石原莞爾及び日本人一般の「一人よがり」の王道思想が日中戦争を招いた

2010年12月 4日 (土)

「蒋介石が、その高級官僚をすべて集め「全面抗戦」を決定したのは、(昭和十二年)八月七日のことである。ここで、蒋介石は、彼の生涯における、最大にして後に最も議論を呼んだ、大きなギャンブルに打って出た。それは、華北で起こった中日の戦いの主戦場を、華北から華中、つまり上海に移すことを決心したのである。」(『ケンブリッジ中華民国史』ロイド・イーストマン)

 ここに至るまでの蒋介石の、日本との国交調整の歩みについては、エントリー「日本はなぜ満洲に満足せず、華北分離工作を始めたか、また、石原はなぜそれを止められなかったか」に見た通りです。昭和10年初めには、蒋介石は、日本側に日中親善「三原則」を示し、同年9月には、満州国の独立について「これを不問とする」ところまで妥協しました。これに対して日本政府は「広田三原則」で答えようとしましたが、陸軍はこれを中国の「三原則」を無視するものに変えてしまいました。

 それだけでなく、関東軍は、こうした日中親善を目指す政府の外交交渉を妨害するため、1935年半ば頃から、武力による威嚇を背景に、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定を中国に押しつけ、華北分離工作を開始しました。こうした日本軍の行動に対して、中国では抗日世論が激高し、そのため蒋介石は、1935年の末頃には、国内優先の政策(掃共、地方軍閥整理、自身の指導力強化、経済建設)から、「対日戦争準備」に転換せざるを得なくなりました。

 こうした蒋介石の政策転換に、日本側は何時気づいたか。大方は、第二次上海事件が勃発して以降だと思いますが、石原莞爾も、昭和11年8月の「戦争計画」では、「(中国の)政治的中心を覆滅し抗日政権を駆逐・・・用兵の範囲は北支、山東、要すれば中支、やむを得ざれば南支」などという楽観的な認識を示していました。ところが、綏遠事件の失敗や西安事件を機に、石原は急角度にそうした認識を改め、昭和12年1月には「侵略的独占的態度」を是正し「北支分治工作は行わざること」と従来の政策を急転回させました。

 その直後に成立した林銑十郎内閣の外相に就任したのが、前回のエントリー「日中戦争、これに直面するもしないも「日本の考え方如何によって決まる」・・・」で紹介した佐藤尚武でした。彼は、対支再認識論を説いて、冀東政府の解消を初めとする北支工作の停止を骨子とする「北支指導方策」(37年4月)をまとめ、中国政策の転換を図りました。それを実質的に支えたのが石原莞爾だったわけですが、こうした政策転換に正面から抵抗したのが関東軍参謀長だった板垣征四郎でした。

 結局、石原は、関東軍を初めとする軍内の対支強硬派を説得出来ないまま、日中全面戦争突入した後の1937年9月に、参謀本部第一部長の職を辞すことになりました。ではなぜ、石原は、自分の古巣である関東軍のかっての同僚や部下たちを説得出来なかったか。これについては、私は前前回のエントリーの末尾で、「石原と彼に反対した中堅幕僚との違いは、目的や手段の違いではなくて、単なる手順の違いに過ぎなかった」ためではないか、ということを申しました。

 どういう事かというと、実は、関東軍の将校たちは、石原の唱えた日米「最終戦争」論の観念的継承者であったということです。つまり、彼等にとって日中親善とは、あくまでも、当面は対ソ、最終的には対米戦争に備える資源確保のためであって、もし中国がそれに応じないなら、華北分治もやむを得ないと考えていたのです。彼等は蒋介石がそうした日本の要求にすんなり応じるとは思えられなかった。従って、彼等には、対支再認識論を唱え華北分治工作の転換を迫る石原のやり方が”手ぬるい”ものに見えたのです。

 実際、石原は、「満州事変前すでに最終戦の観点から、満蒙の資源だけでは十分でない」と考えていて、満州事変後は「山西の石炭、河北の鉄、華南、山東以南の綿」が必要と考えるようになりました(「満蒙問題に関する私見」)。また、昭和10年8月に参謀本部作戦課長となって策定した「重要産業五ヵ年計画」を達成するためには、華北の「神話的資源」は不可欠と考えていました。そのため、昭和10年半ば頃から関東軍が始めた華北分離工作を容認してきたのです。(『軍ファシズム運動史』秦郁彦p234)

 その後、石原は、昭和11年半ば頃になって、ようやくその危険性に気づくようになり、一転して「華北資源不要論」を唱えるようになりました。そこで、満洲資源の再調査して必要な報告を提出させ、部内の思想統一をはかったのですが、上記のような理由で、彼等を説得することはできなかった。といっても、華北分治を進める彼等が中国との戦争を望んでいたわけではなく、まさか、中国が日本に対して全面戦争を挑んでくるとは思っておらず、反抗するなら膺懲=懲らしめる、程度にしか考えていなかったのです。

 こうした「迂闊な」考え方をどうして日本軍がしていたのか。それは、次の松井石根の「日中戦争論」を聞けば、その特異な性格が分かると思います。言うまでもなく、松井石根は、第二次上海事変勃発に際して上海派遣軍司令官に任命された人物であり、任命当初から、南京を落とすことをその戦略目標としていました。

 「そもそも日支両国の闘争は、いわゆる『亜細亜の一家』における兄弟喧嘩であり、日本が当時武力によって、支那における日本人の救援、危機に陥った権益を擁護するのは、真にやむを得ない防衛的方便であることは言うまでもなく、宛も一家の内で、兄が忍びに忍び抜いてもなおかつ乱暴を止めない弟を打擲するに等しく、決してこれを憎むためではなく、可愛さ余っての反省を促す手段であることは、自分の年来の信念であった。」(東京裁判における松井石根の宣誓供述書の一節)

 つまり、日本と中国の関係を、「亜細亜の一家」における兄と弟の関係と見なしていたのです。そして、その「亜細亜の一家」の中で、アジア復興という使命にいち早く目覚めた長男が日本で、そうした使命をなかなか自覚できず、兄である日本に対して反抗し乱暴し続ける弟が中国である。そこで、日本は、中国にアジア復興のために奮闘しているの日本の使命を正しく認識させるために、心ならずも弟である中国に「愛の鞭」を振るったのだ、というわけです。

 こうした「一人よがり」な日本の態度を見て中国は、昭和10年1月に中国側「三原則」を日本側に示しました。その言わんとするところは、次のような事だったと思います。

 「中国は独立国家であり、日本とどのような関係を結ぶかは、中国自らが主体的に考えるべきことである。日本が、そのような中国の独立国家としての主権を尊重し、日中間の問題をあくまで外交交渉によって解決すると約束してくれるなら、中国としても、日本が直面している資源問題や人口問題さらには経済問題などの解決に、できるだけの協力をするつもりである・・・」

 要するに蒋介石は、日本に対して、まず「中国を独立国家として認めること」を要求していたのです。しかし、当時の日本人は、松井石根の「亜細亜の一家」論に見るように、東洋「王道文明」VS西洋「覇権文明」という対立図式を自明のものとし、そうした図式の中で中国を位置づけていたために、上記のような中国の要求が、兄である日本が立てた「アジア復興」プログラムに従わない、「自分勝手な」行動に見えたのです。

 ところで、ここに言う「王道文明」VS「覇道文明」における「王道」とか「覇道」とはどういうことか。ブリタニカ国際百科事典によれば、王道とは、孔子や孟子の唱えた「徳を政治原理とする政治」のあり方で、仁政によって人民の経済的安定を図るとともに、人民を徳化することで社会秩序を維持しようとする考え方。一方、覇道とは、春秋時代の覇者の行った武力による権力政治のことで、利や武力を用いて社会秩序を維持しようとする考え方、だそうです。

 こうした「王道」、「覇道」という考え方は、言うまでもなく中国の儒教思想に基づく考え方ですが、では、松井石根の「亜細亜一家」という考え方は、こうした儒教の考え方とどのように関わっているのでしょうか。実は、この、国家を家とを同定する考え方は、儒教思想の日本的変容と言うべきもので、つまり、家族倫理としての「孝」と政治倫理としての「忠」を一体化し、「忠孝一致」とすることによって、国家を家族の延長と見る考え方なのです。

 言うまでもなく、こうした「忠孝一致」の国家観は、日本の幕末期に、後期水戸学が生み出したもので、尊皇思想に基づく「一君万民」思想が生み出したものなのです。それは、一君である天皇を一家の家長(=大和民族の宗族の長)に見立て、その臣民を赤子として、両者の関係を「忠孝一致」の親子関係と見なす「家族的国家観」なのです。当時の日本人は、こうした国家観を「王道文明」に基づくものと考え、それを中国にも当てはめ、中国に「亜細亜の一家」となることを求めたのです。

 そうした日本人の「一人よがり」の思想に基づく「善意」が、どれだけ満洲人や中国人、あるいはフィリピン人を傷つけたか、『炎熱商人』の著者深田祐介氏は、佐高信氏との対談で、次のような指摘を行っています。

 日本人は「アジアは一つ」と言った。しかしそれは日本人の独善的な思い込みに過ぎなかったのではないか。

 「フィリピンはカトリックだし、ビルマ(ミャンマー)は仏教(それも日本の仏教とは相当に異なっている=筆者)、インドネシアはイスラム教ですからね。宗教一つをとってもアジアは一つではない。あのスローガンはどれだか誤解をもたらしたか・・・」

 「内面指導は日本人を解く大きな鍵ですね。とにかく日本人は内面指導が好きなんですよね。満州国に行って、先ず日本人による行政機構を作る。この機構の次官クラスが満洲人を手取り足取りああせいこうせい『内面指導』する。」

 「主観的な善意を平然として押しつける。その思い込みの善意が相手のプライドをいかに傷つけるか、と言うことが日本人には分からない。他民族のプライドを考えられなかった、というのが戦前、戦時中の日本人の致命的欠点だったんじゃないか。満州国建国のニュース映画を見ても、建国の式典でまず最初にやるのは『大日本帝国万歳』とか『天皇陛下万歳』で、最後に『満州国万歳』をやっている。仮にも独立国の式典でしょう。常識で言ったらあり得べからざる話ですね。・・・吉岡中将が溥儀を説得して、『満州国の建国神は天照大神』にしてしまうんですね。信仰の問題に就いても内面指導をしているのだから驚きますね。」(『黄砂の楽土――石原莞爾と日本人が見た夢』佐高信P215~216)

 では、こうした日本人の内面指導の弊から石原莞爾は免れていたでしょうか。満州において五族協和を説き、進んで、東亜連盟という王道思想に基づく連合国家構想を説いた石原の理想主義は、はたして、満洲に住む各民族の精神的自由を保障するものだったか。また、石原のいう東亜連盟は、世界最終戦を経て八紘一宇という天皇を中心とする世界家族国家を想定していましたが、果たしてそれは、この連盟を構成する各国家の主権を保障するものであったか。

 このように見てくると、石原の思想には二つの重大な欠陥があったと見ることができます。一つは、彼の「東洋王道文明」VS「西洋覇道文明」という対立図式は、実は日本独自の「家族国家」思想から生み出されたものであり、いわば日本の被害者意識が生み出した幻想に過ぎなかったということ。そして、そうした図式の中で中国や英米との関係を位置づけようとしたことが、結果的に、中国の独立国家としての主権を犯すことになり、さらに、英米の自由主義国家を敵に回すことになった、ということです。

 もう一つは、石原の民族共和の思想は、決して普遍思想となり得るものではなく、実は、儒教思想の日本的変容である尊皇思想に基づく「忠孝一致」思想だった、と言うことです。石原は、その思想を田中智学を通して八紘一宇の世界家族思想として普遍化しました。しかし、それに基づく国家観が幻想であった如くに、「忠孝一致」という個人倫理も、それはあくまで、日本の思想の歴史的発展の中から生まれた日本の固有思想であって、アジアの国々の人びとに一般的に適用できるものではなかったのです。

 こうした石原の唱道した思想が、戦前の(昭和における)日本人を金縛りにしたことが、当時の国際関係の中で、日本が、現実的・合理的・理性的な対応ができなくなった第一の原因ではないかと思います。では、そうした思想的伝統を持ちながら、どうして日本は明治維新以降の近代化に成功し、大正デモクラシーの時代まで到達し得たか。それは、「忠孝一致」の尊皇思想の、さらにその基層には、武家文化が育てた「器量第一」=実力主義的の伝統文化があったからではないかと思います。それが、近代化の求める諸課題への機能的な対応を可能にした・・・。

 また、それが昭和の「一人よがり」の世界観や、はなはだしい人命軽視に陥らなかったのは、西欧文化に学ぼうとする姿勢が、自ずと人びとを謙虚にしたということ。また、人びとが、江戸時代の身分制から解放されて、「独立自尊」という自己責任の世界で生きるようになったとき、自ずと、理想と現実の緊張に耐えて生きることを学ばざるを得なかったということ。さらに言えば、その理想と現実の緊張に耐える武士的な個人規範が、まだその時代には生きていた、ということではないかと思います。

 それらが昭和に入ると失われた。まず、西洋文化に学ぶ姿勢より、それに対する被害者意識の方が強くなり、むしろ、日本文化、東洋文化の方が優れていると自惚れるようになったこと。「独立自尊」の精神が、次第に社会組織が安定し固定化するにつれて、組織に依存する体質が優位を占めるようになり、個人倫理としての規範力が弱まったこと。さらに決定的な問題は、大正自由主義の時代に続く社会的・経済的混乱を経て、自由主義的観念が次第に忌避されるようになったと言うことです。

 こうして、日本は、英米など自由主義国家に対する病的なまでの警戒心を抱くようになりました。そこで、日本が、こうした自由主義国家群が覇権を握る国際社会の中で生き残っていくためには、満洲は日本の「生命線」であり、「持たざる国」である日本はそれを領有する権利がある、と考えるようになった。こうして満州事変が起こり、さらに華北分離工作が行われ、ついに、蒋介石をして抗日全面戦争を決意させるに至ったのです。この間の日本人の思想的変遷の軌跡をたどる上で最も参考になるのが、石原莞爾の思想というわけです。

 この石原莞爾の思想の中に、日本人がなぜ、思いもしなかった日中戦争を8年間も戦い、さらには、「鵯越」「桶狭間」「川中島」を合わせたような、一か八かの対米英戦争に突入することになったか、その不思議の原因が隠されているように思います。