福田恆存の『乃木将軍と旅順攻略戦』――結果論で善悪黒白を断定する歴史観に陥らないこと

2011年12月29日 (木)

 半藤一利氏の『あの戦争と日本人』に次のような記述があります。

 「乃木さんが十一月二十七日に二〇三高地砲撃を決断したとき、旅順艦隊はすでに廃物だった。いや旅順要塞攻撃自体が無効だったというわけなんですね。二十八センチ砲で目的を達していた。では二万にも及ぶ兵士は何のために死んだのか。」

 この二十八センチ砲で目的を達していたというのは、「九月二十八日から十月十八日にかけて、密かに日本から二十八センチ砲というでっかい大砲が運ばれてきていて、山越しに旅順港を狙える場所からボッカンボッカンと砲弾を撃ち込んだ」ことで、旅順の残存艦隊は全て炎上、沈んだ。弾薬や火薬や大砲は全て陸揚げされ無力となっていた。その事実を、日本軍は二〇三高地を占領するまで知らなかった、というのです。

 私はこの話を聞いて、二十八センチ砲による旅順艦隊砲撃の効果がはっきりしなかったというのもよく判らないが、それ以上に、ただその砲撃の観測点として必要とされた二○三高地を奪取するのに、二万人に及ぶ戦死者を出すような攻撃を繰り返したというのも、おかしな話ではないか。二〇三高地を含めた旅順要塞攻撃には、何か別の目的もあったのではないか、と疑問に思いました。

 これについては、福田恆存が昭和45年12月に「乃木将軍と旅順攻略戦」という一文を書いていて、乃木が司令官を務めた第三軍の目的は次の三つであった、と言っています。(以下の引用はこの本による)

第一、初めのうちは大本営も総司令部も旅順攻略の必要を考えていなかった。それは、旅順艦隊とバルチック艦隊との合流を恐れる海軍の要請で、旅順艦隊を撃滅するため旅順要塞を落として貰いたい、ということから生じた。なぜなら、旅順要塞の砲塔は北面の陸に向かって作られていると同時に、南の海面に向かって味方艦艇の援護射撃もできるように造られていたから、それを潰して欲しいということだった。

第二、日本軍は、満州総軍作戦根拠地としての大連を確保せねばならず、そのためにはどうしても旅順の敵を安泰にしておくわけにはいかなかった。少なくとも北進する第二軍の後方を安全にする必要があった。

第三、この第一、第二の目的を達成することを任された第三軍は、旅順を一日も早く攻め落とし、沙河、遼陽における会戦に参加しなければならなかった。

 つまり、第三軍は、海軍の要請に応じて旅順艦隊を撃滅するためにも、また、大連を確保し北進する大二軍の後方の安全を図るためにも、さらに、沙河、遼陽の会戦に一日も早く参加するためにも、旅順要塞全体を落とす必要があった。そのために、松樹山堡塁から東鶏冠山北堡塁にわたる東北正面と共に、二〇三高地を中心とする西方面の要塞群を攻め落とす必要があり、第三軍は、まず、東北正面を奪取することが旅順艦隊のみならず要塞の死命そのものを制することになると考えた、というのです。

 つまり、旅順艦隊の撃滅だけが旅順要塞攻撃の目的ではなかったということですが、それにしても、もし、二十八センチ砲による砲撃で旅順艦隊が撃滅されたことが判っていれば、必ずしも旅順要塞を強襲して多くの犠牲者を出すような攻撃方法をとらなくてもよかったのではないか。第二、第三の目的を達成するためには、旅順港及び旅順要塞に籠もるロシア軍が出てくるのを迎え撃った方が、より少ない犠牲でその進出を阻止できたのではないか、ということです。

 あるいはそれが、「初めのうちは大本営も総司令部も旅順攻略の必要を考えていなかった」ということなのかもしれません。しかし、海軍は旅順艦隊とバルチック艦隊との合流を恐れていて、陸軍に一日も早く旅順艦隊を撃滅するため、旅順要塞を落としてくれるよう要請していました。それによって、日本から朝鮮への軍需物資の輸送路も確保できるし、バルチック艦隊との決戦に備えて、黄海会戦等で傷ついた聯合艦隊を修理する時間を確保することもできる。

 そこで、陸軍による旅順要塞攻撃が開始されました。第一次攻撃(8.19~24)、第二次攻撃前哨戦(9.19~22)、9月28日から10月18日までは9月20日に落とした南山坡山を観測点とする旅順艦隊砲撃、第二次総攻撃(10月26~30)がなされました。しかし、東北正面要塞は落ちない。11月9日には、大本営の山縣参謀総長が満州軍総司令官大山元帥に、「速やかに旅順艦隊を撃破し、我が海軍をして一日も早くその艦艇修理に着手せしめ、第二の海戦準備を整ふるの時日を得せしむること頗る必要なり。これが為めに第三軍はまづ敵艦撃破の目的を達すること急がざる可らず。(二○三高地攻撃勧奨=筆者)」(「機密戦争日誌」)と電報を打っています。

 これに対して大山総参謀長は、次のように返電して大本営の要望をはねつけています。

一、旅順陥落を成るべく速かに、一方にはわが海軍をして新なる作戦をなすの自由を得せしめ、他の一方に於ては優勢なる兵力を北方の野戦に増加し、以て決戦の期を速かにせんと欲するは、貴電に接する迄も無くその必要を感ずる所なり。況んやバルチック艦隊の東航を事実上に目撃するに於てをや。

二、九月十九日を以て開始せられたる(第二回)攻撃に當り、予は(兒玉)総参謀長を特派し、親しくその攻撃の実況を目撃せしめたり。その当時、総参謀長より閣下に意見を呈したる如く、一気呵成の成功を望むためには新鋭の兵力を加へて元気よく、攻撃するの必要ありき。(註・第八師団を旅順に送れとの請求を云うなり)後略

三、さて更にこの攻撃を有効ならしむるためには、その間種々の思付もあるべくなれども、(東北正面)の松樹山、二龍山に對する攻撃作業既に窖室(こうしつ)に迄達し居る今日なれば、最早この攻撃計画を一変して他に攻撃点を選定する等の余地を存せず。唯計画せられたる攻撃を鋭意遂行するあらんのみ。而して、これ最終の目的を達するため、最近の進路たるべし。

四、二〇三局地を攻撃するを得策とする考案もあるが、二十八サンチ砲の如き大威力の砲を有せざる以前に於ては、此高地を占領して旅順の港内を瞰制する必要を感ぜしなり。然るに此高地自らは旅順の死命を制するものに非ず。且つ二十八サンチ砲を有する今日に於ては、港内を射撃するの観測鮎に利用せらるるに過ぎず。

 港内軍艦に對する二十八サンチ砲の威力は、平時に於て予期したる如くならず。又、従って敵艦が如何の程度にまで損害を受くるやを識別することは、二〇三高地よりするも決して正確なる能はざるべし。故にこの高地を占領したる後も、猶今日の如くなるを疑はざるを得ず。寧ろ速かに旅順の死命を制するの手段を捷径となすに如かざるなり。然れどもこの高地に對する顧慮を拠棄せざるは勿論にして、第二項の攻撃を遂行するに當り、助攻撃をこの高地に向くるならん。

六、以上の理由に基き、第三軍をして現在の計画に従ひ、その攻撃を鋭意果敢に実行せしむるを最捷径とす。鋭意果敢の攻撃は、新鋭なる兵力の増加により初めて事実となるを得べく。新鋭なる兵力の増加は、第七師団の派遣に依らざるべからず。(後略)

 つまり、二十八センチ砲が届く以前の砲による旅順港砲撃には二〇三高地を観測点とする必要があったが、二十八センチ砲を得たことで南山坡山を観測点とする旅順艦隊砲撃が可能となった。そこで、二〇三高地を落としてそこを観測点にしたとしても、その砲撃の効果を正確に識別することはできず現状と余り変わらない。といっても、二〇三高地を落とすことを放棄するわけではないが、まずは、東北正面の要塞攻撃を継続することで旅順の死命を制する事が先である、と言っているのです。

 なお、この意見に児玉も同調していることは、児玉がその後の第三軍による旅順港内の艦隊への砲撃を「二兎を追うべからず。二十八サンチは本攻に用ゆべし。無駄弾丸を送るべからず」と中止を命令している事でも明らかです。

 しかし、第三次総攻撃(11月26日)における白襷隊は失敗しました。そこで白襷隊がダメとなれば二〇三高地を攻めるべきでは、という第三軍の要請によって、11月27日から二〇三高地への攻撃が開始されました。30日には一時高地を占領するもまもなく奪還されました。そこで12月1日には児玉が第三軍に来て指揮を執り、同士打ち覚悟の援護砲撃を繰り返すことで、12月5日に二〇三高地を陥落させることができました。

 その時、この二〇三高地から旅順港を見たら、9月30日以来の二十八センチ砲による砲撃で、「旅順の残存艦隊は全て炎上、沈んでいた」(おそらく目視できたのはここまででしょう。ただし、自沈だという説もあります)。また、「弾薬や火薬や大砲は全て陸揚げされ無力となっていた」というのは占領後に確認されたことだと思います。下線部は12/30挿入

 この二十八センチ砲による旅順港への砲撃は9月30日(半藤氏は28日)から10月18日までです。次いで10月26日にはじまる第二回総攻撃から、この二十八センチ砲を使った東北正面の要塞攻撃が開始されました。これにより二竜山堡塁は兵舎が破壊され東鶏冠山堡塁では火薬庫が爆発するなどの大損害を蒙り、日本軍はp堡塁を占領することができました。

 ここで留意しておくべきことは、日本軍は第一次攻撃の段階では要塞戦の戦い方を知らなかったということで、従って、その攻撃法が歩兵の突撃による強襲法となり多大の犠牲を生むことになったのです。しかし、第二次攻撃からは、第一次攻撃の反省を踏まえて急遽攻城戦法を学び、塹壕を掘って進む正攻法に切り替えました。それによって犠牲者の数もずっと少なくなりました。

 問題は、先ほども申しましたが、この二十八センチ砲による旅順艦隊攻撃で、旅順艦隊が無力化されていることがもし判っていたとしたら、東北正面要塞への第二次総攻撃及び二〇三高地への第三次総攻撃は、じっくり時間をかけてより犠牲の少ない攻撃法がとれたのではないか、ということです。これが半藤氏の冒頭の問いにもなっているのではないかと思われます。しかし、第三軍には「旅順を一日も早く攻め落とし、沙河、遼陽における会戦に第三軍も参加しなければならない」という第三の目的もあったわけで、この方面のロシア軍の撃滅が求められていたことは間違いないと思います。それなしでは陸戦での勝利もなかったでしょうから。

 以上、福田恆存の「乃木将軍と旅順後略戦」に引用されている資料を参考に、半藤氏の発した問いについて考えて見ました。この福田氏の論は、繰り返しになりますが、昭和45年12月に発表されたもので、本人も戦史には全くの素人と断った上でのものです。使用された資料も当時のものだけで、特別の資料が使われているわけではありません。にもかかわらず、その論述は、前回紹介したwikiの「旅順攻囲戦」の解説ポイントを押さえたものとなっています。改めて、氏の批評眼の確かさを再認識した次第です。

 で、福田氏のこの論はその締めくくりとして、次のような、私たちが歴史を論じる際に心がけておかなければならないことを説いています。大変重要だと思いましたので、自戒を込めて紹介しておきたいと思います。

 「近頃、小説の形を借りた歴史讃物が流行し、それが俗受けしている様だが、それらはすべて今日の目から見た結果論であるばかりでなく、善悪黒白を一方的に断定しているものが多い。が、これほど危険な事は無い。歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に對する現在の優位である。

 吾々は二つの道を同時に辿る事は出来ない。とすれば、現在に集中する一本の道を現在から見遙かし、ああすれば良かった、かうすれば良かったと論じる位、愚かな事は無い。殊に戦史ともなれば、人々はとかくさういう誘惑に駆られる。事実、何人かの人間には容易な勝利の道が見えていたかも知れぬ。

 が、それも結果の目から見ての事である。日本海大海戦におけるT字戦法も失敗すれば東郷元帥、秋山参謀愚将論になるであらう。が、当事者はすべて博打をうっていたのである。丁と出るか半と出るか一寸先は闇であった。それを現在の「見える目」で裁いてはならぬ。歴史家は当事者と同じ「見えぬ目」を先ず持たねばならない。

 そればかりではない、なるほど歴史には因果開係がある。が、人間がその因果の全貌を捉へる事は遂に出来ない。歴史に附合へば附合ふほど、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは点の連続であり、その間を結び付ける線を設定する事が不可能になる。しかも、点と点とは互いに孤立し矛盾して相容れぬものとなるであらう。が、歴史家はこの殆ど無意味な点の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立てて流れ、運命の重味が吾々に感じられるであらう。」