日本はなぜ満洲に満足せず、華北分離工作を始めたか、また、石原はなぜそれを止められなかったか

2010年11月23日 (火)

健介さんへ

 知識の整理のため、少々長くなりますが、日本軍の華北分離工作の「おさらい」をしておきます。

>支那事変(父親は北支事変と呼びました)が起きる前に、「日本軍の華北分離工作にあった」(といいますが、日本は)これを画策しましたか?成り行きでそれがおきたに過ぎないのではないですか。

tiku 7月7日に廬溝橋事件が発生した当初の日支の武力衝突を日本は北支事変といいました。しかし、それが上海に飛び火して日中の全面戦争に発展したため、政府は9月2日これを日支事変と呼び変えました。

 で、日本軍の華北分離工作についてですが、案外これが知られていないのですね。多母神氏の論文では、華北分離工作どころか満州事変にも触れていなくて、ただ、満洲における日本の条約上の権益が張学良に侵害されたことばかり言っています。こんなことでは、公正な議論ができるはずがありません。

 確かに、国民政府の革命外交はやり過ぎでした。張学良は日本の意に反して易幟(エキシ)を行い、国民政府に合流し排日運動を繰り広げました。なにしろ彼は、父親を日本軍に爆殺されたことを心底恨んでいましたからね。だが、そうした行動が、満州事変を引き起こす口実を日本に与えたことは否めません。

 蒋介石は、昭和10年至ってそのことを反省し、広田外相に対して(一)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること、(二)両国は真正の友誼を維持すること、(三)今後、両国間の一切の事件は、平和的対抗手段により解決すること、の三項目を提示し(2月26日)、日中親善の関係改善を図ろうとしました。これに対して広田外相も「蒋介石氏の真意にたいしては、少しも疑惑を持たない」と言明し、中国の対日態度転向は天佑である、などと述べました。

 これに対して陸軍は、外務省の対華親善政策を批判し、中国の対日態度転換は欺瞞だといい、国民政府をして親日政策を取らざるを得ないようにするためには、「北支那政権を絶対服従に導き」、それと日本との「経済関係を密接不可分ならしめ、綿、鉄鉱石等に対し産業開発及び取引を急速に促進す」る必要があるとしました。

 そして、政府の日中親善政策を妨害するため、昭和10年6月の天津の親日新聞社長らの暗殺事件を口実として、露骨な武力的威嚇により中国に、「梅津・何応欽協定」(国民党勢力の河北省からの撤退:昭和10年6月10日)、「土肥原・秦徳純協定」(国民党のチャハル省からの撤退、長城線以北からの宋哲元軍の撤退:昭和10年6月27日)を押しつけました。

 こうした日本軍の妨害活動にもかかわらず、中国は対日親善方針は不動であるとして、先に広田に示した三原則の実現により、日支両国が真の朋友となり、経済提携の相談もでき、さらに「共通の目的」のため軍事上の相談をなすこともできるといいました。最大の難問は満州問題ですが、これについては「蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日はこれを不問に付す(日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずと言う意味)」と説明しました。

 これに対して広田三原則が示される事になったわけですが、次に、その三原則についての外務省案(7月2日)と、それに対する陸軍省案(三項)及び海軍省案(六項)を比較して見てみたいと思います。

(前文) 
外:日満支三国の提携共助に依り東亜の安定を確保する・・・
陸:「日本を盟主とする」を「日満支三国の・・・」の前に付す
海:「日本を中心とする」を「日満支三国の・・・」の前に付す

外:(一)支那側に於て排日言動の徹底的取締を行ふと共に、日支両国は東亜平和の確保に関する其の特殊の責任に基き、相互独立尊重及提携共助の原則に依る和親協力関係の設定増進に努め(経済的文化的方面より着手す)且更に進むで満支関係の進展を計ること。

陸:(一)「・・・の徹底的取締を行はしめ」の後に、「欧米依存より脱却し」を挿入するとともに、「日支両国は東亜平和の確保に関する其の特殊の責任に基き、相互独立尊重及提携共助の原則に依る和親協力関係の設定増進に努め」という、中国側三原則に対応する文言を削除した。

海:(一)「帝国は支那の統一または分立を援助若は阻止せざることを建前とするも、支那が帝国以外の強国の助力に拠りて其の統一又は分立を遂行せんとする場合あらばこれを阻止するに努めること」とした。ここで、海軍は「帝国は支那の統一または分立を援助若は阻止せざることを建前とする」ことを強調しており、この点については、外務省も付属文書で、「本件施策に当り、わが方の目的とするところは、支那の統一または分立の助成もしくは阻止にあらずして、要綱所載の諸点の実現に存す」としていました。

外:(二)右満支関係の進展は支那側に於て満洲国に対し正式承認を与ふると共に、之と雁行し相互独立尊重及提携共助の原則に依り、日満文三国の新関係を規律すべき必要なる取極をなすことを以て結局の目標とするも、差当り支那側は少く共接満地域たる北支及察哈爾(チャハル)地方に於て満洲国存在の事実を否認することなく、反満政策を罷むると共に進んで満洲国との間に事実上経済的及文化的の融通提携を行ふこと。

陸:(二)満州国については外務省案に「満州国存在の事実を認め」という文言を挿入している。また、(一)と同様、中国側三原則に対応する「相互独立尊重及提携共助の原則に依り、日満文三国の新関係を規律すべき必要なる取極をなすことを以て結局の目標とする」という文言を削除した。

海:(二)支那側の排日言動の取締り、欧米依存からの脱却、対日親善政策の採用を述べている。

外:(三)外蒙等より来る赤化脅威が日満支三国共通の脅威たるに顧み察哈爾其の他外蒙の接壌方面に於て少く共日支間に特に右脅威排除の見地に基く合作を行ふこと

陸:(三)外務省案にほぼ同じ

海:(三)日満支の経済的・文化的和親協力関係の進展並びに日本の軍事的勢力の扶植に努めることを述べている。

*海軍案は三項目を六項目としたため、次の四、五、六がある。
海:(四)満州国について、ほぼ外務省案と同じ
海:(五)外務省案の(三)にほぼ同じ
海:(六)「日満支間の相互独立尊重提携共助の原則による和親協力の設定」は、日本が支那の日満両国との和親提携の態度が確認し、且つ支那が満州国を承認した後、となっている。
なお、陸軍案も、この海軍と同様の内容の条件文を後文として付している。

 最終的には、三省協議の結果「広田三原則」(昭和10年10月4日)は概略次のようになりました。
前文の冒頭には「帝国を中心とする」が付され、
(一)支那側をして平日限道の徹底的取締、欧米依存政策からの脱却、対日戦前政策の採用する
(二)支那側をして満州国に対し究極においては正式承認を与えしむる事必要なるも、差当たり満州国の独立を事実上黙認し反満政策を罷めしむる・・・
(三)支那側をして外蒙接壌方面において赤化勢力の脅威排除のためわが方の希望する諸般の施設に協力せしむる・・
後文として、以上の日満支提携に関する支那側の誠意が確認されれば、日支間の親善協力関係の設定に関する包括的取り決め等を行う、という条件が付されました。

 総括的に言えば、この「広田三原則」からは「中国側三原則」に対応した文言が消えてしまったこと。また、外務省と海軍が主張した「本件施策に当り、わが方の目的とするところは、支那の統一または分立の助成もしくは阻止にあらずして、要綱所載の諸点の実現に存す」というような「華北分離工作」をしない旨の文言も消えました。

 この三原則に対して中国側はつぎのように答えました。
(一)今後、両国の親善関係を実現するため、中国は各国との関係につき、日本を排除しあるいは妨害するようなことはしない。
(二)満洲の現状については、決して平和的以外の方法により、事端を起こすようなことはしない。
(三)北辺一帯の赤化防止については、日本が「中国側三原則」を実行するならば、之に関する有効な方法を協議する。

 この中で最大の問題が、満州国承認の問題で、日本側の「事実上の承認」と中国側の「不問に付す」(蒋介石)という見解にはなお距離のあることが明らかになりました。中国側の言い分としては、現状において「満州国承認」をすることは国内政治上持たないということで、この問題は将来の問題として棚上げするほかない、と考えていたのではないかと思います。事実、この交渉の中国側担当者であった王兆銘はこの交渉の後、対日融和を図ったと言うことで狙撃されています。

 その後、中国はイギリスの支援で幣制改革を断行しました(昭和10年11月4日)。これに対して日本陸軍は、「国民政府の幣制の統一は、ひいては同政府による政治的統一をもたらすことになる」としてこれの妨害を試みました。しかし、この改革は、約一ヶ月後には成功と認めざるを得なくなりました。そこで陸軍は、これを「満州事変以来の日本軍の行動に対する英国側の反撃ととらえ」華北自治運動を急速に展開したのです。

 外務省は、こうした陸軍の華北自治工作には批判的でしたが、陸軍側に押しきられて軽度の自治宣言を出すというその主張を承認してしまいました(11月18日)。有吉大使はこうした自治工作を軍事力を背景に強行することは、「支那全国の世論をあおり、両国の全面的関係を悪化せしめ、蒋介石はもとより、何人もこれを収拾し難き事情にたり至らしむる」として粘り強く反対しました。

 結局、日本の出先陸軍による華北自治運動は挫折しましたが、陸軍は、この際何としても「華北自治」を実現しようとして、日本の傀儡であることに甘んじている殷汝耕に通州で自治宣言をさせ、同時に「冀東防共自治委員会」を設置させました(11月25日)。これに国民政府は激しく反発しましたが、国民政府としては、こうした華北の自治運動に先手を打つために、冀察政務委員会を発足させました(12月18日)。

 このように華北の政治状況が混迷を深める中、日本国内では、昭和11年2月26日、二・二六事件が勃発、岡田啓介内閣が崩壊し広田弘毅が新内閣を組織することになりました。この時、関東軍参謀長であった板垣は、外相予定者であった有吉に対し「国民政府を否定し、日中親善工作を不可能視し、広田三原則を空文だと断定し、中国の分治工作を説」きました(昭和11年3月18日)。

 こうした主張は、陸軍が年来持っていたものですが、この時板垣は、こうした中国の分治工作の必要性について、それは満州国の健全なる発達を図るだけでなく、早晩衝突する運命にある対ソ戦に備えるためのものである、と述べています。また、国民党はソ連と友邦関係に入る公算が大であり、帝国と親善関係に入る能わざる本質を持っているので、華北を分立し、それと日満支提携する必要があると説いています。

 ところが、昭和10年8月1日に参謀本部作戦課長に石原莞爾が就任すると、陸軍中央部もようやく、従来の場当たり的国防計画から、長期的・組織的な計画(「重要産業五ヵ年計画」など)を持つようになりました。その結果、「第二次北支処理要綱」(昭和11年8月11日)では、「支那領土権を否認し、または南京政府より離脱せる独立国家を育成し、あるいは満州国の延長を具現するを以て帝国の目的たるが如く解せらるる行動は厳にこれを避」けるという文面が見られるようになりました。

 そうした方針転換の背後には、「まず、対ソ戦争を防止するに足る戦備の充実を図ること。そのためには、日本と華北の経済合作が不可欠であり、中国との経済的合理的提携を図らなければならない。そうすることによって日・満・支の総合国力の充実を図り、三十年後に予想される日米の一大決戦に備えるべきである」という、石原莞爾の「最終戦総論」に基づく考え方があったのです。

 上記の「第二次北支処理要綱」の付録二には、「華北の国防資源中、すみやかに開発を図るべきものの例として、(一)鉄鋼(竜烟鉄鉱河北省内の有望な諸鉄鉱の開発)、(二)コークス用炭鉱(河北省井陘炭鉱を日本合弁とし山東省、淄川・博山炭鉱など付近一帯の小炭鉱の統合経営を誘導し、開ラン炭鉱は究極において、日・英・華三国の合弁事業とするよう指導する)」等があげられていました。

 こうした中、広田内閣は、川越茂(駐華大使)・張群(外交部長)会談を継続することによって中国との国交調整に努めましたが、昭和12年1月23日、軍部の攻勢に屈して総辞職しました。その後、組閣の大命は宇垣一成に下りましたが、陸軍側の強硬な反対を受けて組閣を断念、大命は一転して林銑十郎に降下、2月2日林内閣が成立しました。外相には佐藤尚武が迎えられました。

 この内閣では、従来の対華政策に反省が加えられ、華北分治策の抛棄と冀東政府の解消が説かれ、ここに石原構想が対華国策をリードするようになりました。それは、ソ連の脅威に加えて、綏遠事変の失敗、西安事件の結果としての国共合作がなされたことによります。また、国防力の充実を図るため、前年の「重要産業五ヵ年計画」に引き続いて「軍需品製造工業五年計画要綱」が決定されました。 

 日本の対華方針がこのように見直されつつある一方で、中国政府はそれまでの対日宥和政策から次第に高姿勢に転じるようになりました。石原はこうした一蝕即発の日中関係を改善すべく、上述したような考えに基づき部内の思想統一に努めました。しかし、中国全土に広がった抗日の風潮は止めがたく、一方、日本軍内には「暴支膺懲」の「一撃論」が擡頭するようになり、そんな中でついに7月7日、廬溝橋事件が発生したのです。

 ところで、この時の石原の対支政策の転換が、関東軍はじめ陸軍省や参謀本部の幕僚軍人になぜ十分な説得力を持たなかったか、ということですが、私は、それは、石原が掲げたような「東洋王道文明vs西洋覇道文明」という対立図式、その中で日本が東洋王道文明のチャンピオンであり、日本は中国を導いて西洋覇道文明に対決しなければならない、といったような考え方が彼らに共有されていたからではないかと思います。

 そのため、中国を対等な独立国と見る視点を失ってしまった。同時に、イギリスやアメリカを、無意識的に西欧覇道文明と決めつけたために、それとの平等・互恵の国交関係を樹立することができなくなってしまった。さらに、そうした対立図式を持つ思潮が日本の伝統思想である尊皇思想と結びついて、当時の日本の社会を蔽ってしまったために、それから抜け出すことができなくなってしまった。

 どうも、そのようなことではなかったか、と私は思っています。つまり、石原と彼に反対した中堅幕僚との違いは、目的や手段の違いではなくて、単なる手順の違いに過ぎなかったのではないか。それゆえに、石原の言は十分な説得力を持ち得なかったのではないか、と思うのです。もちろん、そこには満州事変以来の下剋上的体質や軍人特有の功名心もあったでしょう。しかし、日本が先に紹介したような袋小路の思想に陥らなければ、当時の日本が直面した数々の困難を乗り越える術はいくらでもあった。広田もそれを知る一人であったはずですが・・・。

(健介さんの次のご意見)
>(終戦に向けて陸軍の面子を立てるためには)極端な話、内閣がポツダム宣言を受諾したといえば、それで案外と収まったと思います。

tiku 陸軍の”面子”と言うことをいうなら、唯一考えられるのは、アメリカがなぜ「無条件降伏」ということを言い出したか、ということがありますね。『幻の終戦工作』(竹内修司)によると、この言葉が戦い続ける双方を呪縛した、といいます。後日、勉強してみたいと思います。それで早く戦争を止められたら、原爆やソ連参戦に伴う犠牲も避けられたわけですからね。 

『太平洋戦争への道3』『日本外交年表 竝 主要文書(下)』『現代史資料8日中戦争1』参照