いわゆる「マッカーサー証言」について――「自虐史観」からの脱却には役立つかも?

2012年4月 6日 (金)

 この証言は、司令官を解任されたマッカーサーが1951(昭和26)年5月3日に、米上院軍事外交合同委員会の公聴会で行ったものです。これを、小堀桂一郎氏らがニューヨーク・タイムズ紙の記事を基に証言録を入手、翻訳文と解説が雑誌「正論」などで紹介されました。

 そのポイントとなる箇所は、日本が戦争に飛び込んでいったその主要な動機は、実は資源のない日本が、国家の生存権を確保するという意味におけるセキュリティーを確保する必要に迫られたためだった、と述べたところです。つまり、この時代(おそらく昭和初期)日本は戦争に訴えない限り、原料の供給は断ち切られ、一千万から一千二百万の失業者が日本で発生するであろうことを日本は恐れた、というのです。

 この証言が、都立学校の現代史の教材として英文で掲載されたことが話題になっているわけですが、産経新聞の解説では、これを「日本の戦争=自衛戦争」と認めたものと解釈しています。そして「東京裁判史観」の是正や「南京大虐殺」が中国の反日誇大宣伝であったことの認識とも合わせて、これを前向きに評価しているのです。

 次は、以上のことを報じた産経新聞の解説です。

 「この聴聞会が日本で広く知られるようになったのは、間違いなくこの一節によるだろう。「原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するだろうことを彼らは恐れた。したがって、日本が戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ」いわゆる自衛戦争証言である。

 重要性を考えるにあたり、二つの極東情勢をふり返る必要がある。「戦前の日本」と「戦後のマッカーサー元帥」である。

 戦前の日本、とりわけ明治維新によって近代国家となった日本にとって、帝政ロシアと旧ソ連の一貫した南下政策は大きな脅威だった。

 朝鮮半島が敵対国の支配下に入れば、日本攻撃の格好の基地となる。後背地がない島国日本は防衛が難しいと考えられていた。日露両国間に独立した近代国家があれば脅威は和らぐ。しかし李王朝は清朝に従属していた。その摩擦で日清戦争が勃発。清朝が退き空白が生じるとロシアが台頭、日露戦争となった。どちらも舞台は朝鮮と満州である。

 西欧列強もまた、大きな脅威だった。当時の日本を小説にして世界へ伝えたフランス海軍士官、ピエール・ロティは、外国艦船が頻繁に出入りする長崎、横浜港の様子を書き残している。アフリカ、インドを経て太平洋まで到達した英仏などの艦船が近隣国を攻撃し、矛先がいつ日本に向くのか分からない、緊張の時代だった。

 一方で、米国は、日本が韓国を併合したようにハワイ王国を併合し、こちらは現住民族を滅ぼした。日本列島の太平洋側に米国が封鎖陣形がはられた。

 この経緯を作家の林房雄は「一世紀つづいた一つの長い戦争」と表現する。幕末の薩英戦争・馬関戦争で徳川二百年の平和が破られたとき「一つの長い戦争」が始まり、昭和二十年八月十五日にやっと終止符が打たれた。この百年の間、日本は欧米列強に抗するため、避けることのできない連続する一つの戦争「東亜百年戦争」を強いられたという。

 しかし、こうした主張を戦後許さなかったのは、ほかならぬマッカーサー元帥だった。「日本は列強に伍して自国を守ろうとした」という主張は封じられた。GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官として占領統治を成功させるには、日本の過去を完全に否定しなければならなかったからである。

 ときはくだり一九五〇(昭和二十五)年。マ元帥が常に口にした共産主義への懸念>は、朝鮮戦争で現実のものとなった。ワシントンは中国参戦後、日本を「防共の砦」とし、朝鮮半島を明け渡す可能性も示唆してきた。

 マ元帥は、朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられた凶器となりかねない位置にあるため、朝鮮防衛を考えた。さらに、ソ連製のミグ戦闘機が飛来すると、兵站部だった満州爆撃の許可を本国に求めた。

 朝鮮と満州の敵勢力を掃討して日本を防衛する。マ元帥のこの行動は、日本が戦前、独立を保つためにとった行動そのものだった。朝鮮の地に自ら降り立ち、大陸からの中ソの脅威に直接立ち向かってはじめて、極東における日本の地政学的位置を痛感し、戦前の日本がおかれた立場を理解したのである。

 この証言に至る下りで、マ元帥は「日本人は・・・労働の尊厳のようなものを完全に知った」と証言した。士官学校卒業後、初の東洋だった長崎で「疲れを知らないような日本の婦人たちが、背中に赤ん坊をくくりつけ、手で石炭カゴを次から次へと驚くべき速さで渡す」のをみて驚嘆したという。こんな体験も日本観形成の要因だったかもしれない。」

 なお、「セキュリティ(security、安全、安心、安全保障)は「現在ではもっぱら国家安全保障national securityの意味で使われる」(平凡社世界大百科事典)の記述により、安全保障と訳した。」と訳者の註が施されています。

 こうした意見に対して、ネット上ではいくつかの反論がなされています。肯首できる意見としては、「マッカーサー証言」全体の文脈の中で、この部分を、日本の大陸進出を「自衛」のための戦争と認めたものと解釈するのはおかしい、というのがあります。つまり、「セキュリティ(security、安全、安心、安全保障)」を「自衛権の行使」という意味に解するのは間違っているというのです。

そこで、その証言部分を見てみます。

【対訳 マッカーサー証言、1951年5月3日、米上院軍事外交合同委員会で語った内容】*原文資料の57,58ページ参照
(英語原文 正論)
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2005/maca/mac-top.html

[ヒッケンルーパー上院議員]
 では五番目の質問です。赤化支那(中共:共産中国)に対し海と空とから封鎖してしまへといふ貴官(マッカーサーの事)の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。

[マッカーサー]
 はい。 太平洋では、私たちは彼らを迂回し包囲しました。日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが4つの島に犇いているのだということを理解して頂かなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は、量的にも質的にも、私がこれまでに接した何れにも劣らぬ優秀なものです。

 歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間が怠けているときよりも、働き、生産しているときの方がより幸福なのだと言うこと、つまり労働の尊厳と呼んでも良いようなものを発見していたのです。

 これまで巨大な労働力を持っていると言う事は、彼らには何か働く為の材料が必要だと言う事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき材料を得ることが出来ませんでした。

 日本原産の動植物は、蚕をのぞいてはほとんどないも同然である。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫(すず)がない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在したのである。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。

 したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分がその安全保障(「セキュリティ確保」)の必要に迫られてのことだったのです。

*この安全保障(「セキュリティ確保」)の部分の訳が、「失業者対策(保護)」であったり、「資源の確保」であったり、単に「安全保障」であったりいろいろです。

 原料は、日本の製造業のために原料を供給した国々マレーシア、インドネシア、フィリピンのような国々の全拠点を、日本は、準備して急襲した利点を生かして抑えていた。そして彼等の戦略的概念とは、太平洋の島々、遠く離れたところにある要塞をも維持することだった。だから我々が、こうした島々を再び征服しようとすれば、我が軍の財産を搾り取られ、日本が攻略した地の基本的な産品を彼等が管理する事を許す条約に最終的には不本意ながら従うことになり、犠牲があまりにも大きいと思われた。

 この事態に直面して、我々は全くの新戦略を考え出した。日本がある一定の要塞を確保したのを見て我が軍が行ったことは、こうした要塞を巧みに避けて回り込むことだった。彼等の背後に回り、日本が攻略した国々から日本へ到達する連絡路につねに接近しながら、そっと、そっと忍び寄った。米海軍がフィリピンと沖縄を奪う頃には、海上封鎖も可能となった。そのために、日本陸軍を維持する供給は、次第に届かなくなった。封鎖したとたん、日本の敗北は決定的となった。

 最終結果を見ると、日本が降伏したとき、少なくとも三百万人のかなり優秀な地上軍兵士が軍事物資がなく武器を横たえた。そして我が軍が攻撃しようとした要所に結集する力はなかった。我が軍は(迂回して)彼等がいない地点を攻撃し、結果として、あの優秀な陸軍は賢明にも降伏した。(以下略)」

 これは、アメリカ上院の公聴会において、朝鮮戦争でアメリカが共産中国を屈服させるためにとるべきであった戦略について、議員がマッカーサーに意見を徴したのに対し、マッカーサーが答えたものです。その意味はその後の証言も合わせて考えると次のようになります。

 マッカーサーは、それは、アメリカが日本に対して迂回包囲作戦をとったのと同じやり方で可能だったと言いました。日米戦争においてアメリカは、日本の東南アジアからの原料供給を封鎖する作戦をとった。それが功を奏して日本はギブアップした。

 これと同様のことが中国に対しても言える。彼等は、かって日本帝国が持っていたような資源は持っていない。従って、彼等に対しては、かって日本に対してとったと同じような資源封鎖をすればよい。その封鎖は、国際連合に加盟している国々が協力すれば容易にできる。

 中国が資源を得るための唯一の方法はソ連から供給を受けることだが、ソ連は極東の大部隊を維持するための輸送路を確保するのに精一杯だ。つまり、ソ連の中国に対する資源供給力には限度がある。だから、中国は海軍も空軍も持てないのだ。

 私の専門的見地から言えば、中国の近代戦を行う能力はひどく誇張されたている。もし我々が、上述したような資源封鎖をやり、空軍による爆撃でその輸送路を破壊しさえすれば、然るべき期間内に、必ず彼等を屈服させることができたであろう。

従って、件の箇所の訳は、

 「したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、その大部分が「資源を確保することで自国の生存権を擁護する」必要に迫られてのことだったのです。」と訳したほうがいいように思います。

 従って、これを、マッカーサーが日本の満州事変から日中戦争そして大東亜戦争までの日本の戦争を「自衛戦争」と認めた、と解釈するのは、いささか我田引水のような気がします。マッカーサーが言っているのは、日本のような資源のない国に対しては、そうした資源封鎖が戦略上有効だということです。その主眼は、朝鮮戦争におけるアメリカの中国封鎖戦略の有効性を主張するためだったのです。

 従って、日本の昭和の戦争をどう評価するか、という問題は、こうしたマッカーサーの言葉とは別に考えるべきです。この場合、日清戦争は、日本の安全保障上の観点から朝鮮における日本の清国に対する軍事的優位を確保するためのもの。日露戦争は、朝鮮における日本のソ連に対する軍事的優位を確保するためのもの、ということでよろしいのではないでしょうか。

 では満州事変以降の戦争についてはどうか。満州事変の前後は、アメリカにおける排日移民法の制定、金融恐慌・世界恐慌とそれに伴う自由経済からブロック経済への転換、東北地方の冷害等も重なって、日本は未曾有の経済的困窮状態に陥っていました。そこで満州問題、つまり満州における日本の特殊権益の確保という問題が、俄然脚光を浴びることになったのです。

 つまり、この時日本が直面していた問題は、直接的にはマッカーサーが指摘したような資源問題や移民問題であったわけです。また、満州における日本のプレゼンスを確保する、つまり、ソ連の共産主義革命に基づく膨張政策、中国における反日運動の高まりに対処するという観点から言えば、日本の安全保障の問題でもあったわけです。

 では、そうした問題を解決するためにとるべき日本の外交政策としては、どのような政策を採るべきであったかというと、蒋介石と連携して中国の共産化を防ぐことが最大の戦略目標であったはずです。従って、こうした観点からその後の日本の行動を見る限り、満州事変のやり方や華北分離政策が有効だったとはとても言えません。

 まして、中共の謀略にはまって泥沼の日中戦争に足を突っ込み、さらに南京事件を引き起こしてアメリカを敵に回しアメリカの経済制裁を受けることになった。これに対抗し資源を押さえるために仏印進駐をした。さらにドイツと軍事同盟を結んでアメリカを掣肘しようとして失敗し、結局、対米英戦争に引き込まれた。

 こうした、その後の日本の行動が、満州事変当時の「資源確保や安全保障上の理由」だけで正当化できますかね。まあ、単純な「日中兄弟論」的な考え方しか持てなかったために、中共やソ連に騙され、あるいはアメリカに騙され、暴発させられて自滅したわけで、余り自慢になる話とも思われません。

 まあ、それは、巷間言われるほど日本に悪意があったわけではないということの証明にはなると思います。よって、いわゆる「自虐史観」からの脱却には少し役立つかも知れません。しかし、そうした解釈から、日本人が昭和の戦争