幣原外交の再評価をめぐって2――健介さんとの対話

2010年10月19日 (火)

 前エントリーで大正デモクラシーについて触れました。戦後は――とりわけ昭和の軍国主義教育を受けた世代の人びとにとって――昭和以前の日本の歴史も、戦前の昭和と同様”暗黒の時代”に見えたようです。しかし、実際には、大正デモクラシーの時代は、日本に民主政治を定着させるための政治的・経済的・社会的諸条件が整いつつあった時代で、思想的には、資本主義、自由主義、民主主義、社会主義、国家主義そして国粋主義などの思想が相克しつつ混在する、混沌とした時代だったのです。

 岡崎久彦氏は、この時代のことを次のように描写しています。

「日本の文明は、明治の愛国主義と同じように、大正時代にも、日本人が誇りをもって回帰することのできるもう一つの精神的原点を持っているのである。

 むしろ私は、大正デモクラシーが近代日本の政治、社会の原点であると思っている。それは明治維新以来、日本人が自らの手によってつくりあげた一つの飽和点であったからである。

 軍人は、日清、日露の戦いを勝ち抜き、国家の干城であるという誇りを持っていた。外交官は、日英同盟のもとに日本の安全と繁栄を盤石の基礎の上に導いた自負があった。そして経済官庁も財界も民間も、明治以来の近代化は自らの手で成し遂げたという自身があった。

 そして政党は、明治の自由党以来、何十年もの藩閥との苦闘の結果として、ついに政党政治を達成し、軍人、官僚の上にあって日本における権力の頂点に立っていた。

 つまり、それぞれが自らの血と汗で築いた自分のものをもっていて、それが政党政治の優越のもとに、チェック・アンド・バランスが機能していた時代であったのである。

 近代化の完成の自信のもとに、明治以来の日本の見直しも自由に行われた。・・・明治の世代に反逆して、自由主義、民主主義、社会主義という言葉が「臆面もなく」使われたのがこの時代である。」(『幣原喜重郎とその時代』p364)

 だが、この大正デモクラシーの混沌の中から、昭和のファナティックな国粋主義が擡頭してきたのも事実で、このナゾを解明することが、昭和史を理解する上でのキーポイントになっているのです。本稿の主題である幣原喜重郎の外交政策についていえば、氏の、国際協調を基調とした対支外交が、国民の「国辱外交」「軟弱外交」という批判を招き、ひいてはそれが満州事変を招く元凶となった、というのもその解釈の一つといえます。

 ただ、私はこの解釈は間違っていると思います。確かに幣原外交の問題点として、アメリカの対日警戒心を甘く見ていたことや、中国人のナショナリズムへの同情心から、国際共産主義の影響力を軽視したことなど問題点はあったと思います。しかし、では、そのアンチテーゼとして登場した田中(森恪)外交が、こうした問題に有効に対処し得たかというと、幣原外交よりはるかに拙劣であって、外交の基盤そのものを破壊する致命的失敗を犯したと思います。

 つまり、このどちらの責任がより重大か、といえばいうまでもなく後者で、なぜなら、彼等の真のねらいは、満州における日本の条約上の合法的権益を擁護することではなくて、その本音は、「来るべき対ソ戦争に備える基地として、満蒙を中国国民政府の支配下から分離させること。そして対ソ戦争を遂行中に予想されるアメリカの干渉に対抗するため、対米戦争にも持久できるような資源獲得基地として満蒙を獲得する」ことだったからです。(『それでも日本は「戦争」を選んだ』加藤陽子p286)*森恪は軍と共謀してそのための政治的手引きをしたという意味=筆者

 だから、満州事変の前後に起こった日本の金融恐慌、金解禁、アメリカ発大恐慌による経済的混乱とか、東北地方の冷害・凶作による飢饉・人身売買などの農村疲弊の問題は、軍にとっては「満洲占領」の正当化を図るためには好都合だったわけです。当然のことながら、外交交渉によって満州問題の解決を図ろうとした幣原の存在は目障りであり、それゆえに、日本の生命線である日本の満洲権益が危殆に瀕するようになったのは、幣原「軟弱」外交のせいだと責任転嫁したのです。

 そこで、以上の所説をさらに分かりやすく説明するために、前回の記事にコメントをいただいた健介さんとの対話を試みて見たいと思います。

 健介さん、コメント有り難うございます。

>幣原外交は理念としては優れていたが、外交としては、だめだろう。
何がだめかというと、支那に対する認識である。
幣原外交こそ長い目で見るとわが国破滅への第一歩であった。
支那の歴史の無知が示した外交に過ぎない。無知というより幻想をもっていた。

 それが、一般的な幣原外交に対する理解の仕方ですね。それに異を唱えるために私は前回の記事を書いたのですが・・・。重ねて言いますが、幣原外交と比較すべき外交は田中(森恪)外交です。当時の支那の情況が同じだとすれば、それに対応する外交方針及び外交政策として、一体、どちらがより犠牲少なく日本の国益を守ることにつながったか、ということです。

 ap-09さんへのコメントにも書きましたが、なぜ済南事件が、「共に東亜の開放の為に協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路」となったかというと、それは、これによって、”日本人は満州における権益擁護のためには、中国の統一を妨害することも厭わない”ことが、中国民衆の目に明らかになったからです。(少なくともそう受け取られた)

つまり、いかに日本の満洲における権益が合法的であるといっても、それはあくまでも、中国との合意に基づく条約上の権利なのですから、”日本が中国の宿願である全国統一を妨害した”となれば、日本の条約上の権益が尊重されなくなるのも当然です。それだけでなく関東軍は、その権益拡張のきっかけを得るために、当時中国の元首的地位にあった張作霖を爆殺した。また、政府は、その事実を把握しながら犯人を行政処分にとどめ、事件の真相を隠蔽した。(世界にはミエミエでしたが)

 これが外交的に成功したといえるでしょうか?さらに軍は、この犯人をヒーロー扱いしました。なぜか。それは「満州を武力占領すること」を軍の共通目標としていたからです。つまり、上述したように、軍は決して満洲の条約上の権益を守ろうとしていたわけではなかったのです。だから、満洲が混乱状態に陥ることは、日本軍の出動の口実を得る上ではむしろ好都合であり、済南事件もこうした思惑が招いた結果と見ることができるのです。

 また、日本は、この満洲占領→満州国という既成事実の上に、その後の問題を処理しようとしました。以上の理屈は日本人には当然であっても、他国から見るとやはり無理があった。とりわけ中国人にとっては、以上のような経緯で武力占領された満洲を、「満州国承認」という形で、自らの宗主権を放棄することは、蒋介石にもできなかったのです。革命外交の誤りを反省して”不問に付す”ところまでは妥協したのですが。

>幣原氏は一体何を支那に求めたか?
それがわからない。

 幣原の対支外交の基本は、中国の主権を尊重するということで、日本の満洲権益はあくまで外交上の問題として処理するということでした。従って、中国も、この幣原の外交方針を踏み外さない範囲で冷静に対処すべきでしたが、それができなくて、結果的に日本の満洲武力占領を許してしまったのです。では、その後、中国はどう行動すべきであったか。幣原は、昭和7年11月頃、支那に対する忠告として次のようなことを、北京に行く友人に語ったそうです。(『幣原喜重郎』(幣原平和財団)p504)

 満州事変が起きた時、私は支那との直接交渉によって、日本は正当の権益を収める。しかし同時にこれ以上満州事変を拡大することを抑えるということは一身を賭してなさなければならないと考えていた。「若しあのとき、支那の要人が私の誘いに乗って満州問題の満足な回答を与えたならば、支那は其後の凡ての戦火を免れたであろう。それをしなかった支那要人の阿呆さにあきれる。」

 「今日支那は満州国の独立を認めぬとか云って、国際連盟あたりで運動しているが、それが又愚の骨頂だ。満州国の独立は現実の存在になっている。その独立を取り消そうなどということは理論の遊技として面白いかもしれぬが、最早実際政治の領域のものではない。実際政治家の要は、この現実の事実に立脚して如何に善処するかを講究するにある。・・・満洲が独立国になった所で、支那の出様さえよければ、もともと血が繋がっているのだから、本家分家程度の人情があって支那の害にはならず、却って支那の利益になる。それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取り消しなどに騒ぐ支那の政治家の気が知れないよ」

 この幣原の言葉はあくまで伝聞であり、その言葉遣いがこの通りであったかどうかは定かではありません。これを見ると、その理想主義的外交官としての穏当なイメージとは違って、幣原の現実政治家としての側面が露出しているように見えます。このあたりが、戦後の幣原外交に対する評価を難しくしている原因のようですが、私は、ここに幣原のが現実政治家としての真骨頂が現れているのではないかと思います。(このことは、幣原のマッカーサーとの新憲法制定時の「戦争放棄」条項の取り扱いについても伺われる)

 というのは、この幣原の忠告が、昭和9年12月の「敵か友か?中日関係の検討」という蒋介石の次の反省の弁と、その後の「満州問題不問」の広田内閣への提案に反映しているように思われるからです。

(蒋介石の反省の弁)
一、九・一八事変(満州事変)のさい、撤兵しなければ交渉せずの原則にこだわりすぎ、直接交渉の機会を逃した。

二、革命外交を剛には剛、柔には柔というように弾力的に運用する勇気に欠けていた。

三、日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった。

四、敵の欠点を指摘するだけで自ら反省せず、自らの弱点(東北軍の精神と実力が退廃していること)を認めなかった。

五、日本に対する国際連盟の制裁を期待したが、各国は国内問題や経済不況で干渉どころではなかった。つまり第三者(国際連盟の各国)に対する観察をあやまった。

六、外交の秘密が守れず、国民党内でも外交の主張が分裂することがあり、内憂外患は厳重を極めた。

七、感情によってことを決するあやまり。現在の難局を打開するにはするには、日本側から誠意を示し、侵略放棄の表示がなければならない。中国人がこれまでの屈辱と侮辱に激昂するのは当然としても、感情をおさえ、理知を重んじ、国家民族のために永遠の計を立てなくてはならない。

 おそらく、この三の認識――「日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった――において、蒋介石は、広田外交に最後の望みを託したのだと思います。しかし、それが無理だと分かった時、蒋介石は日本との戦争を決意した。広田は、その「和協外交」に対する軍の妨害に屈した。私は、この時点が、日中戦争を止めうる最後のターニングポイントだったと考えています。

>つまり(幣原は)支那を知らなかった。それに尽きる。
頭がいい、誠実なおろかな人間だろう。政治家としては。

 厳しくいえば、そういうことも言えるかもしれませんね。でも、
(軍部は)支那を知らなかった。それに尽きる。
頭がいい、不誠実でおろかな人間だろう。軍人としては。
とも言えますね。

 私は、上述したように、幣原の政治家としての力量は軍部のそれにはるかに勝っていたと思います。しかし、当時の日本人には、軍のトリックも読めず、田中(森恪)外交の失敗も知らず、それに資本主義に対する信頼が揺らぐという時代状況も重なって、幣原外交への信頼を失ってしまいました。その結果、軍の満洲占領を熱狂的に支持するに至ったのです。当時の東大生の88%が、「満蒙に武力行使は正当なりや」の問いに「はい」と答えていたそうです。(前掲書p260)

 以上、日本人の歩んだ戦前の昭和の歴史を日本の宿命と見るべきか。当時の日本人にとっては、議会制民主主義や政党政治に対する信頼はまだ固まっていなかった。そのため、大正デモクラシー下の政党政治に対する幻滅が先行し、軍部の主導する、皇国史観に基づく天皇親政をダミーとする国家社会主義思想に身を委ねる事になってしまった。といっても、民主主義にはこうした危険性はつきものですから、私たちとしては、こうした経験をふまえて、民主制度の適切な運営に努めなければならないわけです。

 しかしながら、失敗はしたけれども、明治維新以来の日本の近代化の歩みの集大成として、大正デモクラシーを持ったことは、戦後民主主義復活の基盤になりました。歴史においては「無から有は生じない」といいます。その点、日本の民主主義の基盤は、必ずしも明治以降の近代化の中だけに求められるのではなくて、鎌倉時代以来の「一揆」の伝統にも根ざしています。こうした日本の歴史的・文化的伝統を再認識することが、今後の日本の民主主義の発展を図る上で極めて大切になってくる。私はそう思っています。