国際政治では騙した人をなじるより騙された自分のうかつさを反省すべき

2014年12月21日 (日)

  今回の選挙で、極右政党と決めつけられた「次世代の党」が壊滅したことについて、いわゆる歴史修正主義的な考え方が支持されなかった、というような見方がなされています。この度、まるきよさんから、こうした考え方を代表する次の二つの主張を紹介され感想を求められましたので、この機会に、私の考えを述べておきたいと思います。

 私自身は、歴史修正主義と言われる見解は、歴史研究の一つとして当然提出されて然るべきものと思っています。なにしろこれまでの昭和史の歴史解釈は、自虐史観といわれても仕方がないほど、戦勝国の都合によって歪められてきました。それを是正し、より歴史の事実に即した歴史解釈を自らのものとすることは、日本人の当然の権利だと思います。

 ただ、私としては、こうした新しい資料に基づく見解を、従来の研究成果と総合することで、より客観的な歴史認識に高めたいと思っています。戦勝国はそれを嫌うでしょうが、日本人は自らの文化の発展のために、自らの歴史を見る自らの視点を持つべきです。私自身は、こうした作業の結果、昭和史について概略次のような見解を持っています。参考にしていただければ幸いです。

(まるきよさんのコメント)
tikurinさん、これらの文書は読んだことはありますか?史実を世界に発信する会のPDFです。
上はアメリカ国内でのコミンテルンのスパイとアメリカ共産党の反日活動、下は日中戦争についてです。私は以前は茂木弘道氏のような認識を日中戦争に関してはぼんやりと持っていました。

米を巻き込んだコミンテルンの東亜赤化戦略 (江崎道朗)

論文(28) 「日中戦争」は中国が起こした:日本侵略者論批判 (茂木弘道)

(私の見解)
まるきよさんへ
二つの文書の紹介ありがとうございます。一通り目を通しましたが、概略、私の意見を申し上げます。
日中、日米戦争期に、中国のみならずアメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア赤化戦略があったことは事実だと思います。共産主義思想は何しろ歴史の必然性を確信する思想ですから、その必然を具現化するためには手段を選びません。それゆえ、その謀略工作が、他のどの国どの組織よりも冷徹・巧妙かつ周到なものになり得たのだろうと思います。

 その謀略に、蒋介石も日本もそしてアメリカもみんなはめられた、と言ってしまえば、事は簡単です。しかし、三者ともそれぞれに共産主義に対する警戒心を持っていたはずで、ではなぜ、最終的にその謀略にはまることになったか、というと、それぞれに、そうなっても仕方がない事情を抱えていたという事、この事実に注目すべきだと思います。

 まず、なぜ、中共が漁夫の利を得ることになるかもしれない日中戦争を蒋介石が選択したかというと、蒋介石には、軍に支配された日本の大陸政策に対する不信から抗日戦争を覚悟していたということ。一方日本の軍部には、中国のナショナリズムを背景に国権回復を図る蒋介石を排除する必要があると考えていました。またアメリカには、持たざる国日本のアジア進出に対する無理解と共に、中国に対するパターナリズムに基づく同情がありました。

 日中戦争が中国側のイニシアティブで開始された後も、アメリカは資源の供給という点では日中両国に中立的な態度を保持しましたが、昭和14年に日本が英国の租界を封鎖して以降、こうした日本の動きを牽制するため、次第に日本に対する経済制裁を強化しました。昭和16年7月に日本が南部仏印に進駐すると在米日本資産を凍結、8月1日には日本に対する石油輸出を全面禁輸しました。

 アメリカ(ルーズベルト)がなぜこのような日米戦争に発展しかねない強攻策をとったかということについては、その最も有力な解釈は、ヨーロッパにおけるイギリスとドイツとの戦いにアメリカが参戦する口実を得るため、ドイツと同盟関係にある日本を挑発しアメリカを攻撃させようとした、というのがあります。私もそういうことではなかったかと思っています。

 ただ、ルーズベルトが日本の真珠湾攻撃を知っていたかどうか、については、私は、アメリカ側の手違いもあって、それを探知し迎撃することに失敗したと思っています。真珠湾攻撃の可能性が予測されていたとしても、まさか日本がそんな大胆かつ無謀な先制攻撃を仕掛けてくるとは思わなかった。攻撃があるとしても、フィリピンのアメリカ軍基地など南方だろうと、高をくくっていたのではないかと思います。

 そこで、ここに至る過程において、コミンテルンによる工作活動がどれだけ功を奏したかについて考えて見たいと思います。日中戦争が華北の小競り合いから上海に飛び火し、日中全面戦争に発展した、その経緯については、『マオ』には、日本が中国を圧伏して体勢を整え北に向かう危険を排除するため、スターリンが張治忠に指示し上海の日本軍を挑発し日中全面戦争に持ち込んだとあります。

 私もこのことについては、少なくとも日本は中国と協力してアメリカに対抗しようとしただけで、中国と戦争しようという意識は、上海で日本軍が先制攻撃を受け応戦を余儀なくされるまでは全くなかったと思っています。といっても、もともと日中戦争の種を満州事変さらに華北分離工作で蒔いたのは日本であることは間違いありません。それが泥沼の日中戦争に発展することが予測できなかったのは、日本軍に中国の抗戦力に対する侮りがあったためで、その結果責任を免れることは出来ません。

 また、一種のクーデターに等しい満州事変の責任者を、処罰するどころか報償したために、軍内に結果オーライの下克上的雰囲気が蔓延し、そのため、それ以降軍の統制が出来なくなり、上海戦では軍中央が設置した制令線を出先軍が突破し南京城攻撃に向かっただけでなく、その陥落の翌日には、華北派遣軍が勝手に蒋介石政権に代わる華北新政府を樹立しています。

 このように、日本軍の行動が軍中央の統一的な戦争指導方針下に統制されず、出先軍の勝手な行動によって生まれた既成事実を、政府が追認するということが繰り返されたために、もともとこの戦争を始めたのは中国であり、その開戦責任は中国にあったにもかかわらず、あたかも、日本がはじめから侵略戦争を企図していたかのような解釈がなされるようになったのです。

 また、日米戦争にコミンテルンの工作がどれほど功を奏したか、ということについて考えて見ると、日米戦争の原因は、先に述べたように、ルーズベルトが日本を挑発し、ヨーロッパにおけるドイツとの戦争に参戦の口実を得ようとしたことが、その最も大きな原因ではないかと思います。もちろん、そこにコミンテルンの工作員の暗躍もあったでしょうが、それは触媒程度の効果を持っただけなのではないでしょうか。

 一方、この戦争に至る日本側の問題点はどこにあったかというと、それは日米了解案の段階で、「持たざる国」日本の資源確保の道及び日中戦争終結の方向性を見いだしながら、ここでも、政府の統一的な外交方針を貫くことが出来ず、北進か南進か迷ったあげく、希望的観測に基づき南部仏印進駐をして、アメリカに戦争挑発の口実を与えてしまったのです。

 もし、その後も、日米了解案の時に確認された外交方針が堅持されていれば、南進ではない資源確保の道が確保できたでしょう。仮に、アメリカが一方的に経済制裁を強めるなら、東南アジアにおける欧米の植民地支配を守ろうとするアメリカの不当をアメリカ世論や世界世論に訴え、それを牽制することも出来たはずです。そうした冷静な外交が出来ず、ハワイ奇襲攻撃をしてルーズベルトに格好の参戦口実を与えたところに、軍部政権ならではの短慮がありました。

 なお、ルーズベルトに共産主義に対する警戒心が薄かったことが、戦後のソ連のヨーロッパ及びアジアにおける勢力伸長、共産中国の誕生、東西のイデオロギー対立下の朝鮮戦争やベトナム戦争につながったということが言われます。実際、共産中国の誕生にアメリカの果たした役割は大きく、当時アメリカには、毛沢東の中国民主化への期待が大きく、それが戦後の国共内戦における中共軍の勝利をもたらしました。

 こうした共産主義に対する幻想は、アメリカのみでなく日本の軍部にもあり、日本が日米戦争末期、調停をソ連に依頼したその心理的背景には、少なからず、戦後の日本の政治体制としては、アメリカ型自由民主主義よりソ連型共産主義をよしとする、軍部ならではの思惑も働いていたのです。この時代、共産主義思想がその時代の人々にいかに大きな影響力を持っていたかを考慮すべきです。

 以上のようなことを総合的に考えるとき、ご紹介いただいた二つの論文の主張は、確かに、昭和戦争の不思議を解明する上で重要な視点を提供しているとは思いますが、その全体像をリアルに認識する上では失敗していると思います。国際政治においては、騙した人をなじるより、騙された自分のうかつさを反省し、二度と騙されないよう、そこから教訓を学び取ることがより大切だと思います。