、藩兵をすべて国軍に改編した。彼等は各藩の兵力を制限し、天皇の護衛に親兵(近衛兵)を置いた。さらに彼等は藩ごとの境界をとり除いて、混合、改編し、鎮台を分設、集中訓練を施した。こうして国軍の基礎は確立し、全国の統一は成った。

 日本の軍人は六十年前に封建制度を打破したが、中国の軍人は逆に封建思想に固執して、私兵をふやし、地盤を拡張しようとしている。一省を獲得するとさらに数省に割拠しようとし、数省を手に入れると、武力で国内を統一し、中央を掌握しようとした。

 これは北洋軍閥の老祖袁世凱を先例とし、段祺瑞、呉佩孚が衣鉢を受けてやって来たことである。彼等の大事な仕事は、政変のたびに地盤の分配に心を労することであった。中華民国を私有財産として分割したのである。

 日本の薩摩、長州その他は、討幕の功に居据わることなく、祖先伝来の土地を朝廷に奉還した。われわれは日本を見習わねばならない」(『人われを漢奸と呼ぶ』p172~173)

 あーあ!この明治維新が「私」を棄てて成し遂げた国家統一を、昭和の政治家と軍人たちは壊してしまった。このことの責任を、東條英機も、極東軍事裁判における統帥権乱用の訴因に反論して、それは自分たちの責任ではなく、大日本帝国憲法の統帥権の規定によって、政府の権限が国務と統帥に分立していたためだといい、次のようにその責任を転嫁しています。

 「第三の点、即ち統帥部の独立について陳述いたします。旧憲法に於ては国防用兵即ち統帥のことは憲法上の国務の内には包含せらるることなく、国務の範囲外に独立して存在し、国務の干渉を排撃することを通念として居りました。このことは現在では他国にその例を見ざる日本独特の制度であります。

 従って軍事、統帥行為に関するものに対しては政府としては之を抑制し又は指導する力は持だなかったのであります。唯、単に連絡会議、御前会議等の手段に依り之との調整を図るに過ぎませんでした。而も其の調整たるや戦争の指導の本体たる作戦用兵には触れることは許されなかったのであります。その結果一度、作戦の開始せらるるや、作戦の進行は往々統帥機関の一方的意思に依って遂行せられ、之に関係を有する国務としてはその要求を充足し又は之に追随して進む柳なき状態を呈したことも少しと致しません。

 然るに近代戦争に於ては此の制度の制定当時とは異なり国家は総力戦体制をもって運営せらるるを要するに至りたる関係上斯る統帥行為は直接間接に重要なる関係を国務に及ぼすに至りました。又統帥行為が微妙なる影響を国政上に及ぼすに至りたるに拘らず、而も日本に於ける以上の制度の存在は統帥が国家を戦争に指向する軍を抑制する機関を欠き、殊に之に対し政治的抑制を加え之を自由に駆使する機関とてはなしという関係に置かれました。これが歴代内閣が国務と統帥の調整に常に苦心した所以であります。

 又私が一九四四年(昭和十九年)二月、総理大臣たる自分の外に参謀総長を拝命するの措置に出たのも此の苦悩より脱するための一方法として考えたものであって、唯、その遅かりしは寧ろ遺憾とする所でありました。然も此の処置に於ても海軍統帥には一手をも染め得ぬのでありました。

 斯の如き関係より軍部殊に大本営として事実的には政治上に影響力を持つに至ったのであります。此の事は戦争指導の仕事の中に於ける作戦の持つ重要さの所産であって戦争の本質上已むを得ざる所であると共に制度上の問題であります。軍閥が対外、対内政策を支配し指導せりという如き皮相的観察とは大に異なって居ります。」(『東條英機歴史の証言』渡部昇一p509~510)

 なんですか?日本を「二重政府」状態に陥れたのは、自分たちの責任ではなくて、明治憲法のせいだと言うのですか。ウソおっしゃい!確かに、当時の国際政治環境や経済状況が困難を究めていたこと、それは判ります。そうした中で権力奪取を図ったのが軍だった。そして、そのために統帥権を利用し、まんまとそれに成功し政治権力を握った。なら、その権力奪取以降は、統帥権の解釈をもとに戻せばいいじゃないですか。身内のことだし権力も武力もあなたたちが持っていたのですから・・・。

 本当は、あなたたちはあなたたちなりの思想を持っていて、それで政権奪取を図った。そして、その思想に基づいて大陸政策を強権的に押し進めた。しかし、それは誤っていた、そういうことではないのですか。つまり、統帥権が禍したのではなくて、あなたたちの思想及び政策が誤っていたのではないですか。私は、あなたたちが抱懐したその思想こそ問題としたい。従って、あなたたちが統帥権の問題を言うなら、それは、それを悪用して政権奪取したその「屁理屈」によって自縄自縛に陥った、ということではないですか。

 軍が統帥権という「魔法の杖」を手に入れ、満州事変を起こし、それが最高の栄誉をもって国に遇されるようになって以降の軍の行動は、山本七平の言葉を借りれば、あたかも「日本軍人国」が「日本一般人国」を占領したかのような「二重政府」状態となりました。そこにおける最大の問題は、彼らが、「世論に惑はす、政治に拘らす、只々一途に己か本分の忠節を守り・・・」という明治以来の日本軍の訓戒を踏みにじって、ある「思想」に基づき、日本の政治を引きまわしたことにあったのです。

 言うまでもなく、石原莞爾の思想もその一つであったわけですが、彼のは所詮借り物ですからね。その基底にあったオリジナルの思想を、しっかり把握する必要があります。

11/24 00:06 最終校正