石原完爾の個人的責任を免除した片山杜秀著『未完のファシズム』

2012年7月13日 (金)

池田信夫氏の書評「独裁はなぜ生まれたか――『未完のファシズム』」http://agora-web.jp/archives/1467251.htmlで紹介された著者の主張で、引っかかった所がありましたので買って読んでみました。

 引っかかった所、というのは次の箇所

 「日本軍は日清・日露戦争までは「まぐれ当たり」で勝ったために自己の力を過信し、太平洋戦争まで暴走してしまった、という解説がよくあるが、その間には第1次大戦があった。これはそれまでの地域紛争とは質的に異なる総力戦であり、そこで勝敗を決するのは動員できる物資の量だから、日本のような「持たざる国」がアメリカのような「持てる国」に勝つことは不可能である。

これを誰よりもよく理解していたのは、当の軍人だった。したがって持たざる国である日本が戦争に勝つ道は、論理的には二つしかない

1.日本より貧しい国だけを相手にして戦争する
2.日本がアメリカを上回る経済力をもつまで戦争しない

このうち1の路線をとったのが小畑敏四郎などの皇道派であり、2をとったのが永田鉄山などの統制派だった、というのが著者の理解である。」

 えっ、そんな皇道派と統制派の分類ができるの?これでは皇道派の方が現実的な思想の持ち主だったということになるじゃないの!というのが私が最初に感じた疑問でした。そこで、本文を読んでみたわけですが、小畑の、「日本より貧しい国だけを相手にして戦争をする」というのは、満州事変のような「戦争」のこと。実際、小畑は、石原完爾の満州事変における作戦指導を「速戦即決の『持たざる国』の理想の戦争」として絶賛していました。

 また、満州事変後、陸相となって宇垣派を逐い皇道派全盛時代をもたらした荒木貞夫は、満州事変の軍国気分を背景として、「盛んに国体精神の高揚を説き、満州事変の意義を強調し、内政の改革」を論じていました。なお、皇道派の対内外政策は「農村救済論と対ソ予防戦争論の二つ」(『軍ファシズム運動史』秦郁彦p77)に代表されますが、ここにおける「対ソ予防戦争論」とは、本書では次のように解説されています。

 「持たざる国」が「持てる国」相手に長期戦争をしても勝ち目はない。ロシア革命のように国体を護持できぬ危険も高まる。第一次世界大戦後の日本の仮想敵はアメリカ、イギリス、ソ連等の「持てる国」ばかりであって、彼らと正面きっての本格戦争を遂行する力は日本にないと断ずるよりほかはない。避戦に徹するべきである。けれどソ連とは満洲の利権を巡って衝突する可能性を否定できない。最も起こりうる戦争である。そのための万全の準備は必要だ。

 といっても日本のような「持たざる国」がソ連の国土に侵攻するなどという事態は破滅的だから不可である。防衛戦争のみにする。日本の縄張りに突入してきたソ連軍とだけ戦う。その場合、日本陸軍にとって参考になる最近の例はやはり第一次世界大戦の東部戦線だ。東部戦線でのドイツ軍以上の作戦指導と兵の戦意維持を可能とするように軍隊教育で徹底する。将校はタンネンベルクの包囲殲滅戦を学習し、兵隊には必勝の信念を植えつけなければならない。

 ソ連軍は日露戦争や第一次世界大戦でのロシア軍並みと想定する。小畑が東部戦線において肌で知ったロシア人気質の横溢した統率の粗雑な軍隊である。ソ連軍はきっと日本軍よりも遥かに大人数だろう。それでも予想通り粗雑な軍隊であれば包囲殲滅も可能なはずである。こうした条件が全部揃った限定的短期戦争だけがポスト第一次世界大戦時代に日本陸軍が行える戦争だというのが、小畑のたどり着いたところだったのです。

 小畑を実質的な産みの親とする新しい『統帥綱領』や『戦闘綱要』も局限された状況でしか活きない代物だったのです。

 小畑には、そして荒木貞夫にも、次の戦争は必ずこの形だという絶対のヴィジョンが有されていて、『統帥綱領』や『戦闘綱要』はそのために当て書きされたと考えるとしっくり来るのです。」(『未完のファシズム』p152~153)

 ここに、『統帥綱領』が出てきますが、この本は、司馬遼太郎が『この国のかたち1』「6機密の中の”国家”」で次のように紹介したものです。

 「・・・『統帥綱領』の方は昭和3年、『統帥参考』のほうは昭和7年、それぞれ参謀本部が本にしたもので、無論公刊の本ではない。公刊されれば、当然、問題となったはずである。内緒の本という以上に、軍はこの本を最高機密に属するものとし、特定の将校にしか閲覧をゆるさなかった。

 特定の将校とは、「統帥機関である参謀本部所属の将校のことである。具体的には陸軍大学校に入校をゆるされた者、また卒業して参謀本部で作戦や謀略その他統帥に関する事項をうけもつ将校をさしている。」

 ここでは『統帥参考』の成立は昭和7年となっていますが、「統帥要綱と統帥参考は遅くとも1928年頃までに皇道派の鈴木率道により成立したと考えられる」そうです。また、皇道派の面々は、その「名前に反し・・・国家主義であるが、生きている天皇はないがしろにする傾向があり、要綱のなかに軍隊の忠誠の関係も含めて天皇に触れた箇所はない」。『統帥参考』にはありますが、軍隊の統帥は総て御親裁によるものとは限らず、ある範囲は統帥補翼機関に委任される、としています。

 続いて司馬は次のように言います。

 『統帥参考』の冒頭には、「統帥権」について、「・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ」と規定している。超法規とは、憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ、ということで、さらに、一般の国務については憲法の規定によって国務大臣が最終責任を負う(当時の用語で補弼する)のに対して、統帥権は「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と断定している。

 「従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之が結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。」

 もちろん「国家が戦争を遂行する場合、作戦についていちいち軍が議会に相談する必要はない。このことはむしろ当然で、常識に属するが、しかし『統帥参考』のこの章にあっては、言いかえれば、平時・戦時をとわず、統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづけている存在だとしているのである。

・・・然レドモ、参謀総長・海軍軍令部長等ハ、幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ、憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・

 つまり、「天皇といえども憲法の規定内にあるのに、この明文においては天皇に無限性をあたえ、われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだ」としている。

 「さらにこの明文にはおそるべき項目がある。戦時や”国家事変”の場合においては、兵権を行使する機関(統帥機関・参謀本部のこと)が国民を統治することができる、というのである。「大日本帝国憲法Lにおいては、その第一条に「大日本帝国八万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあって統治権は天皇にある。しかしながらこの『統帥参考』の第二章「統帥ト政治」の章の「非常大権」の項においては、自分たちが統治する、という。

・・・兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限度ニ於テ、直接二国民ヲ統治スルコトヲ得・・・

 ・・・この文章でみるかぎり、天皇の統治権は停止されているかのようである。天皇の統治権は憲法に淵源するために――そしてその憲法が三権分立を規定しているために――超法機関である統帥機関は天皇の統治権そのものを壟断もしくは奪取する、とさえ解釈できるではないか(げんにかれらはそのようにした)。

 要するに、戦時には、日本の統治者は参謀本部になるのである。しかもこの章では「軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ」とあくつよく念を押している。

 憲法に関するこのような確信に満ちた私的解釈が、国家機関の一部でおこなわれているということを、当時、関係者以外は知らなかったにちがいない。いまふりかえれば、昭和前期の歴史は、昭和七年に成立したこの機密”どおりに展開したのである。」(上掲書p55~61)

 「統帥権の独立」は、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約締結時における「統帥権干犯問題」以降世間に知られるようになったものです。しかし、こうした考え方は、その二年前の昭和3年に、皇道派の理論家たち(鈴木や小畑ら)によって、参謀本部内の一部の将校だけが閲覧できる最高機密の”秘密文書”として成立していたのです。

 このような「統帥権」の解釈が当時の幕僚軍人に共有されていたからこそ、天皇の意思を無視して満州事変を起こすことができたのです。その後、皇道派は、統制派を”3月事件や10月事件で「天皇大権を私議した」との批判を繰り返しました、しかし、上述したような明治憲法における統帥権の解釈自体が、「天皇大権の私議」であって、こうした考え方は「統制派」のみでなく「皇道派」にも共有されていたのです。

 また、2の「日本がアメリカを上回る経済力をもつまで戦争しない」という考え方を採ったのが永田鉄山などの統制派だった、という分類もおかしい。これは石原完爾の考え方で、著者も、「持たざる国」日本を何が何でも「持てる国」日本にすぐさま変身させようというラディカルな野心はおそらく永田にはない。」昭和3年1月、永田は木曜会の会合で石原の、全支那を利用して「持てる国」になるという話を聞いて、「石原の議論にはおよそ必然性がない」と呆れ気味だった、と書いています。

 もちろん、永田と石原を「統制派」で括ることも無理で、永田を統制派の首領とするなら、永田は2の「戦争論」を否定していたのですから、統制派が「持てる国」との戦争を始めたとも言えません。もちろん、皇道派の戦争論は「対ソ予防戦争論」であって「持てる国」との戦争は否定していました。では誰が?というと、永田が皇道派の相沢三郎中佐に殺された後の武藤章や東条英機等ということになりますが、それは、「石原が引き起こした満州事変をきっかけとしてなし崩しに戦線が拡大した結果」という外ないものです。

では、なぜ、このような誰も意図しなかった「持てる国」との戦争=対米戦争を日本がやることになってしまったのか。著者は、「国家としての意思決定が機能していれば、どこかでブレーキがかかったはず」である。しかし、明治憲法には、内閣の最高意思決定機関としての権限がなく、軍の統帥権がそれから独立しているため、実質的な中枢だった元老の権力が(山県有朋を最後に)衰えた後は、軍部の「下克上」に歯止めをかける人がいなくなった、といいます。

では、誰が、こうした軍内部における「下剋上」を蔓延させたかというと、それはいうまでもなく、満州事変を引き起こした石原完爾ということになります。この本には、この事実が、酒井鎬次元陸軍中将の回想として次のように紹介されています。

 「酒井が真っ先に批判するのは石原莞爾の起こした満洲事変です。それがもたらしたものは何であったか。「持たざる国」を「持てる国」に化けさせるバラ色の未来ではなく、単に仮想敵国のひとつ、ソ連との国境線を激増させ、「持てる国」との戦争リスクを高めただけであった。酒井はそう言うのです。

 満州事変企図の一つに国防線の推進による国家安全保障の増進を欲したりとせば(中略)全く反対の結果を来す。これは幾何学的に見ても中心より遠ざかるに従ひ、円周の延長は増大するものにて、古来多くの政治家、武人の陥る錯覚にして考慮すべき教訓と信じ候。

 領土ないし勢力圏が拡大する。国境線が長くなる。しかも国境線の向こうは仮想敵国のソ連である。「持たざる国」を「持てる国」にするつもりで満洲を獲得したつもりかもしれない。ソ連と日本本国の中間の満洲を獲得することで、スペースがとれ、日本がより安全になったというつもりだったかもしれない。

 が、戦争を国家間の摩擦の極端化と解するならば、摩擦の起きる大なる場所は国境線に他ならない。国境線が長くなればなるほど、面と向かい合うところが増えれば増えるほど、仮想敵国と戦端の開かれるリスクが拡大する。「持てる国」になる前に戦争が起きる確率が格段に上がる。これが火中に飛び込むような乱暴な選択でなくて何なのか。酒井は怒るのです。

 ついで酒井は、満洲事変が石原ら関東軍によって中央の意思を無視し独断専行で行われたことを重く見ます。世間にもありがちな視点ですけれども、酒井の視点は一味違うところがあります。彼は第一次世界大戦期のフランスの政治と軍事のありさまをつぶさに現地で見聞しました。

 政治と軍事、さらに経済と社会までが一体となって強力な意思統率が行われなければ、総力戦遂行は不可能であると肌身で知りました。ところが日本の国家機構は政治と軍事をバラバラにし、また経済活動でも私権を積極的に擁護している。基本的には自由主義である。総力戦体制作りを考えるときには甚だしく不向きと言わざるをえません。

 そんな多元的でまとまりのない日本をもっとまとまらなくしたのが石原だと、酒井は舌鋒を鋭くします。石原の独断専行が結果オーライで認められたがゆえに軍というひとつの組織の統率すらも失われ、多元化が促進されてついに歯止めが利かなくなった。特に「持たざる国」が総力戦時代に対応するには一元化が不可欠だというのに、石原は逆に日本の多元化を推し進めてしまった。酒井はそう考えるのです。

 満州事変は出先当局が中央の意図に反し独断積極的に行動し、しかもこれが後日中央により是認、賞讃され論功行賞されるに及び、石原は英雄視され、これに倣はんとするもの続出(中略)

 海軍上層部が僅かに一佐官たる中原に引きずられ北海事件、海南島占領迄にずるずると進み、蘭印に手を附けんとして始めて対米作戦の必然に気付き苦悶したるは上層部の無定見、愚鈍を示すものにして、かかることは当然、始めから判りきったことにて、若しこれを予見し得ざりとせば愚鈍であり、知りつつ引きづられたりとせば、その無責任を問はるべきと存じ候。この頃になると陸軍の下剋上の風が海軍に移行したることを示すものと存じ候。そして酒井はこの角田宛書簡を石原批判の駄目押しで締めます。

 これを要するに、昭和に於ける日本の敗戦直接の近因は、実に対内、対外、政治、軍事何れの点より見るも満洲事変にあるやに感ぜられ申候。これを以て見るも石原将軍の研究は将来の課題と存じ候。」(本書p328~330)

 本書は、このような歴史の教える教訓として、「背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。・・・転んだ時の痛さや悲しさを想像しよう。そうした想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう」ということをその末尾で述べています。

 一方、その前段では、「酒井によれば、満洲事変という、将来の見通しにおいてもやり方においてもかなり乱暴な背伸びが強引になされて大きな歪みを生じ、ついにそれを補正出来なかったことが亡国の原因となるのでしょう。これは単に石原個人を責める話ではありません。酒井を支配しているのは、第一次世界大戦のもたらした総力戦時代への日本の向き合い方全体に対する悔恨なのです。そういう感情が石原という個人を通じて語られているのです。」とも述べています。

 石原個人より、「総力戦時代にうまく対処できなかった日本のあり方全体」を問題にしようと言うわけです。つまり、本書の書名「未完のファシズム」との整合性を図ろうとしているのです。しかし、では「完成したファシズム」だったら「持てる国」との戦争を回避し得たかというと、それは、さらに悲惨な結果をもたらした可能性が大。例えば、本土決戦の遂行など・・・。それを止めるたのが、権力の集中を防ぐ天皇中心の「しらす」政治、それを規定した明治憲法体制だった、とも言えるのです。

 その「しらす」政治を理想とする明治憲法体制を逆用し、天皇の意思をも無視して軍が独断的に行動できるという統帥権の拡大解釈を梃子に満州事変を引き起こしたのが石原完爾でした。この結果、中国との持久戦争、次いで「持てる国」アメリカとの戦争をなし崩し的に始めることになったのです。そして、その絶望的な戦争の戦い方として生み出されたものが、玉砕という「死の哲学」でした。

 つまり、この「死の哲学」が先にあったのではないということ。それを生み出したもの、それは、「持てる国」との戦争を必然とし、そのためには中国の資源を共有する必要があると考え、それを実行に移すため統帥権を拡大解釈して満州事変を引き起こし、軍内に下剋上を蔓延させただけでなく、日本の政治的統一を破壊した石原完爾の個人的責任が最も大きい、ということです。さらに言えば、こうした石原の行動を皇道派も絶賛していた、ということです。

 しかし、それでは、「未完のファシズム」という書名と整合しない。そこで、酒井が指摘したような石原完爾の個人的責任を免除し、それを「第一次世界大戦のもたらした総力戦時代への日本の向き合い方全体」の問題とした。もちろん、死を美化する思想的伝統が日本にあるのは事実---そのイデオローグとしては平泉澄で十分---ですが、玉砕という「死の哲学」は悲劇的な戦争の結果であって必ずしも原因では無い、本書の無理はそこにある。私はそのように感じました。

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