日中戦争、これに直面するもしないも「日本の考え方如何によって決まる」と言った佐藤尚武外相

2010年11月28日 (日)

 前回、せっかく蒋介石が、結果的に、満州事変を惹起せしめた満州における「国権回復政策」の行き過ぎを反省し、日中親善の友好関係を図ろうとして、中国側三原則を示したのに、陸軍が、中国の対日態度転換は欺瞞だとして、外務省の対華親善政策を批判し、華北自治運動を押し進めたことを紹介しました。その最も露骨な現れが、日本の傀儡政権である冀東防共自治委員会(後冀東防共自治政府と改称)の設立でした。

 廬溝橋事件が発生した二十日後の昭和12年7月27日、通州事件(邦人朝鮮人260名が殺害された)が発生し、日本国内で中国人の暴虐事件として報道され、これが南京事件の一因になったとも言われます。実は、この通州は上記の冀東防共自治政府の所在地で、そこに自治政府の保安隊が置かれていました。この事件は、この保安隊を日本軍が誤爆したために発生したとされますが、問題は、この時期、この保安隊にも一触触発の反日感情が渦巻いていたと言うことです。

 この冀東防共自治政府の存在こそが、日支間の国交調整を不可能にしている最大原因で、これを解消することが、両国の関係改善を進める上での第一歩と主張したのが、廬溝橋事件が発生する四ヶ月前まで林銑十郎内閣の外務大臣の任にあった佐藤尚武でした。彼は、今回のエントリ「日中戦争、これに直面するもしないも『日本の考え方如何によって決まる』」といい、日中戦争の本質を的確に見抜いた人物でしたので、次ぎに、彼の言葉を紹介したいと思います。

危機は日本しだい

 昭和十二年の三月十二日、衆議院本会議での、外交方針にかんする緊急質問として、立憲民主党の鶴見祐輔、政友会の芦田均両君の、外務大臣たる私にたいしての質問に答えた演説・・・その最後の一節。

 「最後に、外交の国策の根本方針について、政府の所見をご質問になりました。なるほど、わが国は現時の状態においては、八方ふさがりのように見えるかもしれませぬ。また、芦田君のいわれるところでは、現時においては平和か戦争かという岐路に立っておって、国民は迷っておるというご説明でございました。日本内地で当時よく唱えられたことばでありますが、三十五、六年の危機ということが常に人の口に上ったのであります。

*「三十五、六年の危機」とは、海軍が、ロンドン海軍軍縮条約の期限切れ後の1935、6年頃に「米国が皇国に対し絶対優勢の海軍を保持せんとするは、皇国海軍を撃滅し得べき可能性ある実力を備へ、之によつて米国の対支政策を支援し強行せんが為めである」として危機を訴えたもの

 三十五、六年を経て、しかして現今からこれを顧みて見まするに、はたしてどうであったか。危機ということばは何を言い表わすか、もしその危機なることばが戦争を意味しておったということであれば、私は当時三十五、六年にいたっても戦争はない、したがってその意味の危機ならばありえないというふうに考えて、また当時日本に帰っておりまして、各方面でその話をいたしました。

 もしその危機なることばが、国際関係の逼迫であるという意味に解すべきものならば、それは三十五、六年をも待たず、満州事件以来、常に日本は危機にひんしておるのである。しかしそれは日本ばかしの特殊の問題ではない。ヨーロッパにおいては毎日危機であります。国と国との境を接し、飛行機のごときはて二時間を争うという、そういう地理的状況において、国際間の関係に融和を欠き、互いに軍備を整えておるという今日においては、その危機は毎日毎時刻に存在しておるのでありまして、何も日本に限ってそれを気に病んで、焦燥な気分になるという必要は一つもないということを、私は申し上げました。(拍手)

 その後三十五、六年を経て、いま現在三十七年になってこれを考えて見まするのに、私は国際間の危機というものをそういう意味に解するならば、しかしてまた、戦争というものが目の前にぶら下がっておるというような意味に解するならば、私の申しましたことが、理屈があったというふうに感じるのであります。私は日本国のような国がらは、できるだけ国民を落ち着けて、この焦燥気分をなくすということが最も必要なことと思います。(拍手)

 もちろんそのためには、国策というものを立てまして、これを明らかにし、国民の帰趨を示す、国民のおもむくところを示すということが必要であるのも、全くご名論と思いまする。私は国民に、こういうことを了解してもらいたいと思うのであります。ほんとうの意味の危機、つまり戦争の勃発という意味の危機、日本がこれに直面するのもしないのも、私は日本自体の考えいかんによって決まるのであるというふうに考えるのであります。(柏手)

 もし自分が、その意味の危機を欲するならば、危機はいつでも参ります。これに反して、日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けてゆきたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つで。その危機はいつでも避けられると確信いたします。(拍手)

 諸君、私は弁舌にはなはだ拙でございまして、明らかに自分の意向を表明することができぬかもしれませぬけれども、私は今日の日本、それは七十年の歴史、努力をもって、ここまで築き上げたこの日本が、なんの必要あって、堂々たる態度をとって、堂々たる道を歩きえないのか、それを私は不審に感ずるのであります。(拍手)

 今日まで進みました日本は、私の考えでは、きわめて公明なる方策を立てまして、権謀術数などということは、頭の中から全く去ってしまって、しかして国際間に処しまして、だんだんたる道を大手を振って歩けば、私はよろしいと思うのであります。

 かくすれば、国民もその外交政策なるものにたいして、じゅうぶんなる了解を持ちえましょうし、また国際間に処しましても、だれしもわれわれの国策、外交政策というものにたいして、危惧の念をいだくべきはずがないのでありまして、この大なる国策を背に背負いまして、世論の力をもって、しかして自分たちの前に開拓しましたる明らかなる大道を、自分たちの目的に向かって澗歩していきたいと思うのであります。(拍手)

 これはきわめて陳腐なことを申し上げますので、何も新奇をてらったわけでもなんでもないのであります。私は外交なるものに新奇をてらうことは、大きな間違いだと思います(拍手)。きわめて普通の考えから、きわめて単純なる道を、自分の持っている常識によって判断して、その道をただ進んで行けばよろしい、というように考えるのでありまして、かくしてこそ初めて、国民もいっしょになることができましょうし、いわゆるわれわれの欲する挙国一致の外交政策というものが、立ちうるのであると思います。

 私は議会はもちろんのこと、政府、軍部、実業方面、新聞、その他、皆このきわめて了解しやすい国策に向かって、一致の態度をとって、しかしてこのまとまった国論に導かれて、しかしてわれわれに与えられるこのまっすぐな道を進んで行きたいのであります。これが私のとらんとする方策でございます。(拍手)

(注)昭和十二年三月十二日衆議院速記録第二十号「外交方針に関する緊急質問」による。速記録のかたかなと旧かなづかいを、ひらかなと新かなづかいに改めた。

 その後の、佐藤尚武外相の外交方針についての説明は次のようなものでした。

 「かくしている間にも、私は支那との平和づくの談判を行なわんとして着々準備を進めていった。これは以下詳述しておきたいと思うのであるが、この準備工作の間、議会の無責任な連中の相手となって、そして正面から衝突するということは、私としてはぜひ避けなければならぬことであると考えた。実を言えば、議場の演壇の上から私の心底を吐露して国内の健全な世論に訴え、そして公の場所でこの連中のロを封じてしまいたかったのは、やまやまである。しかし私は、自ら求めて争いを大きくするということは、いまの場合、私の大切な仕事を事前にこわすことになるので、虫を殺して衝突を避ける決心をした。私の始めた仕事は、大約次のとおりである。

 当時、日支の間の紛争は日ソ間の関係以上に悪化し、かっ急迫していた。それは、その前年あたりから殷如耕を首班とする翼東政権なるものが建設され、そして南京政府とは独立に、翼東地区の行政に当たるという形をとってから、一層両国間の関係が激化したのである。南京政府はこれにたいして翼察政務委員会なるものを作り、宗哲元をして主宰せしめ、殷如耕の翼東政権の向こうを張り、わが北支駐留軍にたいする障壁としたのである。私はもちろん、支那国内に翼東政権のごときものを作ったことには、大なる反対を持っていた。しかしてこれがある間は、目支間国交の円滑化はとうてい不可能であると断じていた。

 すなわち、国交の調節を図らんとするならば、かくのごときやり方は、根本から変えなければならぬことになる。しかし、すぐさま翼東政権解消というのでは国内的に非常な困難に遭遇するのは当然であって、これを無理押しに乗り切ることは、すこぶる危険である。よって私は、日支聞に国交調整の一般的会談を始めて、そして紛争の比較的容易な問題から片づけてゆくという方針をとった。一問題を解決すれば、次の問題に移る。かくして度を重ねてゆくうちに、自然と良好なふんいきができてきて、国民も平和的解決に望みを嘱することになり、漸次、むずかしい問題にも及びうるわけである。もちろんこれがためには、両国互譲の建て前でゆかねばならぬことは明らかであるが、かく平和的解決の筋道がつけば、両国とも譲歩がしやすくなるわけである。しかして最後は、どの道、翼東政権解消にまでこぎつけねばならぬと決心したのである。

 しかしながら、これを実行するには、まず国内において、軍部と一心同体にならなければならぬ。すなわち軍部を説き、彼らをして全部われわれの考えを容れしめ、協心協力、事にあたるように仕組まなけばならぬ。これなくしては、とうてい平和交渉はできるわけのものでない。また幸い。国内的に話がまとまりえたとしても、出先の軍部をして中央の方針を体して、同一の態度をとらせなければならぬ。しからざれば出先は個々別々の態度をとり、これまた話をぶちこわす方に導くばかりである。そこで私は、軍部大臣と密接な連絡をとる一方、当時の『外務省アジア局長森島守人君(現社会党代議士)に嘱して陸軍省の軍務局と極秘のうちに交渉を行なわしめたのである。

 当時の軍務局長は後宮少将(後に大将)軍務課長は柴山大佐(後に中将で陸軍次官になった人)などであった。この両責任当局は、われわれとほとんどその所見を一にしていた人たちであったため、陸軍、外務両省の意見は漸次接近することを得、大綱において、合意ができたのは幸いなことであった。参謀本部もこれに異議を唱えず、米内海軍大臣も、もちろん賛成であった。このうちわの交渉には、まる二ヵ月の短かからぬ時間を要したのであるが、私はそれでも満足せず、いぜん出先を説きつける必要を痛感しておったので、陸、海、外の三省から同時に、かつ別個に特使を出して、出先軍部にたいして中央の意向の徹底を図らしめたのである。

 陸、海両省もこの案に賛意を表して、陸軍からは柴山軍務課長、外務省からは森島守人局長、海軍からも相当の人を出してくれて、この三人はまず上海に渡り、ついで天津に出、それぞれ出先軍部にたいして中央の方針に励力を求めたのであるが、上海、天津ともよくその意を諒として、中央がその方針なれば、われわれも当然、協力を惜しまないものであるとして賛同してくれた。三人の特使はそれから新京に到着した。ここでも同じ話をしたのである。しかし新京の空気は全く別個のものであって、中央の意見にたいして反抗の意識が明らかであった。

 そしてそのような手ぬるい方針をとったところで、あたかも。”仏を作って魂を入れぬ”と選ぶところがないという意見であった。それもそのはずで、冀東政権を熱心に支持していたものの一人は関東軍であったのである。

 かくして、三人の人たちが新京ですったもんだやって、三日間を過ごしたときに、林内閣はにわかに、総辞職をすることになってしまった。それは五月の三十一日のことであった。朝、閣議に臨時招集を受けた各閣僚は、一人一人首相の事務室によばれ、そして首相から総辞職の意図を聞いたのである。突然の決意に一同、非常に意外に思ったのであるが、だれも異議を唱える者はなかった。その前の晩までは、最後まで戦う、という申し合わせをしたくらいであった。・・・かくして林内閣の存在、わずか四ヵ月、私が外相に就任してから満三ヵ月にして、六月三日、桂冠したのである。その結果、私の企てたこともすべて、半途にして挫折してしまった。」

 では、佐藤は冀東政権解消の後何をしようとしていたのか。

日支関係の打開

 「人はよく、私の政策にたいして反対する言いぐさとして、そのような手ぬるいことをやったのでは、支那はどこまでもつけあがってくる、といって非難した。私からいわしても、この心配は一理ある。従来の日支関係のいきさつから見て、そういう懸念をいだくのは、当然といってもいい。しかし、問題の焦点は、そりいう点ではないはずであり、世界の世論に照らして、日本の言いぶんが正しいかどうかということである。

 もちろん平和づくの交渉であれば、両国互譲の精神をもって談判するほかなく、支那も譲れば日本も譲る、互いに相手の要求をよく理解して、その間に妥協点を発見するのが交渉の道である。そして、日本はさきにも述べたとおり、ついには翼東政権解消というところまでゆかなければならなかったのである。そのさい、支那がはたして図にのってきて、失地回復すなわち満州の返還をさえ要求するようになったとしたならばいかん。

 この佐藤がいかに軟弱外交の標本であったにしろ、日本としての譲歩にはもちろん一定の限度がある。この限度に達しない前に、話し合いが成ればそれでよし、日本は最小限の利益を確保して、支那との間に平和を築くことができるわけである。もしこの最後の一線をさえも、越えざるをえないはめになったとしたならば、そのときは談判破裂であらねばならぬ。何人にも最後の一線は越えられないはずである。

 しかしてその一線は、私からいわせれば満州問題である。すなわち支那の失地回復問題である。満州国の独立は日本の名誉にかけて断行したところであって、これはもはや、日本の存続する限り撤回のできない問題である。これを譲るがごときはとうてい考えられない。

 満州問題が突発してからすでに六年、日本はそのために、連盟から脱退さえも敢えてして、自己の主張を堅持してきたのであるが、はや欧米各国とも、日本の決意牢固たるを見て、漸次、反対の態度を断念する方向に進んできている。アメリカのごときも、公にこそいわぬが、内々もはや満州問題はやむをえないとして、われわれに打ち明け話をしていたむきもある。してみれば、国際的にも日本の地位は決して絶望的のものではなかったはずである。日本は国際世論の前に立って、このたびこそは堂々と、態度を鮮明にすることができる。

 すなわち、緊張した日支間の関係を平和づくの談判によって解決せんとするのが日本の態度である。そのためには、これも譲り、あれも譲っている。ただ日本の譲りえない最後の一事、すなわち満州問題をさえ、支那は言い出してきている。これだけは日本の生死をとしても、譲歩のできないところであることは世界各国といえども、承認せざるをえないはずである。

 しかも、支那がこれを強要するゆえんのものはすなわち、支那に日本との平和維持の誠意のない証拠でなければならぬ。かくなるうえは日本と支那のいずれに正があり、邪があるか、世界の世論自らこれを判断すべきである。日本は堂々と天下に向かって自己の主張を突っ張りうる。かくして支那の強要のため、交渉は破裂して不幸戦争勃発するにいたった場合といえども、国際世論は明確な日本の態度を是認せざるをえないであろう。また日本国民自身も、なにゆえに支那との戦争か避けられなかったかということについて、じゅうぶんの理解を持つたであろう。

 もちろん、談判破裂と同時に外務大臣は当然、ことの成り行きを詳細、国の内外に発表しなければならぬ。この発表を見て、日本国民は憤然として決起したであろう。また、幸いにして、ことが窮迫せず、最後の問題に触るることなくして支那との間に交渉がまとまったとしたならば、それはすなわち戦争を避けるということであって、東亜の平和のために、大いに賀すべきことであらねばならぬ。

 もちろん一部の世論は、これにたいして大なる不満をいだくであろう。支那にたいしては、絶対に譲歩すべからずとする連中が多多ある。これらは、和平成るを見て一騒動起こすことになるかもしれない。しかし、それは国内の一波乱で済むのであって、両国間の和平はできた方がよかったということになるのはもちろんである。

日ソ関係の打開

 支那との問題は実際、私の目にも急迫して見えたのであるが、ソ連との関係は当時、まだそれほどではなかった。もちろん、昭和十一年の防共協定以来、両国関係が非常に悪化したのは事実であるが、まだ戦争の危険は私には感じられなかった。ただ両国の感情がいかにも疎隔してきたので、なんとかこれをまとめる必要があった。また、私自身もそれを願っていたのである。ここにも、世論の一部を排して断行する決意を要したのは当然である。

 当時私は、貴族院の本会議で大河内輝耕子爵の質問に答えて、ソ連関係について述べた中に「ソビエトが共産主義の国であるということにたいしては、それはソビエトの国内問題であって。われわれはなんら口出しの権利もなければまた、その必要もない。しかし、ソビエト国内に世界革命を旗印とする国際共産主義(コミンテルン)の本拠がありとすれば、他の国々が不安を感じ、疑惑をいだくことになるのも、当然であり、国交に影響するところも大である。もしソ連が口でいうがごとく、ソ連が国際共産主義の組織とは直接関係がないというのであれば、この組織をソ連領内においておく必要はないはずである。ソ連自らこの組織を国外に追放するということにでもなれば、外国との関係は明朗化するであろうし、日本との関係においても大いに、やりよくなると思われる」という意味のことを述べた。

 私の言ったことの裏を返せば、コミンテルンとソビエトはまさに唇歯輔車の関係にありというべく、前者の組織をソ連以外に移すなど、とうてい考えられないことであり、それが不可能とすれば、したがってソ連との国交調整も容易なことではないといわざるをえないということになるわけである。しかるにその後六年(一九四三年)戦時中に、コミソテルソは自発的に突然解消することになり、私の不可能視していたことが表面上は、実現することになった。このあたりの事情や経過については、後日一言の機会をうるであろう。

日英関係悪化の打開に努力

 ここで、対英政策のことについても一言しておかなければならない。前にも述べたとおりオタワの帝国会議以来、日本とイギリスとは経済問題で犬猿ただならない間がらになってしまった。日本は綿布でも雑貨でも、安くこしらえてどしどし海外へ売り出そうというのであり、また品質も安い割り合いにはだんだん良くなってきたので、日本品の進出は非常な勢いで発展しつつあったのである。これにいちばん脅かされたものは、なんといっても海外貿易で立っていくイギリスであったのは当然なことで、国際市場獲得の争いから日本とイギリスとはどうしても、かたき同士にならざるをえなかった。イギリスは、自分のいままで持っていた市場を蚕食されるのを、極度に忌みきらったのである。

 この経済上の争いは、当然両国の民心に好ましからぬ影響を与え、これが政治問題にも影響して、両国の間には摩擦がふえるばかりであった。もっとも、マクドナルド内閣のときに、彼は日本の大使にたいして、経済問題で日英両国が戦わなければならぬということはありえない。。自分は経済問題では、断じて日本と戦うことをしない、と言ったことがある。それはたしか、一九三〇年のロンドン海軍制限会議当時のことであった。しかしそれにもかかわらず、両国関係は悪くなる一方であり、そこにまた、満州事変から引き続いて北支、中支問題が起こるにいたり、支那各地に大なる権益を持っていたイギリスとは、ことごとに衝突せざるをえないはめになった。

 振り返ってむかしのことを考えてみると。一九一〇年ごろ、まだ日英同盟花やかなりし時代に、たまたま私がロンドンで、ある学友に語ったことを思い出すのである。そのとき私は、いまでこそ日英の間は間然するところなき友好関係にあるが、それはまだ支那における日本の勢力が大したものでないからであって、日露戦争後に満州に根拠を占めた日本が、他日その経済勢力を北支に延ばし、さらに進んで長江にまで及んだ暁には。きょうの友は必ず、あすの敵になる”ことを忘れてはならない――と言った。

 私は何も、予言者めいたことを言ったわけではないが、同盟関係で両国が固く結んでいた時代には、およそ、そういう考えは日本人の頭に去来しえなかったところである。それから時を経ること二十余年、私の杞憂は支那においてまさに現実の事態となって現われてきた。そのころまでに、日本の商品は世界的にはびこって、至る所でイギリスの権益と衝突するのであった。一九三四、五年にいたってこの両国関係はいちだんと緊張を見るにいたった。それは北支にたいする日本の実力の進出が、イギリス政府にたいして多大の脅威を与えることになったためであるが、現に北支には有名な開灤炭鉱のほか、古くからイギリス人の占めていた権益がある。

 もっとも、私が外相の地位につくまでの間、日本政府としてもいくどかイギリスとの関係を改善すべく試みたのであったが、いつも不成功に終わった。それは外務省の考えが、次から次へとこわされていったために、イギリス政府では日本政府の真意がはたしてどこにあるかを捕えるに苦しんだのであって、つまり日本の政策が一途に出なかったためである。

 こういう情勢のうちに私は、外相の印綬を帯びることになったのであるが、まず軍と話し合いを遂げ、支那問題の和平解決に乗り出し、かつソビエトとも戦争を避けて、平和的に国交を調整する方針を立て、そして国内的に重要方針につき、軍部その他と万端打ち合わせを遂げたあとで初めて、対英問題の調節に乗り出したのである。それが就任以来、ニカ月余を経た後のことであった。そして支那問題にたいする日本政府の方針を詳細に、ときの在英大使吉田茂君に電報してイギリス政府に安心を与え、しかしてこの方針に即してイギリス政府との間に、諸般の誤解解決に当たるよう訓令を発したのである。

 吉田大使は、この新たなるやり方にたいし大なる満足を感じ、さっそくイギリス政府外相のイーデン氏を訪問し、佐藤外相より、いい訓令を受け取ったと前置きして、帝国政府の見解を詳細に説明してくれたのである。これにたいして、イーデン外相も大いに安心したもようであって、日本政府の方針がかくのごとくである以上、イギリス政府としてもこれに呼応して協調的態度をもって、日本政府と交渉することが可能となるわけであるとして、欣快の情を表わしたということである。

 当時の日本は満州事変以来、もっぱらイギリスと利害の衝突をきたしていたのであって、アメリカとはまだそれほどのことがなかった時代である。であるからイギリスとの国交調整ができれば自然、日米関係にも好影響を及ぼすことになっていた。これすなわち私が、イギリスの問題をまず取り上げたゆえんであって、これに成功すれば当然、アメリカとの交渉にも手をつけるつもりであった。・・・」

 これが、佐藤外相の見た日中戦争を避けるための外交方針であり、対ソ、対英・対米の国交調整策であったわけです。その第一歩が、冀東政権の解消であり、次ぎに華北分治策の抛棄だったのです。そして最後の一線として日本が守るべきは、満州国の独立だといったのです。そして日本がこのようにその外交方針を明確にすれば、イギリスとの国交調整は可能であり、自然、アメリカとの調整も可能になるとしたのです。

 もちろん、石原莞爾らが主導した満州事変は、柳条湖事件という謀略を端緒とするものであり、決して公にすることのできないものでした。おそらくこの”負い目”が、関東軍をして、中国に「満州国の独立」の承認を執拗に迫る心理的動機になっていたのではないかと思われます。しかし、いずれにしても、政治的には「満州国」が現に存在しているという事実から支那との国交調整交渉を開始せざるを得なかった。

 この点については、満州事変当時外務大臣であった幣原喜重郎も同様で、「支那の出方一つで満州国の独立は支那の利益になる。独立しても血が繋がっているのだから本家と分家の関係位に見て居ればよい」「それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取消などに騒ぐ支那の政治家の気が知れない」と言っていました(昭和7年11月頃の幣原の談話)。おそらくこうした観点が、その後の支那の、日中親善の友好関係を求める三原則の提示につながったのではないかと思われますが・・・。

 また、以上紹介した佐藤尚武外相の外交方針は、明らかに、この中国側三原則を踏まえて日中国交調整を図ろうとするものであり、それ故に、彼はそれは「日本の考え方如何によって決まる」と言ったのです。つまり、「危機を欲するならば、危機はいつでも参ります。これに反して、日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けてゆきたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つで、その危機はいつでも避けられる」と言ったのです。

 それ故に、危機だ危機だと騒ぎ立てることは、却って戦争を招き寄せるようなことになる。従って、「日本のような国柄では、できるだけ国民を落ち着けて、この焦燥気分をなくす」ことが最も必要だ、と言ったのです。その上で、先に述べたような対支政策を取りさえすれば、オタワ協定以来のブロック経済が引き起こしているイギリスとの貿易摩擦も解消出来るし、自然にアメリカとの関係も調整出来ると言ったのです。

 こう見てくれば、石原莞爾の説いた「最終戦総論」(=東洋王道文明のチャンピオンたる日本と西洋覇道文明のチャンピオンたるアメリカが、宿命的に文明史的最終戦争を戦うというもの)が、いかに、現実政治を処する上で途方もないものであったかということが判ります。石原は、日中戦争を食い止めるため華北分治を抛棄し「満洲の経営に専念すべき」ことを説きました。しかし、この「最終戦争論」については、その後、それを抛棄したという形跡は見あたりません。

 この、一種終末論的な宗教的危機意識の創出とその蔓延とが、日本軍及び日本人を金縛りにし、幣原喜重郎や佐藤尚武らの言う外交交渉による、対支国交調整、さらには対英・対米国交調整を不可能にしたのではないか。そのため、中国はついに日本との「抗日全面戦争」を決意し、上海事変に始まる長期時給戦争を戦うことになった。この間、日本人は何のために中国と戦争しているのか分からず、しきりに和平工作を繰り返した。しかしうまくいかず、しまいには、その原因を米英の中国支援に求めることになった。

 これが、日本が米英との戦争に突入した際、多くの日本人が、この戦争の意義を、「弱いものいじめ」の居心地悪さから、植民地主義的帝国主義への挑戦へと、大転換し驚喜した心理的メカニズムだったのです。不思議なことに、ここでは「『中国』がいかなる意味でも問題にされて」いなかった(亀井勝一郎)。それ程、当時の日本人は「東洋王道文明」のチャンピオンとして自らを自負し、中国の独立国家としての体面は無視していたのです。

 石原の保持したこうした思想が、決して彼一人のものではなく、当時の日本人一般の気分を代表するものであった、ということがこれで判ります。