『坂の上の雲』の旅順攻防戦の描写について、やはり、史実を押さえておいた方が良いのでは?

2011年12月23日 (金)

健介さんへ

 改めて『坂の上の雲』の該当部分を読んで見ましたが、司馬遼太郎がこの歴史小説を書いた時点での資料の出所が偏っていたために、史実とはかなりかけ離れた描写になっているようですね。なお、半藤氏が紹介していた資料は、参謀本部編『手稿本 日露戦史』という全51巻の大著で、福島県立図書館にあるそうです。また、『極秘明治三十七八年開戦史』百巻以上のものが、宮中より防衛研究所戦史室にお下げ渡しになっているそうです。

 そういう資料に基づいているのでしょうか、wikiの「旅順攻囲戦」では、『坂の上の雲』の乃木・伊地知無能論に立った旅順攻防戦の様子とは随分違った記述内容になっていますね。折角の機会ですから、以下それを分かりやすくまとめて見ました。NHKのドラマでは『坂の上の雲』の無残なまでの乃木等に対する批判は抑えられていますが、この本を読んだ人はその筋書きで見ますから、お二人の名誉挽回にはならないなあ、と少し気の毒に思いました。

 以下、『坂の上の雲』で旅順攻防戦における乃木批判部分について、wiki「旅順攻囲戦」の記述内容を対比的に書き抜きました。

(旅順攻略戦の意義について)
 旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第3軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回したというのが総論として近年定着している。 開戦前の計画段階から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍の意向に振り回され、陸軍の旅順攻撃開始は大幅に遅れた。

 開戦から要塞攻略戦着手までの期間が長すぎたために要塞側に準備期間を与えることになった事は、旅順難戦の大きな要因として指摘される。しかし、近代戦における要塞攻防戦のなんたるかを知らなかった当時の事情、またそもそも当時の日本の国力・武力を考えれば、結局のところ無理を承知でこのような作戦を行わざるを得なかったとも言える。

(旅順艦隊攻撃について)
 第一回総攻撃が失敗に終わった後、東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた二八センチ榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)が戦線に投入されることになった。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は工兵の努力によって克服された。

 二八センチ榴弾砲は、9月30日旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した南山披山を観測点として湾内の艦船にあらかた命中弾を与えた。しかし黄海海戦で能力を喪失した艦隊への砲撃はロシア将兵へそれ程の衝撃とはならなかった。それでも良好な成果を収めたため逐次増加され、最終的に計18門が第3軍に送られた。

(旅順攻防戦おける28センチ砲の使用について)
*28センチ瑠弾砲を旅順要塞攻撃に用いる事は、第3軍編成以前の5月10日に陸軍省技術審査部が砲兵課長に具申し陸軍大臣以下もこれを認め参謀本部に申し入れていたが、参謀本部は中小口径砲の砲撃に次ぐ強襲をもってすれば旅順要塞を陥落することができると判断してこの提案を取り入れなかった。

 その後8月21日の総攻撃失敗ののち、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に28センチ瑠弾砲を使用すべきと主張していた有坂成章技術審査部長を招いて25ー26日と意見を聞いたのち採用することを決断し、参謀本部の山縣参謀総長と協議して既に鎮海湾に移設のため移設工事を開始していた28センチ砲六門を旅順に送ることを決定したというのが実際の動きである。

 しかし長岡談話によれば、参謀本部側の長岡参謀次長が、総攻撃失敗ののちに28瑠弾砲の旅順要塞攻撃に用いるべきという有坂少将の意見を聞いて同意し、陸軍大臣を説得したと、まったく逆のことになっている。

(203高地占領の時期と意義について)
 第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった(大本営からの指令も、海軍からの進言・要請もなかった)。しかし仮に、第1回総攻撃の時点で第3軍が203高地を主目標に含め、これを占領できたとしても、至近に赤阪山・藤家大山という防御陣地が構築されており、また背後に構築された主防御線内の多数の保塁・砲台から猛烈な砲撃を受けることは容易に想像でき、占領を維持することは困難であったと考えられる。

仮に高地の占領を維持できたとしてもこの時点で第三軍が所持する重砲は15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門、これに海軍陸戦重砲隊の12センチカノン砲6門だけであり装甲で覆われた戦艦を撃沈出来る威力は無い。最大の15センチ砲にしてもこれは海軍では戦艦や装甲巡洋艦の副砲程度の大きさでしかないし艦載砲より砲身が短いので初速、貫通力は劣る[48]。それでも仮に旅順艦隊を殲滅出来たとしても、要塞守備隊を降伏させられなければ第三軍は北方の戦線に向かうことができない。

 艦隊殲滅後にやはり正攻法による要塞攻略を完遂しなければならない以上、包囲戦全体に費やされる期間と損害は変わらないと予想される。むしろ史実ほど兵力を消耗することなく主防御線を堅固に守られてしまい、要塞の攻略は、より遅れた可能性すらある。

次は、『坂の上の雲』に記された乃木無能論の主な根拠と、最近の研究成果を踏まえたそれに対する反論です。

1 単純な正面攻撃を繰り返したといわれること。

*要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な近代要塞として構築していたのに対して、日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく、急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。旅順要塞を甘く見ていたのは第3軍だけではなく大本営も満州軍も海軍も同様である。日露開戦以来陸軍の旅順参戦をさせず、ようやく7月に第3軍に対して第1回総攻撃を急遽しかも早期に実施するよう指示したほか、弾薬の備蓄量を日清戦争を基準に計算したため、第3軍のみならず全軍で慢性的な火力不足、特に砲弾不足に悩まされていた。

*第3軍は第1回総攻撃は横隊突撃戦術を用い大損害を被ったが、第2回総攻撃以降は塹壕には塹壕で対抗する、という正攻法に作戦を変更している。

*児玉(源太郎)次長の後を任された長岡はのちに「長岡外史回顧録」を纏め、その中で旅順攻略戦について・・・「第一回総攻撃と同様殆ど我になんらの収穫なし」と批判している。しかし、例えば9月の攻撃は、主防御線より外側の前進陣地を攻略対象としたものであり、龍眼北方保塁や水師営周辺保塁また203高地周辺の拠点の占領に成功している。

*また(長岡は)10月の旅順攻撃が失敗に終わったことについては「また全く前回のと同一の悲惨事を繰り返して死傷三千八百余名を得たのみであった。それもそのはずで、一、二、三回とも殆ど同一の方法で同一の堅塁を無理押しに攻め立てた」と述べており、主防御線への攻撃と前進陣地への攻撃の区別もなされず、また強襲法から正攻法へと戦法を変更したことについても触れていない。

2 兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。

*日本軍の損害のみが大きかったのは第1回総攻撃だけであり、第2回・第3回総攻撃での日本軍の損害はロシア軍と同等もしくは少数である。

3 総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。

*乃木や伊地知が毎月26日に総攻撃日に選んだことについて、「縁起がいい」とか「偶数で割り切れる、つまり要塞を割ることが出来る」などを理由とした(『坂の上の雲』4巻P381)などを踏まえたものだろうが、真偽不明(筆者)

4 旅順攻略の目的は、ロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも関わらず、要塞本体の攻略に固執し、無駄な損害を出したこと。

*陸軍としての第3軍を指揮した乃木の能力云々のほかに、ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、陸海軍の共同和合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における海軍の作戦失敗の連続といった、海軍の不手際も無視できない。

 また、日露開戦後に現地陸軍の総司令部として設置された満州軍の方針と、大本営の方針が異なり、それぞれが乃木第3軍に指令通達を出していたという軍令上の構造的な問題にも乃木は悩まされた。

 なお、海軍の要請を受けて、旅順攻撃を主目標としつつも、陥落させることが不可能な場合は港内を俯瞰できる位置を確保して、艦船、造兵廠に攻撃を加えるという方針で煙台総司令部(大山司令官)と大本営間の調整が付いたのは、御前会議を経て11月半ばになってからのことであった。

*司馬の作品などで児玉らは203高地攻略を支持していたかのように描かれているが児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持している。正攻法の途中段階で大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。その為には港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当然203高地攻略も反対だった。

*満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。

 しかし第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みが無くなると決心を変更し203高地攻略を決意する。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得した程だった。

5 初期の段階ではロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させず、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。

*203高地については「9月中旬までは山腹に僅かの散兵壕があるのみにて、敵はここになんらの設備をも設けなかった」と述べ、これを根拠として「ゆえに9月22日の第一師団の攻撃において今ひと息奮発すれば完全に占領し得る筈であった」との見解を述べている。この長岡の見解は多くの著作に引用されているが、これは現在の研究によれば否定される。

6 旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行ったところ、4日後に203高地の奪取に成功したと伝えられること。

(児玉が第3軍司令部参謀を叱責した件)
*児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し伊地知参謀長らを論破したとも言われているが、第三軍の参謀は殆どが児玉と会っておらず電話連絡で済ましているので事実ではない。地図の記載ミスで児玉に陸大卒業記章をもぎ取られたのは第三軍参謀ではなく第7師団の参謀だし、戦闘視察時に第三軍参謀を叱責した話も事実ではない(この際同行していたのは松村務本第一師団長と大迫尚敏第七師団長)

(児玉が28インチ砲の陣地変更を命じた件)
 また児玉が命じたとされる攻城砲の24時間以内の陣地変更と味方撃ちを覚悟した連続砲撃も児玉は実質的には何もしていない。 既に28センチ榴弾砲は第三軍に配備されていた全砲門が203高地戦に対して使用されているし、児玉来着から攻撃再開の5日までの間に陣地変更する事は当時の技術では不可能である。実際のところは予備の12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけである。

(児玉が味方撃ち覚悟の砲撃を命じた件)
 味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたと機密日露戦史では記述されているが攻城砲兵司令部にいた奈良武次少佐は「友軍がいても砲兵が射撃して困る」と逆に児玉と大迫師団長が攻城砲兵に抗議したと述べている。奈良少佐の「ロシア軍の行動を阻止するためには致し方ない」という説明に児玉は納得したが第三軍の津野田参謀も「日本の山砲隊は動くものが見えたら敵味方か確認せずに発砲していた」と証言しており、児玉では無く第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していた事が分る。

(児玉の指揮介入の件)
 攻撃部隊の陣地変更なども為されておらず、上記の様に従来言われる児玉の指揮介入も大きなものでは無かった事から見て、203高地は殆ど従来の作戦計画通りに攻撃が再開され第三軍の作戦で1日で陥落した事になる。

7 戦後、乃木自身がみずからの不手際を認めるがごとき態度を取ったこと。

*第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという。また乃木がみずから失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳という見方と無能故の所作という見方が出来る。

*白襷隊の惨戦のような明らかな誤断もあり、評価が一定しない一因となっている。

 以上、wikiの記述内容を整理してみましたが、歴史の解釈というのは使用する資料次第でこんなにも違ってくるものですね。まあ、『坂の上の雲』は歴史小説ではありますが・・・。