阿比留瑠比氏「今こそ読み返したい『空気の研究』」について

2011年7月 7日 (木)

阿比留瑠比さんが、ブログ「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」に「今こそ読み返したい『空気の研究』」という記事を書いています。

 その書き出しですが、
「目には見えないながらも日本社会に強く広く根を張り、さまざまな場面でその存在をはっきりと意識させられてきた「空気」について、であります。私は「KY」(空気を読めない)という言葉が大嫌いで、従って「空気」という言葉もあまり記事その他では使用したくないのですが、とはいっても「空気」としか言い表しようのないその場を支配する何かがあるのは事実で、抵抗を覚えつつも何度か使ってきました。

そして、特に東日本大震災の発生とそれに伴う原発事故以来、この「空気」が顕在化してきたというか、非常に物理的圧迫感を持って体感できる気がするのです。私はこれまでの記者生活を通じ、慰安婦問題、沖縄集団自決問題、在日外国人問題…などを取材・執筆する過程で、常にこの「空気」の問題を実感してきましたし、政権交代時にも、抗い難い、逆らってもムダな「空気」の圧倒的な大波を体験もしました。」

 では、このような日本社会における「空気支配」をどのように克服するか。かって山本七平は名著『空気の研究』で次のような警告を発した、ということで、いくつかの言葉を引用しています。その中心的部分は、《われわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きている》《もし将来日本を破壊するものがあるとしたら、それは、三十年前の破滅同様に、おそらく「空気」なのである》ということではないかと思います。

 この記事には、読者から様々なコメントが寄せられていますが、山本七平のいう「空気支配」の意味を、全体的に捉えることは決して容易なことではないような気がします。というのは、この空気支配というのは、必ずしも日本だけのことではなく、どこの国にも見られることですし、それを日本の集団主義や家族共同体思想と関連づけて考えれば、欠点と見えるものも裏から見れば長所に見える。では、その長所を生かし欠点を是正する方法はあるのか、ということになると、どうもよく判らない。

 どうもそんなところに止まっていて、山本七平の提言を十分生かし切れない、というのが実情ではないかと思います。そこで、以下、私なりに、この問題、つまり、日本における空気支配の問題について考えてみたいと思います。 

 山本七平のいう日本における「空気支配」とは、日本が「追いつき、追い越せ」の到達すべきモデル(既にその正しさが証明されたモデル)を持っている場合は、大変効果を発揮する。しかし、このモデルがなくなって、新たに進むべき道を選択せざるを得ない場合、ある「特定の観念」(未だその正しさが証明されていないもの)に感情移入し偶像化してしまうため、他の意見を一切受け付けなくなる。その結果、間違った選択をしてしまうことを言っています。

 戦前について、その「特定の観念」を列挙すれば、①満州問題の解決について、満蒙を日本の生命線とし、武力に訴えてでもそれを守るべきとしたこと。②蒋介石の存在を、その生命線を守る上での障碍と決めつけ排除しようとしたこと。③西洋文明を覇道文明、東洋文明を王道文明とし、後者が前者を支配することが世界平和をもたらすとしたこと。④日中戦争が終わらないのは、英米が蒋介石を支援しアジアの植民地を維持しようとしているからで、従って、英米との戦争はアジアの植民地解放戦争であるとしたこと、などです。

 これらは、そのいずれも、当時その正しさが証明されたわけではなく、①は、陸軍が自らの行動を正当化するために、全国遊説を行い、また既成事実化することで作り出した空気。②は、陸軍が中国のナショナリズムと蒋介石のリーダーシップを軽視ししたためにできた空気。③は当時の右翼イデオローグや石原莞爾等によって唱えられ、当時の知識人等の大量転向をもたらした最強の空気。④は、大東亜戦争の勃発に際して、日中戦争に植民地解放という新たな意義を与えることでできあがった空気です。

 残念ながら、①は意図的な宣伝の結果できた「恣意的空気」。②は、陸軍が中国のナショナリズムと蒋介石のリーダーシップの評価を誤ったためできた「誤認的空気」。③は、日本の尊皇思想に基づく忠孝一致の伝統思想と、英米の自由主義思想に基づく政治思想(政党政治や議会政治)との葛藤が生み出した「攘夷的空気」(これは今でも未解決)。④は、日本人の日中戦争に対する負い目、それに起因する心理的負担を、資本主義超大国である英米に挑戦することで聖戦に転化した「幻想的空気」です。

 これらは、そのいずれも、日本が明治の文明開化、富国強兵、殖産興業によって、一応、西欧をモデルとする近代化に成功したため、日本がモデル喪失状態に陥り、あるいは西欧の妨害を意識するようになったことで生まれた空気です。つまり、追求すべきモデルがなくなり、大正デモクラシー下の思想的混乱に耐えらなくなった結果、最も伝統的で抵抗の少ない尊皇攘夷思想を掘り起こしてしまった。そのため、明治維新以来、欧米に学び育ててきた政党政治や議会政治を否定する空気が生まれたのです。

 この「空気支配」の問題を、今日の日本の政治状況において考えてみると、国内的には、少子高齢化の問題、社会保障費の増大などに起因する財政状況の悪化の問題、低成長経済の長期化等の国内問題等があります。また、地球温暖化問題やエネルギー問題等、特に原子力発電などは、世界的に見ても、未だその解決法が見つかっていない問題です。従って、日本がこうした問題の解決に取り組む場合、先に戦前の空気支配について述べたような、非合理的な空気支配に陥らないようにすることが極めて大切です。

 その場合に心すべきこと。その第一は、議論の際に自分は「絶対正しい」とか「全き善人」だなどと思わないこと。つまり、自分の意見はあくまで「仮説」であって、他者と意見を戦わすことによって、はじめて、より真実に近い結論が得られると考えること。つまり、自分は「不完全なる善・悪人」にすぎないと見定めることです。その上で、科学的な議論の対象となるものについては、価値判断抜きに客観的論証により結論を得るよう努めること。価値的な議論で社会的な選択を必要とするものについては、論争を通じて選択可能な選択肢を提示し、その中から一つを選択することです。

 当たり前のことで、そんなことなら分かっている、と言われそうですが、こうしたことができるようになるためには、まず、自分自身が、日常生活の中で無意識的に依拠している思想は何なのかということを、他の思想との比較などを通して、その客観的把握に努める必要があります。このことは易しいようで実際はなかなか難しい。

 冒頭に紹介した阿比留瑠比さんの記事には、読者より多くのコメントが寄せられています。その中に、かって朝日新聞記者だった稲垣武さんの著書『朝日新聞血風録』からの引用文も紹介されています。

 「とかくするうち、私はいままで朝日新聞社内で受けてきた言論弾圧に等しい仕打ちがなぜ起こったのか、その本質を反芻して考えるようになった。それは単に社内に親中国派、親ソ派がはびこり、また心情左翼が多いということだけでは解明できないだろう。

 親中国派、親ソ派といえども、骨の髄からそういう心情に凝り固まっているのは少なく、社長や編集担当専務などお偉方がそうだから、保身と出世のために阿諛追従しているのが殆どではないか。また心情左翼といっても、確固としたイデオロギーを持っている連中は少なく、何となく社内の「空気」が左がかっているから、左翼のふりをしているほうが何かと居心地がいいからに過ぎない。

 考えてみれば、戦前に軍部に迎合し、戦争に積極的に協力したころの朝日新聞社内の状況もこれと同じだったのではないか。当時でもリベラルな思想を持っていた人たちは決して少なくはなかったはずなのに、一旦、社内の空気が軍国主義礼讃に傾き出すと、いちはやくその路線のバスに飛び乗ろうとする手合いが続出して、たちまち一種の雪崩現象が起こり、そういう風潮に乗るのを潔しとしない不器用なリベラル派は陰に陽に弾圧を受け、ついには左遷など不利益処分を覚悟しなければ声を出せないような状態に急速になってしまったのではないか。」

 日本人が、なぜ空気支配に陥りやすいか。このことは、重ねて申しますが、日本人以外の民族が空気支配に陥らないということではありません。問題は、日本人には、それに対する抵抗力というか歯止めの知恵が弱いということ(「水をかける」もその一つだか)。では、その知恵を強化するためにはどうしたらいいか。その第一の関門は、まず、自分自身の依拠している思想的基盤を明確に把握すること。それを言葉で他者に説明できるようになること。それによってはじめて、自分と違う意見を持つ他者との論争が可能となり、より良い結論を得る事ができるようになるのです。

 この点、日本人は、稲垣氏も指摘しているように、「心情左翼といっても、確固としたイデオロギーを持っている連中は少なく、何となく社内の「空気」が左がかっているから、左翼のふりをしているほうが何かと居心地がいいからに過ぎない」という例が極めて多いのです。というのも、彼らの本当の思想は「空気を読みそれに従う」ことで、左翼思想は看板に過ぎないのです。だから、その時代に流行の看板思想に身を寄せたがる。その方が安全だから・・・その結果、事実から益々遠ざかっていく。

 山本七平は、『存亡の条件』(この本は、昭和50年出版ですから、もう半世紀近く前のこと)の末尾でで次のように言っています。

 「今の日本人ぐらい,自分が全然知らない思想を軽侮して無視している民族は珍しい。インド思想も、へブル思想も、儒教も、総てあるいは封建的あるいは迷信の形で、明治と戦後に徹底的に排除され、ただただ馬車馬のように、”進歩的啓蒙”の関門目がけて走り続けたという状態を呈してきた。その結果、『では、どうしろと言うのか』という言葉しか口にできない人間になってしまったわけである。その結果、諸外国を見回って(といって、見回ったぐらいで外国文化がわかったら大変なことなのだが)、あちらはああやっているから、ああしようといえば、すぐまねをし、また、こうしたらいいという暗示にかかれば、すぐその通りにするといった状態は、実に、つい最近まで――否、恐らく今も続いている状態なのである。

 そのため、自分の行動の本当の規範となっている思想は何なのかということ、いわば最も「リアル」な事が逆にわからなくなり、自分が、世界の文化圏の中のどこの位置にいて、どのような状態にあり、どのような伝統の延線上にあるかさえわからなくなってきた。従って、まずこれを,他との対比の上に再確認再把握しないと、自分が生きているその基準さえつかめない状態になってしまったのである。そして、これがつかめない限り、人間には、前述のように進歩ということはあり得ない。」

 「なるほど、では、どうしろというのか」。またこの質問が出るであろう。他人がどうしたらよいか、そんなことは私は知らないし、誰も知らない。」(前掲書p179~181)

 民主党のばらまき政策の多くが、諸外国を見回って、あちらはああやっている、といってすぐまねをし、また、こうしたら良いという暗示ににかかれば、すぐその通りにする。その場合、彼らの思想的基盤がしっかり把握されていればまだいいのですが、その思想自体も借り物が多い。で、その本音の思想は、むき出しの金権、夢想的な人間性善説、なりふり構わぬ権力至上主義であったりするのです。この看板思想と実際の思想との恐るべき乖離、これが醜悪なまでに露呈しているのが、今日の民主党政治なのではないでしょうか。

最終校正(7/7 12:41)