日中戦争は海軍の上海派兵が原因か、また、終戦の「聖断」はどのようになされたか

2010年11月20日 (土)

健介さんへ

>(米内が上海への陸軍派兵を要請したことについて)これはお答えいただきましたが、第二次上海事変が始まったときに、即座にそれを言うなら分かります。当時中国大陸における兵力配置すら知らなかったでしょうか。少し時間がたってから態度を変えています。
その間に何があったのかです。居留民保護を目的とするにしても、引き上げる判断も可能であったというのは後知恵ですが、私はもっと言うと国際社会の支持を得るには、ある程度、邦人の犠牲が出てから、行動をする判断が必要ではなかったかと思います。
別に彼等の陸軍嫌いが事変拡大の大きな原因ではなかったかという視点も必要ではないですか?

tiku まず、北支事変が上海事変に発展していった歴史的経過をより詳しくたどってみたいと思います。 

 石原は「上海出兵は海軍が陸軍を引きずっていった」ものと回顧しています。確かに、上海の第三艦隊などに全面戦争を想定した作戦計画があったことは事実です。しかし、それはあくまで、華北の紛争が全中国に波及した場合に備えるもので、それを望んだわけではありません。従って、北支事変を「最も真剣で寛大な条件による政治的収拾」を試みた東亜局が示した「船津案」(1933年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部を放棄するもの)に海軍は全面的に同意していたのです(この交渉は大山事件で挫折)。

 一方陸軍はどうか、石原は三省(陸・海・外)協議を経て「船津案」にそった停戦交渉案および国交調整案をまとめました(8月4日外務省から現地の船津に打電)。しかし、陸軍部内の大勢、特に中堅層以下は徹底膺懲論が横行しており、戦争指導課の「北支処理要綱」(8月9日総長決裁)は冀察を改変した華北の現地政権樹立をいい、特に、関東軍は「対時局処理要綱」(8月14日上申)で、華北五省・自治政府の樹立、南京政府の解体を説き、外交交渉による戦争の終結に反対していました。

 この間、上海周辺への中国軍の軍隊集中が顕著となり、8月にいると閘北(ザホク)方面で保安隊が連夜演習を行い不安が増大したので、上海総領事は8月6日上海居留民に租界への退避命令(婦女子は日本に引き揚げ)、さらに揚子江全流域の居留民に引き揚げ命令を発しました。8月9日大山巌事件が発生、8月10日閣議で上海居留民の現地保護方針を確認、12日米内海相が陸軍に派兵を提議、これまで不拡大を希望してきた天皇も「かくなりては外交にて収ることはむずかしい」と述べ、13日内地二個師団の上海派遣が決定しました。

 13日夜、日中両軍(中国軍4~5万、陸戦隊2,500)の間で戦闘開始、翌14日、中国空軍は上海停泊中の第三艦隊に先制攻撃、15日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設けて蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任し全面戦争に突入しました。8月19日増援の特別陸戦隊2,400名が上海到着、その後陸戦隊は、8月23日に内地二個師団が上陸を開始するまで、十倍ほどの中国軍の精鋭を相手に闘い抜きました。これによって内地師団の上陸がようやく可能になったのです。蒋介石はこの陸戦隊との初戦で日本軍を消滅できなかったことを悔やんでいます。

 しかし、中国はすでに前年末より上海方面を決戦場と定め兵力を集中していたため、その後の上海やその周辺における戦闘は激烈を極めました。そのため、先に派遣された第三、第十一師団の戦力は半減しました。しかし、石原は、この時期に至ってもなお戦局の拡大に反対し、苦戦する上海への増兵を容易に許可しませんでした。ようやく9月9日になって第九、第十三、第百一師団ほかの動員を下令、22日から上海上陸が開始されました。石原はこの増員の決定と共に辞任、後任には下村定少将が就任しました。

 その後も中国軍は次々と兵力を投入し(一日一個師約一万人といわれる)激しく抗戦したため、上海での戦いは旅順攻略戦に比するほどの膨大な犠牲を生むことになりました。これについては同盟通信の松本重治が「上海の戦いは日独戦争である」と書いたように、中国軍はドイツ軍の訓練を受けた精鋭がドイツの兵器で戦っていたのです。そこで、下村定少将は上海南方60キロの杭州湾に第十軍(第六、第十八、第百十四師団ほか)を上陸させました。これを機に中国軍は総退却に転じ、11月9日日本軍は上海を封鎖しました。

 この約三ヶ月の戦闘で日本軍は戦死者10,076名、戦傷者31,866名、あわせて41,942名の戦死傷者を出しました。一方、中国軍の被害も大きく、この間の戦死傷者は約30万に達したと言われます。一方、華北戦線はその後どうなっていたか。ここでの戦闘は、8月11日から河北省とチャハル省の境界線の山岳地帯から始まりました。関東軍参謀長の東條英機はチャハル兵団を編成し、軍司令官に代わり指揮をとって西進し、27日張家口、9月13日大同、24日平地泉、10月14日綏遠を占領し、10月17日包頭(パオトウ)まで進出して内蒙古の占領を完了しました。

 また、8月31日に編成された北支那方面軍の第一軍は平津戦沿いに、第二軍は津浦戦沿いに南下しました。その総兵力は八個師団約十万に達しました。また、チャハル省に入った第五師団は関東軍と呼応しつつ、山西省北部に突入しました。これに対し、参謀本部は対ソ危機に備える理由でこれら現地軍の積極論をおさえましたが、現地軍は9月20日頃から華北五省占領論に傾き、南京戦後の12月14日には早くも北平に中華民国臨時政府を立ち上げるほどの手回しの良さを見せています。(以上『太平洋戦争への道4「日中戦争(下)」』、『日中戦争はドイツが仕組んだ』参照)

 以上、廬溝橋事件後の日本軍の戦線拡大について見てきましたが、蒋介石は、昭和10年の広田弘毅外相との交渉の経過から見て、日本はすでに二重政府状態に陥っており、日本軍が華北分離工作を止めることはなく、従って、抗日戦争は不可避と見ていました。そこで、昭和11年頃からその主戦場を上海と見定め準備を進めていたのです。廬溝橋事件の発生はその準備完了までにはいささか早すぎたわけですが、中国国民の抗日意志の高まりには抗し難く、ついに全面戦争を上海戦より本格発動することになったのです。上海の陸戦隊はこの攻撃に対する応戦を求められたわけです。

 この時海軍が、居留民及び陸戦隊の全員引き揚げと決意していれば、確かに上海戦も南京事件も起こらなかったでしょう。しかし、その結果、上海だけでなく揚子江沿岸の全日本権益は消滅したでしょう。これは日本にとっては完全敗北、中国にとっては戦わずして大勝利ですから、中国はその余勢を駆って華北に攻め込んでいる北支那方面軍や関東軍との決戦に臨んむことになったと思います。いずれにしても、中国との全面戦争は避けられなかった。というのは、日中戦争の根本原因は、日本軍の華北分離工作にあったからで、これを止めない限り、日中戦争を止めることはできなかったと思うからです。

>>誠に残念なことですが、陸軍が一億玉砕の徹底抗戦から敗戦(無条件降伏)を意識するようになったのは、原爆とソ連参戦の後だったということです。

>現象はそれでしょうが、内実は異なると思います。陸軍は自分の面子を立ててくれれば、即座に賛成でしたでしょう。その証拠に終戦後において、軍人が抗戦をしましたか?天皇陛下の命令で、それまでの言動を停止しています。自らの目的で始めた戦争ならそれと対比して行動ができますが、異なるからではないですか。要するに対米戦争は後ずけということです。(要するにしかけられた戦争と言うこと?=筆者)

tiku いわゆる「聖断」で戦争を止めることが、どういう方法あるいはタイミングで可能だったか、ということですね。よく「聖断」で戦争を止められたのだから、対米英開戦の止められたのでは?ということが言われます。しかし、天皇の国政総覧の大権は、明治憲法によって内閣の補弼及び軍の補翼によることとなっており(前者は大臣の副署を要し、後者は陸軍の参謀総長、海軍は軍令部総長が実質的権限を持っていた)、天皇がそのルールを例外的に踏み外したのは、二・二六事件の時と終戦の時の二回だけだと天皇自身が言っています。前者は首相が殺された(実際は不明)という緊急非常事態への対応、後者は、御前会議で行われた最高戦争指導会議の評決が三対三となり、最後の「聖断」が天皇に求められたためです。

 この点、軍が天皇機関説を排撃し国体明徴を訴えたのは、天皇の勅命の絶対性を主張していると見せながら、その真のねらいは、その勅命の大義名分を重臣、内閣、議会から奪い取るためだったのです。その一方で軍は、天皇が軍の意に沿う存在であることを当然とし、その「期待に背く『玉』はいつでも取り替える」としていたのです。「特攻戦法の創始者である大西軍令部次長は(天皇の「聖断」に対し)『天皇の手をねじりあげても、抗戦すべし』」と言っています。8月15日自刃した阿南陸相は14日午前7時の梅津との話し合いでも梅津にクーデターを呼びかけています。

 それというのも、終戦時、陸軍は、いまだ国内外に550万の兵力を擁しており、もし、ソ連参戦や、原爆による一般国民の大量殺傷という事実に直面していなければ、徹底的な「敗北感」を持つことが出来ず、クーデターを起こして天皇をすげ替え「一億玉砕」の本土決戦に突入したかもしれないのです。軍人の多くが、天皇の「聖断」に対して個人的には「抗戦→絶望→虚脱の過程をたどって既成事実を受容する心境に至った」とされるのも、天皇の「聖断」の重みと、そうした「現実」の重みが重なったからではないでしょうか。(『昭和史の謎を追う(下)』「終戦史再掘(上)聖断の構造」参照)

 ところで、健介さんの言われる「陸軍の面子を立ててあげたら即座に(ポツダム宣言受諾に?)賛成した」というその「陸軍の面子」とは何でしょう?また、「自らの目的で始めた戦争ではない」と言うなら、これは日米戦争より日中戦争について言うべきで、確かに、日中戦争は何のために始めた戦争か分からなかったから、戦争の目的達成と言うこともなく、だらだらと8年間も中国と戦い続けることになったのです。その戦争目的の不明確さがひいては日米戦争を止められなくしたというなら、それはその通りというほかありません。

(以下追記11/21)

 欧米各国は、日本の戦争目的を「満州国を中国に承認させること」と理解していたという。そして、広田外相が駐日独大使ディルクセンに日本の和平条件(ほぼ船図案に沿った内容)を提示したのが11月2日、これが駐華大使トラウトマンを通じて蒋介石に伝えられたのが11月5日。蒋介石はその約一月後の12月2日にこの提案を基礎に日本と和平交渉に入ることを伝えた(12月7日)。ところが、日本はその交渉に入ることなく中支那派遣軍は12月10日南京城の総攻撃を開始した。

 一方、南京城を守備していた中国軍は降伏しないまま12月12日まで抗戦を継続した。ところが12日夜、司令官唐生智は守備隊約3.5万に「各隊各個に包囲を突破」することを命令して、自らは揚子江北岸に約1.5万の兵と共に逃走した。このため、約3.5万の中国兵が武器を棄てて安全地帯に潜り込んだり、南京城周辺で日本軍に殲滅されたり、大量の捕虜になったりした。

 日本軍はこうした混乱の中で、これらの中国兵の多くを敗残兵あるいは便衣兵として処理したが、これが、欧米各国の記者の目には、「南京城総攻撃の意味不明」とともに日本軍の残虐性を印象づけるものとなった。それが中国の国民党宣伝部の工作もあって、軍人ではなく一般婦女子の虐殺・強姦事件にすり替えられ、東京裁判で「南京大虐殺」として喧伝されることになった。