尾崎行雄の自由憲法擁護論――憲法のためとしあらば此堂を枕となして討死も好し
前回、尾崎行雄の「天皇三代目説」を紹介しました。この中で尾崎行雄は、明治憲法を自由主義憲法といい、これを盾に東条内閣下の翼賛選挙を憲法違反であると批判しました。ところで、この「明治憲法は自由主義憲法」と言う尾崎の言葉は、戦後生まれの私たちには意外な感じがします。そこで、尾崎がこの言葉をどういう考えのもとに使ったか。これを、1942年4月の翼賛選挙において、尾崎が選挙人に対して訴えた言葉に見てみたいと思います。 以下、引用文中――→ ←――で囲った部分は、検閲により削除された部分です。なぜ、この部分が削除されたかを見れば、当局がなにを怖れたかもよく分かります。なんだか見え見えでおかしな感じもしますが・・・。 最後のご奉公につき選挙人諸君にご相談(1942.4)尾崎行雄 私は少年の頃より、民選議院建設の為に尽力し、憲法実施後は、幸ひに諸君の御推薦に頼て五十余年間衆議院議員を勤めました。モハヤ余命幾何もない今日となって最後の御奉公の仕方を考へなければなりませんが、外に、君国の為にモツト有効な勤め道があれば、私は議員を止めても好いのです。然し一生を憲法の為に捧げて来た私としては、最後の御奉公も、矢張り衆議院議員として致す事が、最も有効だらうと考へてゐます。これが四囲の形勢太だ不利なるを知りつゝ、進んで第廿一回目の総選挙に出陣する所以であります。 然らば「御奉公の目的」はと問ふ人あらば、私は「帝室の尊栄と人民の幸福を保全増進すべき根本法、即ち帝国憲法を擁護育成するに在り」と答へます。此他の万づの国務は、此二大目的を完成する手段方法にすぎないのです。 源平以後、北条、足利、徳川時代は云ふに及ばず、其以前の藤原、蘇我時代と雖も、――→皇室は常に御尊栄←――なりしと申上ることは出来ません。まして人民の方は、斬捨御免の世に生活し、其生命財産の権利すら保証されて居なかったのです。此政治体制を革新し、上は皇室の御尊栄を保全し、下は人民の生命財産を安全ならしむる道は憲法政治の外にはありません。――→然るに此大切な憲法政治が漸次紊乱して斬捨御免の独裁政治を称賛するものすら現出するやうになりました。←――私としては明治大帝が畢生の御心労を以て、御制定遊ばされた憲法政治の為に、身命を擲つのが最善にして且つ最後の御奉公だと信じます。然し選挙人多数の賛成を得なければ、此御奉公を致すことはできないから、打開けて御相談に及ぶ次第です。 近来我選挙区にも、(一)自由主義者、(二)個人主義者、(三)民主々義者、(四)平和主義者、(五)親米英派、(六)軍縮論者、(七)翼賛運動反対者等の臭味ある者をば、選出す可からずと勧説する者があるさうです。是れは――→尾崎には投票するなと云ふに均しい言行です。もしそれが直接と間接とを問はず租税や官僚の援助を受る者の所作であるならば明白な選挙干渉で、憲法及選挙法等に違背する行為です。←――明治廿五年の――→大干渉←――にすら屈せずして、私を選挙した諸君ですから、――→此位の干渉は物の数←――でもありますまいが、余り辻褄(つじつま)の合はない申分ですから、一応弁明いたします。 第一こんな事を流布する人々は、自由主義を我儘勝手に私利私益のみを追及するものとでも誤解して居るのでせう。帝国憲法は、第一章に於て、天皇の大権を規定し、第二章に於て、臣民の権利義務を規定してゐますが、兵役納税の義務に関する第二十条と第二十一条を除けば、其他の十一条は悉く臣民の権利と自由を保証したものであります。――→故に帝国憲法は自由主義←――の憲法だと申しても差支ないのです。 帝国憲法第十九条は、日本臣民は(中略)均しく文武官に任命せられ及其他の公務に就くことを得と保証し、 第二、私は強ち個人主義者ではないが、我が国も古昔と違ひ今日は家に職と禄を与えず、個人の能否に応じて百官有司を任命する以上は、或る程度まで、個人主義を実行しているのです。一概にこれを排斥するわけには参りません。 第三、民主々義はデモクラシーの反訳(ほんやく)語で、民本主義民衆主義などと訳する人もあるが、要するに――→輿論公議を尊重する←――政治形体、即ち独裁専制の反対で、――→明治天皇が御即位の初めに当り「万機公論に決す」と誓はせ給ひたる我が皇道政治と異語同質のものであります。←――之を兎や角言ふものは、文字の末に拘泥して、其本義を解し得ない人でせう。 第四、平和主義者を排斥せよと言ふ人があるが、それは開戦以前に述ぶべき意見であって、既に宣戦の大詔が下った以上は、我が帝国臣民中には、一人も之に反対して、平和を主張するものはありません。現に衆議院が全会一致で、二百数十億円の戦時予算を可決した事が何よりの証拠です。 第五、親英米派、私は漢字と英語で学問をしたのですから、独伊よりも寧ろ支那や英米の事情を多く知ってゐます。然し帝国が既に独伊と同盟して英米と開戦した以上は、私は全力を尽して此国策に奉仕してゐる、又国家的見地より云へば、独伊派の奉仕よりも――→英米派の銃後奉仕の方が一層有効な筈←――ではありますまい乎。(味方の賛成は、当然だが、――→敵方の賛成は国策遂行上一層有効な筈)然るに今回の選挙に限り此奉仕者を排斥せんとするは公私顚倒の言行のやうに思はれる。←―― 第六、――→私の軍備縮少論、私は「国防を強化する方法を以てすれば軍備は成るだけ縮少した方が善い」と確信してゐます。←――而して強弱は相対的のものだから、対手国が我よりも多く縮少すれば、国防は軍縮のために強化します。 第七、翼賛運動反対者、明治大帝は立憲政体の詔書(明治八年四月十四日)に於て、翼賛の二字を御使用遊ばされ又憲法制定の御告文に於て「外は以て臣民翼賛の道を広め」と仰せられ、又憲法発布の際にも「其翼賛に依り」云々と宣はせられました。故に翼賛の二字は大帝の御用語であって、帝国議会は陛下の翼賛会であると、私共は確信してゐます。而して一朝事あるに於ては日清の役にも、日露の役にも、又支邦事変に際しても、私共は何人の勧誘をも待たず、平生の対立抗争を一擲して、挙国一致銃後奉仕の実を挙げました。歴代の政府は何れも叙勲其他の方法を以て、帝国議会の忠誠を表彰した。今回の支那事変に於ける帝国議会の翼賛行動を、前の二役に比べて、寧ろ優るとも劣る所はありません。――→然るに近衛内閣以来の政府は明治大帝の御用語たる翼賛の二字を借用して自分等の公事結社に転用し、ついに租税と官僚の力を借りて以て新たな翼賛議会を製造せんと称している。明治大帝の建設し給ひ而も五十余年の歴史ある翼賛議会と異なる所の新翼賛議会を創造せんとするが如く見える←――翼賛会が悪い乎、之に反対するものが悪い乎。挙国選挙人の公正な判断を待つ。 第八、――→翼賛会関係者の候補者推薦は挙国一致体制を破壊す。←――支那事変以後内閣は、幾たびも更迭したにも拘はらず、帝国議会は、各種の派別を一擲し全会一致して、日清戦争に百倍する予算其他の議案を可決した。政府は之に大満足を表すべき筈なるに、却て別に翼賛会を設け、――→其関係者をして議員候補者に推薦せしむるの方針を執った。推薦に漏れた候補者は勢ひ之と対戦せざるを得ないだらう。従って候補者も選挙人も翼賛会派と其反対者とに分離して抗争することにならざるを得ない。全体主義とか一億一心とか言ひながら全国民を政治的に二分するわけになるが、それが戦時の国家に有利だと考へるのだらうか。←―― 第九、愛憎に由て事実を顛倒してはならぬ。独伊の独断専制主義は、今回の戦争には、奇功を奏してゐる。ソ聯の共産主義も、前回の帝政時代に比すれば、大に戦争に効果があるやうだ。然し之を見て、直ちに共産主義や独裁政治に心酔してはならぬ。特に我が国体は、全く独、露、伊に異ってゐるから、之を真似ることは出来ない。 第十、最後の御奉公、私は既に予想外の高齢に達してゐるから、政界を隠退し、余生を風月の間に送って好い筈ですが、私が身命を賭して、其育成に尽力した所の――→立憲政治は漸次衰退して遂に官選議院を現出せんとするに至った。此儀に放任すれば明治大帝が畢生の御苦心を以て設定し給った政体も、遂に有名無実にならんとする恐れがある。←――故に私としては成敗を問はず憲政擁護の大旗を掲げて最後の御奉公のために出陣せざるを得ないのです。 これを見ると、日本の立憲政治確立のために半世紀をかけて戦ってきた政党政治家と、近衛文麿のような三代目の政治家との違いが分かりますね。前者には、日本の立憲政治は自分たちが作ってきたという自負があり、それ故に、彼らには、憲法や議会政治や政党政治などの民主的政治制度の価値や、それが国民自由の観念と密接に結びついていることを知っていました。しかし、三代目には、これらの制度が国民の自由の観念と結びついていることが分からなかったのです。 尾崎が生まれたのは、安政5年(1858年12月24日)、大日本帝国憲法が制定されたのは明治22年(1889年2月11日)です。翌、明治23年(1890年11月)には帝国議会開設に伴う第1回衆議院選挙が行われ、尾崎は三重県選挙区より出馬し初当選しています。それ以後、なんと63年間、連続25回の当選(これは世界記録)を果たしたわけですが、その彼の演説(=言論)を聞いていると、明治憲法下でこれだけの言論をなしえたことに驚かざるを得ません。 尾崎が、この演説を選挙人に向けて行ったのは、日本が対米英戦争に突入し、初戦の快進撃が続き、世論が沸き立っていた頃でした。こんな時期に、よくこれだけのことが言えたものだと感心しますが、その後ろには、彼を議会に送り続けた人々がいたわけで、これにもまた少なからず驚かされます。一体、どうしてこんなことができたのか・・・。先に私は、尾崎には、立憲政治を自分たちの力で作ってきたという自負があった、と申しましたが、やはり、あてがいぶちではダメだ、ということなのかもしれませんね。 なお、なぜ軍が尾崎行雄の言う「新翼賛議会」をもって旧議会に代えようとしたか、ということですが、それは、昭和5年の統帥権干犯攻撃によって、軍の編成権を内閣から奪い、それによってどれだけ兵力量が必要かということについて、内閣には一切口を出させないようにした。もちろん軍事行動については首相にも一切知らせず統帥部限りの判断で行った。しかし、予算の承認権は憲法上議会が持っていたので、この議会を翼賛会でもって占めることで、議会の予算承認権をも奪おうとした、ということです。 最終校正 5/31 2:30 |