幣原外交の再評価をめぐって4――満州事変は幣原「軟弱外交」の帰結か?

2010年10月27日 (水)

健介さんへ(以下、満州問題に関する私見をまとめておきます)

R・F・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』に次のような記述があります。

 「もし革命の早い時期に、一次的にしろ、永久的にしろ、満洲朝廷が古の満洲の郷土に隠遁する決意を固めていれば、支那の革命主義者によって追い出されたかどうか、又満洲が中華民国の一部を構成する名目上だけの領土と化していたかどうか、非常に疑わしい。今までも、これよりひどい事態に陥ったことは一度もない。

 もし満洲人が満洲に退き、しかもシナでの満洲人の権力が最終的に完全に崩壊したと判明すれば、十七世紀前半に君臨した王朝と同じように、シナから完全に独立した満洲君主制の再興を目にすることも決してありえなかったわけではない。

 そうなれば数多くの有能な皇帝支持者が、そのような君主制の下で官職に就くだろう。また共和国の状況に不満を抱く、あらゆる階級のシナの人びとも数多くその後に続くだろう。そのような君主制が樹立されれば、やがて熱河や残る内蒙古の地方も合流していたかもしれないのである。

 シナでの革命が危険なものに思われはじめた時、満洲朝廷は満洲へ隠棲する可能性を見過ごしていたわけではない。それどころか、この問題は真剣に議論されたのであり、シナと満洲の多数の帝国主義者は、これこそ追求すべき最も賢明な方策だと主張したのである。

 ところが最終的に摂政と多くの親王が北京に残留することを決断したのは、袁世凱が優待条件の中で彼等のために確保した条項を、彼らが、愚かにも、そしておめでたくも、すばらしいと信じたからである。」(上巻p191)

「帝室が満洲に逃避して、革命主義者と妥協しなかったとしても、地方の軍閥(中でも張作霖はすでに傑出していた)や地方政府が帝室に敵意を抱いたり、反対するとは到底考えられない。それどころか、大清朝のもとに「満蒙」帝国がシナから完全に独立することを宣言しそれを成功裏に維持することも決してありえないことではない。・・・満州国は、他の公国の有無にかかわらず、1932年ではなく、(その地位を疑問視する国際連盟誕生していない)1912年に生まれていたであろう。

 もしシナが、分離国家としての満蒙帝国の安定を脅かすような態度をとれば、満洲帝国はますますもって日本と密接な提携関係にいった公算はすこぶる高い。そうなれば、それからちょうど二十年後にシナや世界が直面した状況(日満議定書の調印のこと)と酷似した状態になっていたことだろう。」(下巻p62)

 いずれにしても、満州国が満洲人の意志として誕生する歴史的条件は相当にあったと言うことです。ただ、「最終的に摂政と多くの親王が北京に残留することを決断したのは、袁世凱が優待条件の中で彼等のために確保した条項を、彼らが、愚かにも、そしておめでたくも、すばらしいと信じたから」だった、ということなのでしょうが・・・。

 その後の満州国成立の機会としては、張作霖がシナの皇帝となることを諦めて奉天に帰還することになった昭和3年が考えられます。しかし、この時は、田中首相の意図に反して、関東軍が張作霖爆殺という「わけの分からない事件」を引き起こしたために、全てが狂ってしまいました。

 これが、結局、昭和6年の満洲事変へと発展していったのですが、この首謀者であった石原莞爾と、当時、在満邦人の自治拡大と利益擁護をめざした「満州青年連盟」――その第二回議会で「満蒙自治案」が提起された――の有力メンバーであった小沢開作(小澤征爾氏のお父さん)との、「満蒙独立論」についての興味深い対談がありますので次ぎに紹介します。(満州事変が起こった少し後の頃の会話)

 石原「ほほう、そうして満蒙を日本の権益下に置こうというのですか、小沢さん」

 小沢「冗談じゃない、私は日本の官僚財閥ではありません。満蒙を取っても三、〇〇〇万民衆の恨みを買ってどうします。いや三、〇〇〇万民衆ばかりではない、中国四億の漢民族は日本を敵とするでしょう。欧米人の圧迫に目醒めたアジアの諸民族は、日本を欧米諸国以上に憎むでしょう。そんなバカらしい権益主義は改革すべきです。」

 石原「すると小沢さんは、大アジア主義者で満蒙を独立国にしようというのですか」

 小沢「満蒙独立国の建設は満州青年連盟の結成綱領です。その実現のために出来たんです。(中略)新国家の建設は、私たち日本人がやるんではなくて、三、〇〇〇万民衆にやらせるんです。そこが帝国主義と民族共和の違いです。」

 石原「廃帝溥儀を、満洲の皇帝に持ってくるという方策をどう思いますか」

 小沢「バカらしい、溥儀のために死ねますか。私ばかりではない、三、〇〇〇万民衆の八〇%は”滅満興漢”の中国革命を信奉している漢民族です。溥儀なんかを皇帝に持ってきたら新国家はできませんよ」(『昭和に死す 森崎湊と小沢開作』松本健一p160)

 この段階では、満洲帝国の再興というアイデアは、すでに現実的なものではなくなっていたのですね。この時、小沢開作ら満州青年同盟が唱えた「満蒙独立論」の思想は、決して、満蒙権益擁護論でもなければ、ましてや満洲占領論ではなく、それはあくまで、「隣邦の国民自身が自主的に永遠の平和郷を建設せむとする運動に対して、個々の我等が善隣の誠意を鵄(いた)してこれを援助せしむるものである。換言せば、国家的援助に非ずして、国民的援助である。従って外交的問題の起こるはずがない」(上掲書p150)とするものでした。しかし、こうした小沢らの慈善的ロマンティシズムは、まもなく関東軍によって裏切られ、小沢はこの運動から手を引くことになります。

 というのは、石原ら関東軍参謀が満州事変を起こしたそもそもの動機は、もちろん「隣邦の国民自身が自主的に永遠の平和郷を建設せむとする運動」を援助するためではなく、(表向きには)あくまで満蒙権益擁護のためだったからです。ここで(表向きには)といったのは、実はこれさえ建前に過ぎなくて、その本音は、次のようなものでした。  

 「我国情ハ殆ント行詰り人口糧食ノ重要諸問題皆解決ノ途ナキカ如シ。唯一ノ途ハ満蒙開発ノ断行ニアルハ輿論ノ認ムル所ナリ。然ルニ満蒙問題ノ解決ニ対シテハ支那軍閥ハ極力其妨害ヲ試ムルノミナラス、列強ノ嫉視ヲ招クヲ覚悟セサルヘカラサルノミナラス、国内ニモ亦之ヲ侵略的帝団主義トシテ反対スル一派アリ。

 満蒙ハ漢民族ノ領土ニ非スシテ寧ロ其関係我国ト密接ナルモノアリ。民族自決ヲ口ニセントスルモノハ満蒙ハ満洲及蒙古人ノモノニシテ、満洲蒙古人ハ漢民族ヨリモ寧ロ大和民族ニ近キコトヲ認メサルヘカラス。現在ノ住民ハ漢人種ヲ最大トスルモ、其経済的関係亦支那本部ニ比シ我国ハ遥ニ密接ナリ。

 之等歴史的及経済的関係ヲ度外スルモ、日本ノ力ニ依リテ開発セラレタル満蒙ハ、日本ノ勢力ニヨル治安維持ニ依リテノミ其急激ナル発達ヲ続クルヲ得ルナリ。若シ万一我勢力ニシテ減退スルコトアランカ、目下ニ於ケル支那人唯一ノ安住地タル満洲亦支那本部ト撰フナキニ至ルヘシ。而モ米英ノ前ニハ我外交ノ力ナキヲ観破セル支那人ハ、今ヤ事毎こ我国ノ施設ヲ妨害セントシツツアリ。我国正当ナル既得権擁護ノ為、且ツハ支那民衆ノ為遂ニ断乎タル処置ヲ強制セラルルノ日アルコトヲ覚悟スヘク、此決心ハ単ニ支那ノミナラス欧米諸国ヲ共ニ敵トスルモノト思ハサルヘカラス。」

 この最後の段は、満蒙における日本の治安維持の義務を語りつつ、同時にそれは、我が国の正当な既得権擁護のためでもあり、かつ支那民衆のためであるといい、しかし、そうした日本の行動は、支那のみならず欧米諸国をも敵とするものであり、日本人はその日が来ることを覚悟すべきであるというのです。そして次のように続きます。

 「即チ我国ノ国防計画ハ米露及英ニ対抗スルモノトセサルヘカラス。人往々此ノ如キ戦争ヲ不可能ナリトシ、米マタハ露ヲ単独ニ撃破スベシ等ト称スルモ、之自己ニ有利ナル如キ仮想ノ下ニ立論スルモノニシテ、危険ハナハダシキモトイウヘク絶対ニ排斥セサルヘカラザル議論ナリ。」いささか空想的に過ぎるように思われますが、これは決して冗談やざれごとでありません。というのは、石原莞爾はこうした言葉を、彼自身のオリジナル思想(?)である周知の次のような「最終戦争論」のもとに語っているのです。

 「欧州大戦ニヨリ五個ノ超大国ヲ成形セントシツツアル世界ハ、更ニ進テ結局一ノ体系ニ帰スヘク、其統制ノ中心ハ西洋ノ代表タル米国ト、東洋ノ選手タル日本間ノ争覇戦ニ依り決定セラルヘシ。即チ我国ハ速ニ東洋ノ選手タルヘキ資格ヲ獲得スルヲ以テ国策ノ根本義トナササルヘカラズ。」「而シテ此ノ如キ戦争ハ一見我国ノ為極メテ困難ナルカ如キモ、東亜ノ兵要地理的関係ヲ考察スルニ必スシモ然ラス。即チ

1 北満ヨリ撤退シアル露国ハ、我ニシテ同地方ヲ領有スルニ於テハ有力ナル攻勢ヲトルコト頗ル困難ナリ。

2 海軍ヲ以テ我国ヲ屈服セシムルコトハ難事中ノ至難事ナリ。

3 経済上ヨリ戦争ヲ悲観スルモノ多キモ、此戦争ハ戦費ヲ要スルコト少ク、概シテ之ヲ戦場ニ求メ得ルヲ以テ、財政的ニハ何等恐ルルニ足ラサルノミナラス、国民経済ニ於テモ止ムナキ場合ニ於テハ、本国及占領地ヲ範囲トスル計画経済ヲ断行スヘク、経済界ノ一時的大動揺ハ固ヨリ免ルル能ハストスルモ、此苦境ヲ打開シテ日本ハ初メテ先進工業国ノ水準ニ躍進スルヲ得ヘシ。(以上『満州問題私見』石原莞爾s6.5)

 つまり、世界は最終的には西洋文明のチャンピオンたる米国と、東洋文明のチャンピオンたる日本の間で最終決戦が争われる。日本はその東洋チャンピオンたる資格を獲得することを国策の根本とすべきである。一見、これは日本には無理と思われかもしれないが、決してそうではない。即ち、ソ連は、北満を日本が領有すれば有効な攻勢に出ることは極めて困難となる。また、アメリカが海軍力をもって日本を屈服させることも至難である。また、戦費は戦地において現地調達すれば、いわゆる「戦争をもって戦争を養う」ことができる。さらに、国民経済において計画経済(=「国家総動員体制」)をすれば、一次的に経済界が動揺しても、それを乗り越えることで先進国の水準に飛躍できる、というのです。

 ここに、日中戦争及び日米戦争のアウトラインがはっきりと描かれています。それは、紛れもなく満州事変以前に石原莞爾によって描かれたもので、これによって初めて、日本の満蒙領有についての文明史的意義付けがなされ、その実行主体としての日本の歴史的使命が説かれたのです。だが、こうした途方もない戦争のビジョンが、はたしてどれだけ当時の軍人にリアリティーをもって理解されたか、これは甚だ疑問といわざるを得ません。だが、これによって、二重政権の創出にも等しい満州の武力占領が実行に移され、その、目的のためには手段を選ばぬ下剋上的無法行為が正当化されるに至ったことは間違いないのです。

 一方、この満州事変を、かって日本の支援を得て北京政府の実権を掌握したことのある段祺瑞はこれをどう見ていたか、これをを示す興味深い対談がありますので最後に紹介しておきます。対談の相手は溥儀を天津より連れ出した土肥原賢二、時期は満州事変が発生した直後です。

 段 東北問題は張作霖(奉天督弁)時代からのことで、貴官らは専ら東北に一つの独立国を造ろうとしていた。これに対し張督弁(張作霖)が反対したので、遂に爆死させたではないですか。張司令も身に危険の及ぶのを感じて北京に逃避したのです。この機に乗じ、君達は、武力をもって進攻し奉天、長春の地を次々に不法占領し掌中に収めた。君達は、張学良と交渉したいというが、こうした情況下で、果して交渉に応ずるでしょうか。又、独立させる、とか、最高の地位を与えるから・・・、という条件を持ち出したりして之に応ずるでしょうか。それは言わなくても明々白々の事でしょう。

 君達日本には、沢山の「中国通」がいると言われている。しかし果して、真の中国を識る「中国通」が居るだろうか。皆さんは、自分の幻想に照して、まず原則を定め、そのあとでいくらかの資料を探してそれに当てはめ、こういうやり方で中国問題解決の政策をつくって行くようだが、この結果は、中日両国の将来を誤まらせること必定で、とどの詰りは、第三国に漁夫の利を得させること明らかである。
(土肥原無言、談話は続く)

 段 君達は、中国が長く分裂することを望んでいるかも知れないが、中国は統一している。君達は、現実を正しく見つめようとしない。問題に遭遇しても、南京政府(蒋介石)と交渉しようとせず、ただ地方(東北)で攪乱し、大したこともない人物を推し立てて既成事実とし、益々問題をこじらせ、その解決を困難にしている。

 土肥原 この度、私か当地に参りましたのは、先刻ご承知のように上司の命を奉じ、閣下にご謁見の上、お知恵を拝借し、大乗的見地から中日両民族の永久平和の道を発見したい為でありまして、特に現在の東北における行詰り打開は焦眉の急に追っており一刻の猶予も許されないのです。

 段 私は一介の閑人である。私か今迄話したことは、私個人の意見であって、決して中国政府が私に代弁させているのではない。これは本庄さんに伝えてもらいたい。
(中略)
段 聞く所によれば、もと清朝の溥儀皇帝が、東北に行ったそうですが、結局どういうことになるのです。

 土肥原 この件は、奉天事件とは関係ありません。溥儀氏がこの地(天津)に居られると一部の閑人が何やかやとうるさいので、租界当局も職責上毎日所要の警察官を派遣して、保護申しあげねばならず、お互いに不都合が多いので、溥儀氏としては、こうした雑音を避け、環境の好い東北南端の旅順(現在の旅大市)に移りたいというご希望があったのでお力添えをしたまでのことです。生憎く奉天事件九一八事変に際会したので、貴国朝野の人士から疑われるのも無理はありますまい。

 段 土肥原さん、今日の会談はうまくいきましたね。お互いは確かに因縁がありますよ、貴官は、貴国の軍人中、人格識見とも最上級の方だけに高所に立って広い視野で物事を観察される。私はそう信じたい。
昔の人の言葉に「多く不義を行えば、必らず自ら斃れる」ということかありますが、これは確かに道理に叶っている言葉です。

 中日両国の関係から言えば、私は今、思い出せませんが、中国はどういうところで日本に済まないことをしたのか、ということです。日本としては、どうした訳か中国につきまとって拘束から開放してくれない。中国人としては、何とかして日本の意のあるところを理解し歩みよりたいと念願するのですが、忍耐にも限界があり、現在の状況はもうギリギリの状態に立ち至っている訳で誠に重大と言わなければなりません。

 もし、君達が、東北撹乱の特殊組織を作り、中国人の忍耐の限界を超えるとすれば、それこそ大きい禍根を作ることとなり、貴下もこの災難から込れることは出来なくなるでしょう。」         

 以上、満州国が成立する歴史的条件について、満洲人あるいは中国人の立場から見てきました。日本人はこの問題に、日清戦争、日露戦争をこの満州の地で戦ったことからコミットすることになったわけですが、その際、何が一番問題だったか。以上の会話における次の段祺瑞の言葉は、その問題点を見事に喝破しているように私には思われます。

  「皆さんは、自分の幻想に照して、まず原則を定め、そのあとでいくらかの資料を探してそれに当てはめ、こういうやり方で中国問題解決の政策をつくって行くようだが、この結果は、中日両国の将来を誤まらせること必定で、とどの詰りは、第三国に漁夫の利を得させること明らかである」

 つまり、最大の問題は、日本人が勝手に抱いて中国人に押しつけようとした「幻想」にあるというのです。これが、「中日両国の将来を誤まらせ」「第三国に漁夫の利を得さ」せるであろう、その根本原因だというのです。

 この場合の日本人の「幻想」とは、石原の「東西文明論」に象徴されるものであり、今日ではそれはいかにも荒唐無稽な幻想のように思われますが、こうした考え方が当時の日本人の考え方を支配していたことは紛れもない事実なのです。幣原喜重郎はこの日本人の「幻想」に支配された外交の危険性を誰よりも熟知していたわけですが、「軟弱外交」という批判を受け退陣を余儀なくされたわけです。その結果「中日両国の将来を誤まらせ」「第三国に漁夫の利を得さ」せるる事になったわけですが、そのことを預言するかのような文章を最後に紹介しておきたいと思います。

  「欧米依存と云ひ、容共政策と云ひ、支那の対日態度をそこへ追ひ込んだ主要な原因について、支那側の云ひ分に耳を藉すことでなく、日本自ら、一度、その立場を変えて真摯な研究を試みるべきではなからうか。私は、ここで今更の如く外交技術の巧拙や経済能力の限度を持ち出さうとは思はぬ。われに如何なる誤算があったにせよ、支那に對するわが正当な要求はこれを貫徹しなければならぬ。が、しかし、戦争の真の原因と、この要求との間に、必然の因果関係があるのかないのか、その点を明かにしてこれを世界に訴へることはできないのであらうか?

 一見、支那の抗日政策そのものが、われを戦争に引きずり込んだのだといふ論理は立派に成りたつやうでいて、実は、さういふ論理の循環性がこの事変の前途を必要以上に茫漠とさせているのである。つまり、日本の云ふやうな目的が果してこの事変の結果によって得られるかとうかといふ疑問は、少くとも支那側の識者の間には持ち続けられるのではないかと思ふ。まして、第三国の眼からみれば、そこに何等かの秘された目的がありはせぬかと、いはゆる疑心暗鬼の種にもなるわけだ。ここにも私は、日本人の自己を以て他を律する流儀が顔を出しているのに気づく。」(『従軍五十日』岸田国士 昭和14年p108)