岡田外相の「バターン死の行進」公式謝罪で、日本人が思い出さなければならないこと

2010年9月15日 (水)

 岡田外相は13日昼、第2次世界大戦中に日本軍がフィリピン・ルソン島で米軍などの捕虜約7万人を約100キロ歩かせ、多くの死者を出したとされる「バターン死の行進」(参照)で生き残った元米兵捕虜らと外務省で面会し、「非人道的な扱いを受け、ご苦労され、日本政府代表として、外相として、心からおわび申し上げます」と外相として始めて公式に謝罪しました。(2010年9月13日13時25分  読売新聞)

 へえ、この問題を何で今ごろと?と怪訝に思いましたが、おそらくこれはアメリカのルース大使が広島の原爆忌に参加したことに対する見返りなのかなあ、とも思いました。ルース大使は、8月9日の長崎の平和祈念式典はスケジュール上の都合で欠席しましたが、9月26日の長崎日米協会の40周年記念式典に出席し、長崎原爆資料館を視察し、献花する方向で調整しているとのことです。

 ただし、それはアメリカが原爆投下について日本に謝罪するということではなくて、核兵器のない世界というオバマ米大統領の構想を推進する目標を共有するためのものだということです。ルース大使の8月6日の「原爆忌」での声明も「未来の世代のために、私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、今後も協力していかなければならない」とするに止まっています。

 また、ルース大使の原爆忌への参加について、クローリー米次官補は自身のツイッターで「米政府代表の初出席を「日本との友好関係の表れ」と説明。「米国は第2次世界大戦後の日本の復興を助け、敵国を信頼できる同盟国に変えたことを誇りに思ってきた」と述べ、その上で「広島では、謝罪することは何もないが、戦争の影響を受けたすべての人々に配慮を示す」と強調しています。「時事ドットコム」(2010/08/07-11:03)

 そんな調子ですから、岡田外務大臣の「バターン死の行進」の生き残りである元米兵捕虜を外務省に招いてので公式謝罪が、いかにも唐突に見えたわけです。この謝罪に対して、日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳事務局長は「バターン死の行進については日本軍が米兵捕虜だけに非人道的扱いをしたかは評価がわかれている。米国が原爆投下などについて謝罪していない段階で、一方的に日本だけ謝罪する必要はない」と批判しています。

 私自身も、「バターン死の行進」といわれる事件については、山本七平氏の著作を通して、この事件の概要や問題点を把握していましたので、冒頭に述べたように何らかの政治的取引があったのではないかと思いました。しかし、それにしてもいささかバランスを失しているのではと思われました。また、日本国民には、この謝罪に至る説明が何もなされていませんので、国内的にはかなりの反発を生むのではないか、とも思いました。

 そこで、この機会に、この事件に関する山本七平氏の見解を紹介したいと思います。氏は、この事件を、当時の日本軍の「行軍」の問題と比較するとともに、味方の兵力に数倍する捕虜が現れた時の混乱、そして、日本軍の組織の命令系統を無視した一部参謀による「私物命令」の乱発、などの問題点を指摘しています。いずれも、戦後生まれの私たちには想像だにできない問題ですが、今回の唐突な外相公式謝罪を機会に、この事件の実相を伺うことも、あながち無駄ではないと思うからです。

(日本軍の行軍について)
「有名な「バターンの死の行進」がある。・・・この行進は、バターンからオードネルまでの約百キロ、ハイヤーなら一時間余の距離である。日本軍は、バターンの捕虜にこの間を徒歩行軍させたわけだが、この全行程を、一日二十キロ、五日間で歩かせた。武装解除後だから、彼らは何の重荷も負っていない。一体全体、徒手で一日二十キロ、五日間歩かせることが、その最高責任者を死刑にするほどの残虐事件であろうか。後述する「辻正信・私物命令事件」を別にすれば――・・・だがこの行進だけで、全員の約一割、二千といわれる米兵が倒れたことは、誇張もあろうが、ある程度は事実でもある。三ヵ月余のジャングル戦の後の、無地における五日間の徒歩行進は、たとえ彼らが飢えていなかったにせよ、それぐらいの被害が現出する一事件にはなりうる。

 だが収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われたときのわれわれの心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に、捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである。日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのはあたりまえであった。そしてこれは単に行軍だけではなくほかの面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。

 こういう背景から出てくる本間中将処刑の受取り方は、次のような言葉にもなった。「あれが”死の行進”ならオレたちの行軍はなんだったのだ」「きっと”地獄の行進”だろ」「あれが”米兵への罪”で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への罪”で全部死刑だな」

 当時のアメリカはすでに、いまの日本同様「クルマ社会」であった。自動車だけでなく、国鉄・私鉄等を含めた広い意味の「車輛の社会」、この社会で育った人は、車輛をまるで空気のように意識しない。そして車輛なき状態の人間のことは、もう空想もできないから、平気で「来魔(くるま)」などといえても、重荷を負った徒歩の人間の苦しみはわからない。「いや私は山歩きをしている」という人もいるが、「趣味の釣り人」と「漁民の苦しみ」は無関係の如く両者は関係ない。否むしろ、山歩きが趣味になりうること自体、クルマ時代の感覚である。

 当時アメリカ人はすでにその状態にあった。従って彼らは、バターンの行進を想像外の残虐行為と感じたのであろう。しかし日本側は、もちろん私も含めて、相手がなぜ憤慨しているのかわからない。従って「不当な言いがかり、復讐裁判」という感情が先に立つ。だが同じ復讐裁判と規定しても、戦後の人の規定とは内容が逆で、前者は「これだけの距離を歩くことが残虐のはずはない」であり、後者は「確かにひどいが、われわれはもっとひどかったのだから差別ではなく、故意の虐待でもない」の意味である。

 一番こまるのは、同一の言葉で、その意味内容が逆転している場合である。戦無派と同じ口調で戦争を批判していた者が、不意”経験のないヤツに何がわかるか!”と怒り出すのはほぽこのケース。そこには、クルマ時代到来による、その面のアメリカ化に象徴される戦後三十年の激変と、それに基づく「感覚の差」があるであろう。
(『一下級将校の見て帝国陸軍』p339~343)

(味方の兵力に数倍する予想外の捕虜の出現がもたらす混乱)
「捕虜の収容で一番困る問題は、それが終戦または停戦で不意に発生し、しかし何名になるか見当がつかないことである。「バターン死の行進」の最大の原因は、二万五千と推定していた捕虜が七万五千おり、これがどうにもできなかったということが主因で、これも「捕虜だから」特にどうこうしたとはいえない。戦場では、善悪いずれの方向へもそういう特別扱いをする余裕がないのが普通である。」(『ある異常体験者の偏見』p151)

 「日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に提出されたものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、トラックの大部分が修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、経戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に当てねばならなかった。結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。この区間の行軍が「死の行進」と呼ばれた。

 米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、さらに炎天下で行進が行われたために、約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。」(wiki「バターン死の行進」「日本軍の捕虜護送計画の実態」)

(次は、奈良兵団連隊長今井武夫による、大量の「捕虜出現」の状況説明と、辻正信の発した「私物命令」への対処について)『支那事変』今井武夫著より

 「わが連隊にもジャッグルから白布やハンカチを振りながら、両手をあげて降伏するものが、にわかに増加して集団的に現われ、たちまち一千人を越えるようになった。午前十一時頃、私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。とくに、連隊長を指名した電話である、何か重要問題であるに違いない。私は新しい作戦命令を予期し緊張して受話機を取った。附近に居合わせた副官や主計その他本部附将校は勿論、兵隊たちも、それとなく、私の応答に聞き耳を立てて注意している気配であった。

 電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った。それは、『パターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊をあげて降伏を申出たが、、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。その結果、米比軍の投降者ははまだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊に手元にいる米日軍の投降者を一律に射殺すべし、という大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ』というものである」と書いている。

 今井は、投降捕虜を一斉に射殺せよと兵団参謀より命ぜられたのである。だが、彼はこの命令に人間として服従しかね一瞬苦慮したが、直ちに、「本命令は事重大で、普通では考えられない。したがって、口頭命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達されたい」と述べて電話をきった。そして、直ちに、命令して部隊の手許にあった捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するよう指示し、一斉に釈放してしまった。これは、今井連隊長、とっさの知恵であった。そこに一兵の捕虜もいなければ、たとえ、のちに命令が来ても、これを実行すべきものはないからだ。だが、連隊長の要求した筆記命令はこなかった。
(中略)
事実、参謀が口にする、想像に絶する非常識・非現実的な言葉が、単なる放言なのか指示なのか口達命令なのか判断がつかないといったケースは、少しも珍しくなかった。ではその放言的「私物命令」の背後にあ、つたものは何であろう。・・・また何がゆえに、捕虜を全員射殺せよとの”ニセ大本営命令”が出たり、その参謀が”全部殺せ”と前線を督励して歩いたあとを副官がいちいち取り消して廻るといった騒ぎまで起るのか。陸軍刑法第三条にははっきり「檀権罪」が規定され、越権行為は処罰できることになっている。

 第一、参謀には指揮権・命令権はないはず、そしてこの権限こそ軍人が神がかり的にその独立と神聖不可侵を主張した「統帥権」そのものでなかったのか。何かあれば統帥権干犯と外部に対していきり立つ軍人が、その内部においては、この権限を少しも明確に行使していなかった。このことは、「私物命令」という言葉の存在自体が証明している。」(『一下級将校の見て帝国陸軍』p387~389)

 現在では、この私物命令の発令者が、大本営派遣参謀辻正中佐であったことが明らかになっています。彼は、「敗戦後、僧侶に変奏して逃亡・・・この脱出は蒋介石の特務機関である軍統(国民政府軍事委員会調査統計局)のボス、載笠の家族を過去に助けた経緯から成功したものという。1948年に上海経由で帰国して潜伏、戦犯時効後の1950年に逃走中の記録「潜行三千里」を発表して同年度のベストセラーとなった。

 戦後、旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。ベストセラー作家としての知名度と旧軍の参謀だったという事から、追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党・鳩山一郎派、石橋派に所属。石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で自民党を除名されて衆議院を辞職し、参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選、院内会派無所属クラブに属した。これは地元からの陳情を受けるのが嫌で鞍替えしたとされる。

 1961年、参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した。一ヶ月程度の予定であったにもかかわらず、5月半ばになっても帰国しなかったため、家族の依頼によって外務省は現地公館に対して調査を指令している。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオスの北部のジャール平原へ単身向かったことが判明したが、4月21日を最後に彼の其の後の足取りの詳細については現在でも判明していない。」(以上wiki「辻正信」)

 読者の皆さんは、以上をお読みになって、どのような感想をお持ちになったでしょうか。「日本軍の行軍」のこと、「自軍兵力に数倍する捕虜が出現したときの混乱」(山本七平はこの問題を、南京虐殺事件の一つとされる、「幕府山付近における山田支隊の捕虜収容とその後に発生したパニック状況」との関連で論じていました)、そして、日本軍の指揮系統を無視した「私物命令」で第一線部隊に捕虜殺害を督励して回った高級参謀「辻正信」の存在、それに抵抗した多くの部隊指揮官、そして最後に、戦中よりこうした数知れぬ虐殺行為の噂のあった辻正信を、戦後、国会議員に選び続けた日本人。

 なんかしらん、現代もあまり変わっていないような気もしますね。