幣原喜重郎の「国際協調」「不干渉主義」外交は、どのようにして帝国主義的武力外交に取って代わられたか。

2011年1月10日 (月)

幣原「国際協調」「不干渉主義」外交は、今日ではあたかも定説であるかのように批判の対象とされます。しかし、私は必ずしもそれは正しいとは思わない。確かに、それは、共産主義思想の台頭、支那の革命外交の推進、資本主義経済恐慌の発生、それに引き続く保護主義的傾向、これらへの対処と、それに、国内ナショナリズムへの配慮に欠ける面があった、ということはできると思います。

 しかし、いずれの政策も万全では有り得ないのであって、当時の国際状況の変化の中において幣原の採った対応策が間違っていたかというと、私は決してそうは言えないと思います。それが失敗に帰したのは、これに対抗しこれを葬ろうとする思想及び政府のコントロールを脱した非合法的武力行使があったからであって、もし、これを政治家がうまくコントロールできていたら、その後の昭和の悲劇は決して起こらなかった、と私は思うのです。

 このことを理解するためには、こうした幣原外交批判の発火点となった第二次南京事件とはどういうものであったかを知らなければなりません。そこで、今回は、健介さんの反論への回答も兼ねてこの事件をより詳しく見ておきたいと思います。

健介さんへ

>>砲艦が攻撃するかどうかの判断は、統帥事項であって外務大臣の介入できることではなかったのです。

>これは変ではないですか。自衛という条項が発動されるかもしれないが、軍事攻撃は外交問題になるわけですから、外務省を無視するわけにはいけない。

tiku 明治憲法における統帥権の慣習的な解釈は、天皇が軍事の専門家である参謀総長・軍令部総長に委託した戦略の決定や、軍事作戦の立案や指揮命令をする軍令権のことをさしていました。従って、第二次南京事件のような居留民が突発的な暴行略奪事件に会ったときの軍事的な対処は、当然、統帥権に基づいて軍の判断で処置されるのであって、外務省に判断を仰ぐべきことではないのです。

 従って、この時は艦長の判断で砲撃を止めたのです。しかしこの処置は、暴行を受けた領事館警備の海軍警備隊員(11名)に耐え難い屈辱感をもたらし、その責任を取って隊長の荒木亀男少尉(海軍)は自刃し(未遂)、それがマスコミの彼に対する同情と政府に対する憤激を招くことになりました。こうした日本側の処置が適切であったかどうかについて、幣原は次のように言っています。

 この事件は、大正15年の夏、国民革命軍が北伐を開始して漢口に進出して以降、蒋介石が共産党排斥に転じたことに危険を感じた共産党員が、蒋介石の国内・国際的な評価を貶めるため意図的に引き起こした事件だった。この頃の日本人居留民は十数万もいたらしく、それは英米に比し圧倒的に多数だったので、前回説明したような事情で艦長は砲撃を控えたのでした。

 「この時の海軍将校の苦衷は寔(まこと)に諒察に余るあることを認めなければなりませぬ。何れにするも、政府より支那に於ける文武官憲に対し、無抵抗主義を指示したと云うが如きは途方もなき憶測でありまして、若し果たして無抵抗主義なるものがあったならば、当時政府は疾くに(いち早く)在支居留民全部の引き揚げを断行したでありましょう。何を苦しんで揚子江方面に空前の警備隊を配置したでありましょうか。」(慶應義塾大学での講演)

 次ぎに、この事件に関する『東京日日新聞』(弓削南京特派員三月二十九日発)の詳細な報告記事です。

 「(昭和二年三月)二十四日午前五時頃である、国民第二軍、第六軍、第四十混成旅団の各軍から選抜された約二千名の決死隊は南京南部の城門を押開き侵入して来た、市民は各戸に「歓迎北伐軍」の小旗を掲げ爆竹を揚げて歓迎した、

 われ等在留日本人は南軍が入った以上もう大丈夫だと安堵の胸を撫でていた矢先き六時半頃平服隊や左傾派学生に手びきされた約百余名の国民軍が突如わが領事館に向って一斉射撃を行い餓狼の如く闖入して来た、

 そしてピストル、銃剣をつきつけてまず第一に現金を強奪し眼鏡や時計、指輪をはじめ身に着けたものは着物まで剥ぎ取った入り代り立代り入って来る国民軍兵士、それに勢を得た群衆まで交って手に手に領事館内の畳から便器、床板に至るまで一品残らず持ち去った、かくて領事館内は阿鼻叫喚の巷と化し居留民は数家族ずつ一塊りとなって何等の抵抗もせず、婦女子をかばいつつ身を全うするにつとめた、

 国民軍の闖入と同時に御真影は金庫の中に奉安したがこれを警護申上げていた木村警察署長は第一番に右腕に貫通銃創を負いさらに右横腹を突かれた病気で臥床中の森岡領事は二回にわたって狙撃されたが幸いに命中しなかった、また根本駐在武官は銃の台尻で腰をしたたか打たれた上左横腹をつかれ二階から地上に墜落して人事不省に陥った、

 かくて領事館内の日本居留民は一まず領事館舎の西側窪地に落合い種々善後策を講じたが下関との連絡は断たれ妙案の出るわけもなかった

 その間国民軍の兵士は数回銃を擬して迫って来て身体検査を行い金を出さねば 皆殺にすると威嚇する、全く生きた心地もなくその二十分ばかりは千秋の思いだった十一時過ぎ党代表蒋継、戴岱二氏がやって来て兵士の無礼を謝すと共に今後は十分取締ることを誓い数名の警備兵を残して日本人保護に当たらせた、

 そこでやっと蘇生の思いをして領事館舎の一部に表を剥ぎ取られた畳を敷き一まず籠城の覚悟を決めた、しかし下関との連絡は依然として断たれている思案に余ったわれ等は支那人二名を買収して下関の海軍に至急来援を乞う旨いい含めて派遣した、

 そのうちに領事館外にいた者も追々集まって来た、朝から飯も食わず飲むものもなく辛うじて主人の身の上を気遣ってやって来た各自の使用人にまんじゅうを買わせお互にこれを一つずつかじって飢をしのぐことが出来た、この時領事館にあった者は男二十六名、女二十三名、子供五十二名でその外駆逐艦の乗組員荒木大尉以下十一名、合計百十二名である、

 檜の乗組員は二十二日上陸、領事館で通信その他警備の任に当たっていたのであるが事余りに急なると 危険の増大を慮り発砲等は一切しなかった、万一発砲して支那側を一名でも殺したら第二のニ港事件を演出しわれ等日本人は一名残らず惨殺されたことであったろう、

 あくまで隠忍自重してしまったのは実に幸であって負傷者二名を出したに止まったのはむしろ奇跡だ、畳八枚を敷き暗い別室に婦人、子供、負傷者を収容し一夜を明さねばならぬ、しかも病人は四名あってそれは皆刻々悪くなって行く、子供は泣く、寒気は強し、裸体にされた者は使用支那人の物を一枚、二枚分けて貰って着るという始末、実に悲惨の極みだ、

 午後五時頃下関より砲撃が開始された、さては列国協調の作戦に出たなと思い日本陸戦隊の来援を待ちに待った、この間三時間砲声を聞きながら一同希望の色をうかべたがこれも八時半頃にはやんで何の便りもない、いよいよ夜に入った、寒気は一層加わって来る、夜具は毛布一枚さえなくふるえながらお互いの体温で暖をとる、なかなか興奮と不安とで眠られない、男は馬小屋から藁を持出しその中にもぐり込む、かくして不安のうちに二十五日の夜はあけた

 あくればまた朝飯が一心配だ、二十五日支那側から糧食を持って来るといっていたがそれは一時の御世辞に過ぎない、自給するより外ない、しかし領事館外には一歩も踏み出せぬ、下関の海軍にやった使はどうなったか、まだ返事が来ぬ、警備に来てくれている国民軍兵士のすごい顔を見れば依然として不安は募るばかり、二十六日午前十一時五十分突然 戸を破って躍り込んだ一隊がある、

 これは第二十四駆逐隊長吉田中佐が決死隊三十名を率いて駆つけて来たのである、吉田中佐は「皆無事か」と叫びながらわれ等と握手した、もう救われたと思った瞬間うれし涙が止め度もなく流れる、共に相擁して泣く、この時の感謝と喜びは一生を通じて忘れることは出来ぬであろう、大日本帝国万歳を三唱した、

 吉田中佐は浅賀書記生と共に第六軍長程潜氏の司令部に談判に赴く、午前十一時より軍艦へ引揚を開始し辛うじて手に入れた二台の自動車で病人、負傷者、婦女子を積んで先発さした、しかしガソリン欠乏のため引つづき輸送することは出来ぬ、

 午後辛うじて被害を免れた二つの金庫の破壊に取りかかった一つには御真影と領事館の重要書類がある他の一つには会計書類と現金三千元が入っているのだ、二時頃御真影は無事領事の居間に奉安した、三時頃吉田中佐は第六軍の楊第十七師団長を伴い来った楊氏は日本陸軍大学出身で流暢な日本語で今回の不始末を陳謝し領事館内を見廻り日本人引揚に要する乗物を周旋することを約束して帰った、

 赤十字会から間もなく自動車、馬車を周旋して来たので全部これに分乗し前代未聞の惨害を跡に艱難辛苦数十年を費して築き上げた地盤も今は無一物に帰し、寂しい別れを告げ二十四駆逐隊檜、桃十八駆逐隊浜風の三隻に分乗した今回の掠奪は共産党南京支部の手引によるもので全然排外行為である、

 ゆえに日本は勿論英、米、仏その他の外国人は全部惨澹たる被害を受けた、外人側の死傷者は英国総領事ヂャイルス氏が脚部に重傷を被り、四名射殺、負傷者数多、米国側は金陵大学長が射殺され、数名負傷、五百名の在留民中二百名は生死不詳という有様である」

 その後、蒋介石は列国に対する謝罪、加害者の処罰(死刑)、賠償費の支払いを行い事件の後始末をしました。また、この時の艦長は荒城二郎で揚子江流域の警備に当たる第一遣外艦隊司令官で、事件後その責任を取って進退伺いを提出しましたが、時の海軍当局(岡田啓介海相、左近司政三軍務局長)に受理されませんでした。

 また荒城が帰還拝謁した際には、荒城は、日本中の世論が激高する中、お若い陛下にご理解が得られないのではないかと思っていましたが、昭和天皇は「今回の司令官の役目たいそうご苦労であった」とねぎらわれたとのことで、その時のことを三十数年経った後、ある機会に子息の荒城義朗氏に伝えられたとのことです。(『昭和天皇と米内光政と』p2~8)

 この事件をとらえて政友会の森恪は、「四月七日松岡洋右氏と共に、青山會館の演説會で南京事件に関して、大に輿論の喚起に努めた。その演説は「幣原外交の價値」といふ題で要旨は次の如きものでした。

 「幣原外交なるものは如何なる利害得失、如何なる信念の下に國民の訓利を計って居るものであるかを此の際明白にしたい。私の眼に映じて居る支那は。支那人自身の活動に依っては今日以上に好くなることも悪くなることも出来ない。支那は支那の力に他の或る力が加はった時に、こゝに大なる衝動変化が起る。若し列國か不干渉、傍観的態度を守って居れば、支那の形勢は変化することはない。過去数年間、殊に幣原外相に至ってから極めて厳密にこの不干渉主義が行はれたのであるが、南京に於ける暴動に依って領事館の菊の御紋章は破壊され、國旗は引き裂かれたのである。・・・

 私共は支那の學生が國民運動を過信して今日の悲惨なる事態を惹起したことを断じて許すことは出来ない。殊に若い軍人が丸腰で領事館に行き、自分の責任を行ふことか出来ずして、荒木大尉は自殺したではないか。而してこの丸腰を以て在支國民を保護せよと命じた政府常局の非を私共は断乎として責めなければならぬ。(中略)支那の如く生活上最も恵まれたる土地は宜しく世界人類の為に解放せられなければならぬ所である。我々は彼等が真面目なる政洽的行動に出るといふならば敢で反對する者ではないが、世界革命を以てその終局の目的とするソヴイェツト政府が背後にあつて、その革命運動をやつてゐる以上、我が日本國民は断じて安閑たることを許さない。」(『森恪』山浦貫一p553)

 ここに森恪の、後に日本軍人さらには一般国民に共有されることになった、蔑視的な「支那人観及びその土地・領土観」が現れているでしょう。実は、森恪が幣原の国際協調外交、対支不干渉外交を非難したのは、こうした思想的背景があったからで、これが、田中義一内閣(森恪は外務次官、外務大臣は田中首相が兼任していたため、森恪が実質的な外務大臣だった)の時の、三次にわたる山東出兵、その間に発生した済南事件、その約一月後の張作霖爆殺事件へと続いていったのです。こうした急進的な軍の行動の背後に、森恪がいた事実を、多くの史家は軽視しすぎていると思います。 

>(艦長の判断で砲撃をするか市内か判断できるとすると)これだと出先機関が勝手に戦闘を始めることになります。満州事変がそれでしょうが、問題は尼港事件はロシアであり、南京事件は支那です。この違いを認識しない事が事の問題だと思います。

tiku 満州事変は、ロンドン軍縮条約締結時の「統帥権干犯」事件以降、先に紹介した慣習的な統帥権解釈に止まらず、憲法第一二条の軍の「編成権」まで統帥権に含まれるかの如き解釈がなされたことによって発生した、ということができます。また、支那とロシアにそれほどの違いがあるとは思えませんが・・・。

>昭和の動乱は私は結果だという見方も持っています。それは日露戦争の処理のしくじりと、辛亥革命以降の支那の行動、具体的には革命外交に対する対応を間違えた事が大きいと思います。藤原氏の見方は歴史的には事実関係が異なりますが、それが流布しているという事が世の中を動かす。この要素の対するわが国の外交的視点が無い事が大きな問題のひとつです。これは簡単では無いですが、その名人は支那人でしょう。

tiku 要するにシナ人の宣伝上手、日本の宣伝下手を云っているのでしょうが、問題はそうした宣伝を行う際のそのベースにある国家戦略、情報戦略がどれほどしっかりしているか、ということではないでしょうか。中国はそれがしっかりしていたということも言えるわけですが、私見では、南京大虐殺の謀略宣伝を今だにやり続けているのは、全くの失敗だと思います。その内大ウソがバレバレになって恥をかくこと必定です。

 一方、日本人についてですが、昨日のNHKの番組で指摘されていたことは、そうした国家戦略が分裂していて、有田八郎の防共協定工作(中国、イギリス、オランダ等世界各国にこの赤化防止協定を呼びかけることで、日本の国連脱退以降の国際孤立から脱却しようと画策したこと)についても、所詮、満州事変で犯した「国際法」の流れ――帝国主義的秩序から民主主義的秩序への流れ――を無視したその「無理」が、この工作を挫折せしめた、というものでした。

 なお、この番組の一番の問題点は、日中戦争は日本ではなく中国が欲した戦争であった、という事実がほとんど閑却されていたことでした。まだ、中国が恐いのですね。

(つづく)