統帥権が悪いのではなく、統帥権を悪用して政権奪取を図った軍部が自縄自縛に陥ったということ(1)

2010年12月23日 (木)

健介さんへ

 思わぬことで一週間ほど入院したため、返事が遅れてしまいました。

tiku 私は前々回のエントリーで次のように述べました。
>>日本軍はトラウトマン和平工作後も、大東亜戦争に突入するまで和平工作ばかりしていました。一部の人々は、日中戦争の原因に気づくようになるのですが、それが最終的な政治判断に結びつかない。総合的判断を断固として行う意志決定のポイントが、失われていたのです。内閣の規定もなく首相権限が弱い明治憲法の欠陥だという指摘もありますが、日本が二重政府状態に陥っていたことも大きな原因でした。

 これに対する健介さんの質問
>この二重政府という事はどのような意味ですか。将軍と執権という事ですか?
曲がりなりにも議会がありましたから、この議会の議員が行動を起こせば、それで何かができたのではと思います。
首相は大命降下の擬似天皇親政で議会は選挙という民主体制と理解は可能ですが、そもそも、そのようには理解すらしていないような気がします。

tiku 日本が二重政府状態に陥ったのは、政府が、昭和5年のロンドン海軍軍縮会議において、補助艦保有量総括比率対米英6割9分7厘(要求7割)等の内容で妥結調印した事に対して、軍部が、これは憲法第11条及び第12条に定める天皇の統帥権を犯すものだと激しく攻撃したことに端を発します。

(軍の統帥権)
第11条 天皇は陸海軍を統帥す
第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む

(政府の統治権)
第4条 天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ
第55条 1国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任す
2 凡て法律勅令其の他国務に関る詔勅は国務大臣の副署を要す

(議会の協賛権)
第5条 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ
第64条 第1項 国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし
2 予算の款項に超過し又は予算の外に生したる支出あるときは後日帝国議会の承諾を求むるを要す
要するに、この天皇の統帥大権を補翼するものは軍(海軍では軍令部、陸軍では参謀本部)であるから、政府がこの統帥権に属する軍の編成に関わる軍艦の保有量を、軍令部の反対をおして決めたのは、天皇の統帥大権を犯すものだというのです。しかし、政府には海軍大臣も陸軍大臣もいるわけで、彼等は軍政の観点から政府の統治権に参画しているわけですから、当然、軍も政府の決定に従うべきなのです。

 ところが、折しも中国では、国民党による国権回復運動に基づく排日政策がとられ、満洲では張学良が易幟(国民政府に服すること)を行ったことによって、日本の大陸における立場が極めて不安定になっていました。そこで一部の政治家や軍人・右翼は、これらは、中国の領土保全、門戸開放、機会均等等を定めたワシントン体制に原因があるとして、この体制下での国際協調外交を推進した幣原外相を激しく攻撃していました。

 つまり、こうした幣原外交に対する不満を、民政党浜口内閣の倒閣に結びつけようとして、政友会の森恪が中心となり、軍人を巻き込んで統帥権干犯問題を政治問題化させたのです。まさに党利党略というほかない愚行で、これによって政府の統治権は国務と統帥に分立させられ、さらには議会の立法権も予算協賛権(=審議権)も軍の行動には一切口を出せず、これに追随するほかなくなってしまうのですから、「二重政府」は政治家がもたらしたといっても過言ではありません。

 この「軍の統帥権」について石原は「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権の下に、皇国の大理想に対する絶対的信仰を以て三軍を叱咤する将帥必ず埋まるきを確信す」といっています。司馬遼太郎は、軍がこの統帥権をどのように解釈していたか、それを記した『統帥綱領』(昭和3年)と『統帥参考』(昭和7年)という本を紹介しています。(『この国のかたち(一)』)

 この本は、参謀本部刊で特定の将校にしか閲覧を許されなかった最高機密の本で、もとは二冊しかなかったそうで、敗戦時一切焼却されたとされていましたが、偕行社が奇跡的に残った本を入手し復刻したものです。そこには次のような統帥権の超法規的な権限が規定されていました。

(統帥権独立の必要)
「二、・・・統帥権の本質は力にして、其作用は超法規的なり。・・・統帥権の補翼及び執行の機関は政治機関より分離し、軍令は政令より独立せざるべからず」

(統帥権と議会の関係)
「三、・・・統帥権は其の(国務の)補弼の範囲外に独立す。従て統帥権の行使及び其結果に関しては、議会に於て責任を負はず。議会は軍の統帥・指揮並にこれが結果に関し、質問を提起し、弁明を求め、又は之を批評し、論難するの権利を有せず」

 こうした軍による極秘の統帥権解釈を政治問題化し、浜口首相暗殺というテロ事件を惹起させ、それによって誰も手を触れることのできない公然の解釈とさせたのが、この昭和五年のロンドン海軍軍縮条約締結の際に提起された「統帥権干犯問題」であったわけです。そして、この「霊妙なる統帥権」をつかって石原が起こした事変が、柳条湖の鉄道爆破に端を発する満州事変であったわけです。

 では、この事件がどういう構想の下に実施されたものであったかを、当時幣原外相の下で外務次官を務めていた重光葵の記述によって見てみましょう。(『昭和の動乱』p94)

「満洲国と関東軍
国家改造計画と国防国家
もともと、満洲事変は、日本革新運動と同根であって、大川周明博士等満鉄調査部の理論が、多分に採用せられていた。五族協和とか、王道楽土とか、財閥反対とかの左傾右傾の革新精神が、関東軍の幕僚によって、唱導せられ実行されて行った。「ナチ」に倣って、一党一国を目指す協和会も組織せられた。また、日満経済提携の協定は成立し、後には、日産を中心とした満洲重工業会社が出来て、満鉄と相列んで、満洲の経済的経営に当ることとなった。

 関東軍の頭脳は、当初より満鉄の調査部であって、後藤満鉄総裁時代に出来たこの調査部は、大連及び東京に大規模の機構を有っており、政治経済の各般にわたる調査立案に従事し、大川博士は、久しく同部を指導しておった。関東軍の幕僚が、この調査機関を利用して作成した、内外にわたる広汎詳細なる革新計画がある。これが革新の種本であって、軍部革新計画者の間に、所謂「虎の巻」と称せられるものであった。その製作者の性質に鑑み、その内容は、極度に拡大せられ、理想化せられたナチ的のものであって、内に向っては、純然たる全体主義的革新の実行を目的とし、外に対しては、極端なる膨脹政策を夢見たものであった。

 この虎の巻の全貌は、数名の中心人物(中堅将校)のみの知るところであって、これを同志の潜行的連絡によって、政府その他の機関をして、その所管内において個々に実行せしめ、全体を綜合して国家改造を実現し、革新の目的を達成せんとしたもので、目的の実行には左翼的戦術を用いていた。関東軍は、満洲事変の直接の爆発点でもあったが、日本改造運動の震源地でもあったのである。」

 つまり満州事変とは、単に「日本の生命線」である満洲を軍事的に制圧することを目的とするものではなかったのです。それは、満洲を、日本の政治体制を全体主義体制に強引するための前衛基地たらしめるものでもあったのです。そのため石原は、一時、満洲に居留する日本人の日本国籍離脱を提起したほどでした。さすがに、この提案は受け入れれませんでしたが、こうした経緯から、満洲国を内面指導する関東軍は必然的に、本土の日本政府に対して、もう一つの政府であるかのような性質も持つことになりました。

 そうした現実を象徴するような情景が同じ重光葵によって記されています。

 林総領事及び森島代理は、(満洲)事件の真相を逐一政府に電報した。総領事及び代理等は事件の拡大を防止するために、身命を賭して奔走し、森島領事は、関東軍の高級参謀板垣大佐を往訪して、事件は外交的に解決し得る見込みがあるから、軍部の行動を中止するようにと交渉したところ、その席にあった花谷少佐(桜会員)は、激昂して長剣を抜き、森島領事に対し、この上統帥権に干渉するにおいては、このままには置かぬと云って脅迫した。軍人はすでに思い上っていた。森島領事は、一旦軍が行動を起した以上何人の干渉をも許さぬと云う返事を得て、止むなく帰った。その時、関東軍は、事実上石原次席参謀の指導の下にあって、全機能を挙げて突進していたのである。

 張作霖の爆殺者をも思うように処分し得なかった政府は、軍部に対して何等の力も持っていなかった。統帥権の独立が、政治的にすでに確認せられ、枢密院まで軍部を支持する空気が濃厚となって後は、軍部は政府よりすでに全く独立していたのである。而して、軍内部には下剋上か風をなし、関東軍は軍中央部より事実独立せる有様であった。共産党拡反対して立った国粋運動は、統帥権の独立、軍縮反対乃至国体明徴の主張より、国防国家の建設、国家の革新を叫ぶようになり、その間、現役及び予備役陸海軍人の運動は、政友会の一部党員と軍部との結合による政治運動と化してしまった。

 若槻内閣は、百方奔走して事件の拡大を防がんとしたが、日本軍はすでに政府の手中にはなかった。政府の政策には、結局軍を従うに至るものと考えた当局は迂闊であった。事実関東軍は、政府の意向を無視して、北はチチハル、ハルビンに入り、馬占山を追って黒龍江に達し、南は錦州にも進出して、遂に張学良軍を、満洲における最後の足溜りから駆逐することに成功した。関東軍は、若し日本政府か軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出るにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫し、若槻内閣は、軍の越軌行動の費用を予算より支出するの外はなかった。

 関東軍特務機関の土肥原大佐は、板垣参謀等と協議して天津に至り、清朝の最後の幼帝溥儀を説得して満洲に来たらしめ、遂に彼を擁して、最初は執政となし、更に後に皇帝に推して、満洲国の建設を急いだ。若槻内閣の、満洲事変局地化方針の電訓を手にして、任国政府に繰返してなした在欧米の我が使臣の説明は、日本の真相を識らざる外国側には、軍事行動に対する煙幕的の虚偽の工作のごとくにすら見えた。」(上掲書p63~65)

 こうして、日本は、統帥権干犯問題の提起と、それに続く満州事変を経て、あたかも双頭の分裂国家であるかのような「二重政府」状態に陥ったのです。日本外交は全く首尾一貫しないものとなり、日本国の国際的信用は地に墜ちました。重光葵は「満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」といっています。(『昭和の動乱(上)』p188)

 日本がこのような「二重政府」状態に陥っていることについて、中国の顔恵慶は1932年7月29日の国際連盟理事会で次のような日本政府非難演説をしています。

(日本代表が「支那を以て崩壊と無政府の状態にある」と述べたことに対して)
「日本代表は能く組織されたる国家のことを云はれたが、政府の統制を破りつつある陸海軍を有する日本の様な国が組織力ある国家であるかどうかを疑ふのである。日本の外交官が理事会に出席し、現実に種々の約束をなすに拘らず、而も翌日にはその約束が守られないと云ふのではそれは能く組織された政府を代表してゐると云ふべきであらうか。日本は二三の大国に対し錦州を侵略せずと明かに約束したに拘らず、数日ならずして錦州に入ってゐる。これでも能く組織されてゐる政府と云ふことが出来るであらうか。」(『日本外交年表列びに主要文書』下p202)

 そして、こうした日本の「二重政府」状態が、二・二六事件を契機とし、さらに日中戦争の勃発によって日本の政治が実質的に軍の統制下に置かれるまで続いたのです。もちろん、この間、このような「日本の政治機構の破壊」状況を憂える外務省をはじめとする良識派の人びとが、全く手をこまねいていたわけではありません。その代表的人物が実は広田弘毅であったわけで、彼は「ある程度までは軍と妥協しつつ、軍部の無謀な行動を、あるいは抑制し、あるいは善導していく」苦心惨憺たる「苦行」を引き受けていたわけです。「軍部に正面から反対すればただちにその職から退けられるか、最悪の場合は暗殺され」ましたから。(『昭和の動乱と森島悟郎の生涯』p94)

 こうした広田の苦行は、まず、関東軍をして北支分離工作を断念させ、満州国の経営に専念させることによって、日中親善の外交関係を確立することを、その目標としていました。しかし、残念ながら「広田三原則」においてもそれは骨抜きにされてました。このことは、その「三原則」の付属文書(一)で、「わが方が殊更に支那の統一又は分立を助成し、もしくは阻止する目的を持って以てこれを行うは、その本旨にあらず」としていたにもかかわらず、その付属文書(三)で、北支分離工作を決めた昭和9年12月7日付けの「外務、陸海軍主管意見一致の覚書」も、「これに代わるべきものの決定を見るまで」広田三原則と平行してこれを有効とする規定が挿入されていたからです。(上掲書p83)

つづく